後編 狗狼SIDE(5)
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ゴルフⅤ GT TSIは、その確りとした車体とドアの組み合わせからエンジン音やロードノイズが車内には僅かにしか響いて来ない。
同じくゴルフVのTSI コンフォートラインが高速道路や山道でのワインディングでは、サスの柔らかさと車重が1・4トンある事により車体の上下動によるモタつきが発生し、GTIや最速モデルであるタイプR32では専用のスポーツサスペンションの固さや、固く鋭敏なステアリングの反応から走行時の路面の状態を同乗者にやや強めに伝える。高出力モデルに付きモノの燃費の悪さも長距離を行くドライバーにとっては悩みの種だ。
それに対してGT TSIは快適さとスポーティさのバランスのとれたサスペンションを選択しており、車体の上下動や路面による衝撃も運転者や同乗者に気にならないレベルで伝わる様になっている。
それに1・4トン近い車重も、ダウンサイジングされた1・4リッターTSIエンジンのスーパーチャージャーとターボの組み合わせによる最高出力一七〇馬力を引き出す性能により不安の無い物と待っている。
またステアリングの素直な反応は、運転者によってはGTIに匹敵する走行性能を引き出し、燃費では一リッターあたり十四キロ走行可能との記録を打ち立てていた。
特別秀でた点は無いが、全方位的な扱い易さを見せるGT TSIは、ある意味万能選手たるVWゴルフの理念に近いモデルではないかと俺は思うのだ。
ゴルフは二号線から左折してスバル自動車灘店とローソン銀行に挟まれた路地に入り込み、阪神本線の線路側へ向けて通りを走ると右手にセントラルハイツ灘、左手に成長した木々に囲まれた二棟の日本家屋が見えた。
日本家屋の前には黒光りする車体を持つマイバッハやメルセデスベンツのSクラスとEクラスが並んでおり、その隣には前述の三台と比較するとあまりにも小さくか弱い黄色の小型車が控えめに鎮座している。
富樫理事の愛車、ルノー・トゥインゴだ。
彼女は普段、電車とバスを乗り継いで通勤しているが、時折愛車を駆って学校へ出向くこともある。
学校の生徒達からは、丸みを帯びた車体と驚いた眼に見えてしまう丸いヘッドライトの形状、そして同じく丸を基調とした内装のデザインからカワイイと注目を集めており、理事共々人気が高いようだ。
「富樫理事、着きましたよ」
俺の呼び掛けに、富樫理事は鼻に掛かった生返事を返すだけで、白く細い喉を仰け反らすようにしてカテ公の太腿に頭を乗せたまま起きる気配が無い。
普段なら俺は、富樫理事の様な色気のある鼻声と柔らかそうな首筋を前にすると、ゴルフを移動ホテルと変化させたくなる衝動に駆られるのである。
しかし、残念ながら今は娘と後輩が同乗しているうえに彼女の自宅前なので、俺はなけなしの理性を総動員して、何の下心も無かった様に富樫理事を抱き起して肩を貸した。
「んふっつ」
「……美文さんは右肩を支えて」
立ち上がった拍子に富樫理事の漏らした声と吐息が俺の耳をくすぐるが、俺は聖人君子となって美文さんと彼女を支える。
「あーあ、ママっ完全に眠っちゃってる。ゴメン、二人共。ママを寝室まで運んでくれる?」
いや、何なら泊まっても良いが。
喉まで出かかったその言葉をぐっと飲み干す。
カテリーナが門扉に近付くと照明が灯り、インターフォンに指先を押し当てると門扉が自動的に左右へスライドした。
「指紋錠か」
「うん、家族とお手伝いの人以外は開けれない様になってるの」
カテリーナの後に続いて木々に囲まれた庭に足を踏み入れると、甘い柔らかな香りが俺の鼻孔をくすぐった。
「この香り、良い匂いでしょう。蝋梅なんだ」
カテリーナが指差した先には、黄色い小さな花を咲かせた高さ二メートル程の低木が植えられている。
「これ以外に、ジャスミン、カラタネオガタマ、金木犀、この庭は一年中、花の香りがするの」
カテリーナは両手を腰の後ろにまわして、庭を見渡す様に爪先で身体をくるりと回転させる。
「蝋梅は冬の花。今嗅いでいる柔らかく甘い香り。
ジャスミンは春の花。眩むような強い夜の香り。
カラタネオガタマは夏の花。紅い甘いワインの香り。
金木犀は秋の花。夕日の様な鮮やかな強い香り。
ママが寂しい時は庭で花を眺めなさいって。私、この家で庭が一番大好き」
振り返ったカテリーナのサイドテールの房が揺れ、静かな月夜の下、月光を跳ね返して鮮やかな金髪に幻想的な輝きを与えたことに、俺は不覚にも少しの間見惚れてしまった。
「理事がガーデニングの趣味を持っていたとはな。もっと活動的な趣味かと思っていたんだが」
「ううん、久美ママじゃなくて、本当のママ」
「……」
カテリーナの言葉に俺はどう言葉を返したものか迷い、結局無言で通した。
カテリーナは踵を返すと二棟ある日本家屋の内、少し小振りな方へ足を向ける。
「私とママの部屋はこっち」
そう言えば富樫理事は夫婦間の愛情は冷めている様な事をほのめかせていた。
ひょっとしたら家庭内別居ということかもしれない。
俺が離れの方へ足を向けると同時に、もう一方の母屋であろう家屋の玄関灯が点灯すると、年配の喉にかかった男の声が庭に響いた。
「帰って来たのか二人共。少し待ちなさい」
俺が足を止めてカテリーナの様子を窺うと、彼女はうんざりしたように肩を竦めてため息を吐く。
どうやらカテリーナと富樫理事長にとっては歓迎しかねる事態のようだ。
母屋の高そうな分厚い玄関の扉が開くと、五〇代後半から六〇代前半の黒く艶のある染めたであろう髪を後ろに撫で付け、切り揃えられた美髯を鼻の下に生やした細面の男が姿を現した。
背後に三人の若い青年を従えて庭に足を踏み入れる。
三人のうち、年嵩の二人は先頭の男性の面影を残しているから親子なのだろう。
しかし残りの一人は顔立ちが異なりやや卵型の顔をした茶髪で、なぜか紅い液体の入ったワイングラスを手にしていた。
美髯の男性はカッターシャツと焦げ茶のスラックスの上にベージュのカーディガンを羽織っており、夜更けにも関わらず身支度を整えていることからクリスマスの来客があったのかも知れない。