後編 狗狼SIDE(3)
「そういえば、去年も此処で並んで話をしていたな」
探偵が思い出した様にぼそりと呟いた。
「ああ、そうだった。そしたら」
「マオに後ろから蹴っ飛ばされて海に落とされたんだ。寒かった」
探偵がその時を思い出したかのようにぶるりと震える。
十二月の海の風は冷たい。
例えそれが、
「男共! 外で何、話してんのさ?」
「メリークリスマス!」
底抜けに明るい声であっても神戸港の水温には関係が無いのだ。
俺は背中に衝撃を感じて、埠頭の白いコンクリートから足を浮かせながらも首を捻って背中越しにその原因を確かめた。
俺の背後には富樫理事がベージュのパンツスーツに包まれた細く長い脚を上げて、パンプスの踵を俺の腰に突き刺す様な前蹴りを放っていた。
へっぽこ探偵の背後にいたマオは紅いチャイナドレスのスリットから覗く生足を惜し気もなく披露して、旋回する蹴りを探偵の尻に叩き込んでいる。
アレクセイはさらに悲惨だと断言しよう。
彼の背後からはオリガがその長い足で、ブルース・リーばりに姿勢の整ったサイドキックを彼の腰に叩き込んだのだ。
しかしアレクセイも伊達に護衛を生業としていない。
彼は宙を飛ぶ前にキャビンの箱を背後に放り投げたのだ。折角手に入れた煙草を濡らしたく無かったのだろう。
俺達を蹴っ飛ばした美女三人共、酔っている為か素晴らしい笑顔を浮かべている。
俺は前方に視線を戻した。
俺は放物線を描いて海面に向かって落下し始めており、空中で手足をバタつかせるものの状況の改善には至らなかった。
「……これが、地球の重力か」
いや、別に燃え尽きたりはしないのだが。
ちなみに飛距離は波止場に近い者から俺、へっぽこ探偵、アレクセイの順となっている。俺が一番近いのは素人に蹴られたからだろう。逆にアレクセイは俺を追い抜いて海上へ勢いよくぶつかっ、いや、海上でバウンドしてもう一度宙を飛んだ。水切り石だ。
俺も水飛沫を上げて海中に没する。
衣服に染み込む海水とそれに伴って奪われていく体温に耐えながら、俺は勘で百八十度回頭した。
船の停泊する神戸港の海面は油やごみが浮いており、出来れば海中で波止場まで泳ぎたいのだが夜の海中は暗く、水面に浮上して方向を定めなければならない。
「ぶはっ」
海面に出て息を吐きながら俺は目標とする波止場のピットを探した。
あった。左十一時の方向。
俺は背後を振り返ると、同じく海面に浮上した奥田とアレクセイに指でそのピットの方向を指し示した。
冷える冷える冷える。
人の力で蹴飛ばされたのだから波止場の麓に落ちたはずだが、沖に戻る波に攫われたのか一〇メートル程泳いで戻る事となった。
ピットの真下に着くとピットに巻き付けて海面に垂らした鎖に、かじかんで痺れ始めた指先を絡めて岸壁をよじ登る。
去年、同じようにマオに蹴り落とされた探偵がいたので、今後落とされても大丈夫な様にピットに鎖を巻き付けて海面に垂らしておいたのだ。
一年後必要になると準備時は予想もしていなかった。二年連続で落とされた探偵にはご愁傷様としか言いようがない。
俺は地面に這い上がると直ぐに事務所兼住居に向けて駆け出した。
俺の背後からは鎖の触れ合う金属音が響く。どうやら二人共、無事に鎖を見つけられたようだ。
俺は事務所のドアを開けると、俺に集まる視線を無視して事務所を横断する。
目標は浴室兼トイレのユニットバスだ。
俺は浴室に飛び込み乱暴に脱ぎ捨てた衣類を洗濯物を入れる箱に放り込むと、すぐさまシャワーの栓を捻り、徐々に暖かくなってくる湯を頭から浴びた。
身体が温まり身体の震えが治まってきたが、浴室の鏡にはまだ唇を紫色に変色させた俺が映っているから、もう暫く熱湯を浴びておこう。
背後の浴槽の扉が開くと奥田が歯を鳴らしながら入って来た。俺からシャワーを奪い取ると着衣のまま熱湯を浴びる。
「こ、こら外で待て。俺はまだ体温が戻っていないんだぞ」
さらにもう一人、アレクセイが浴室に飛び込んでくる。
こうなるとシャワーヘッド争奪戦だ。
噴き出る湯の勢いが強い為か、宙を縦横無尽に舞うシャワーヘッドを男達の手がホースを掴んで奪い合う。
しかし、何が悲しくてクリスマスに男三人が浴室に犇めいているのか、これが天の上にいる存在からのプレゼントなら、今日はそいつも無礼講で酔っぱらっているに違いない。
俺が浴室から出るとパーティーに用意された食材はほぼ食い尽くされており、祭り直後の倦怠感が室内に漂っていた。
特にお酒の入っているマオや富樫理事、フランコはうつらうつらと舟を漕いでおり、その中でオリガひとりがグラスを片手にのんびりと室内を眺めている。
「全く、酷い目にあった」
「ふふ、笑わせて貰ったよ」
俺が隣に腰掛け愚痴をこぼすと、オリガは俺達の醜態を思い出したのか含み笑いを漏らした。
「まあ、君が来るとは予想していなかったからびっくりしたよ。料理が食べたかった、わけではないんだろ」
「失礼ね。本当に料理が食べたかったのよ。まあ、それ以外の理由もあるけど」
クイッとショットグラスの縁に薄紅色の唇が当てられ、薄く開いた隙間に傾けられたグラスの中身が注ぎ込まれる。
強いアルコール臭からストレートで飲んでいるに違いない。頬に薄く朱が差す程度で飲み続けているのは、恐るべしロシア、と言ったところか。
「貴方がどんな人間で、どんな生活を送っているのか、少しは気になったから。そんな答えが欲しいのかしら」
「なんなら別の場所で一晩かけて教えてあげても良いが?」
俺の返しにオリガは伸ばした人差し指を俺の鼻の頭に当てて悪戯っぽい笑みを浮かべる。
その仕草は彼女の普段の姿にそぐわないものであるが、それが彼女の本来の姿であるかのような自然さがあった。
「こらこら、【運転手】。今日は送り迎えの仕事があるのでしょう。それに私は不必要に敵を作りたくないの」
「敵?」
「解らないようね。まあ、それだから救いがあるのかも知れないけど」
どうやら俺の申し出は却下のようだ。
「残念だな。なら一晩中飲めるバーに何時か誘わせてもらうよ」
「潰れた方が勘定を払うのね。それは面白そう」
カウンターに山のように積み上げられたショットグラスの向こうで笑みを浮かべる赤毛の美女を想像して俺は苦笑するしかなかった。
「お手柔らかにお願いするよ」
既に床に寝転がって寝入ってしまったジョセフィーナや静流さんに予備の毛布を掛ける湖乃波君を俺とオリガは静かに眺めた。
「良い子ね」
「そうだな。君の所の子もいい子だろう」
「……知ってるわ」
俺は肩をすくめて降参のポーズを取る。
「ねえ、【運転手】」
不意のオリガの声音が真剣な硬質な響きを含んだ。
「何故、貴女は妹達と一戦交えた時、手加減して誰も傷付けなかったのかしら」
「……手加減なんかしてないさ。あの子等が傷を負わなかったのは、あの子等自身が手強かったからだ」
確かにそうだ。彼女等は其処等辺のヤー公なんか足下に及ばないくらいに強かった。油断すれば、闇の中で人知れず骸を横たえる事になっていただろう。
そんな俺の感想にオリガはグラスを手にしたまま、顔を伏せて数回含み笑いを漏らした。
そして顔を上げて俺を射抜くような視線を向ける。
その青い双眸は蒼白い恒星が放つような光を浮かべて俺の背筋に僅かな戦慄を走らせた。
「あのメエーチを決闘で打ち破ったのに? 彼が妹達より劣っていた事になるわよ」
何故かオリガは俺が彼女の妹達、【慈悲深き手】の暗殺者達に対して彼女等を傷付けなかったのか、それが知りたいらしい。
ひょっとしたら、死ぬか生きるかの瀬戸際を歩き続けている女幹部にとって俺の戦い方は理解の範疇外なのかもしれない。
しかし怖い女だ。彼女の底冷えするような眼光に晒され続けていると、身の危険を覚えるどころか無意識のうちに背広の内ポケットに忍ばせた愛用のナイフ、アップルゲート・コンバットフォルダーに右手を持って行きそうになる。
しかもそれを期待しているのか、オリガの口元はうっすらと笑みを浮かべているのだ。
仕方ない。
俺は諦めて、本音を語ることにした。
意地を張ってこんな事で殺し合うのは馬鹿らしいものだ。
俺は諦めたようにため息を吐くと、額に垂れた髪を掻き上げた。
「俺は子供が苦手なんだ」
俺の言葉にオリガの片眉が僅かに跳ね上がる。
「わんわん泣かれたら、煩わしいだろ」
俺が苦笑を浮かべながら答えた事に、オリガはきょとんと目を丸くして俺を見つめた。
「……それだけ?」
「……ああ」
次の瞬間、オリガは唇の前に両掌を持ってくると堪え切れなくなったように吹き出した。
「え、ね、ねえ、それが本音? 凄い、マジ受けるんですけど」
……ご機嫌だな、アンタ。
憮然とした表情を浮かべる俺を他所に、何が可笑しいのか暫く顔を伏せて笑い転げていたが、喉の奥から引き攣る様な声を漏らすと二,三度咳き込み始める。
「あー、喉が痛い。笑い過ぎた」
「笑い過ぎだ」
「だって可笑しいじゃない」
落ち着いたのか、オリガはショットグラスに注いだ中身を飲み干してから満足したように笑みを浮かべる。
「【運転手】、貴女なら妹達を任せてもいいかも知れないわね」
「おいおい、俺は子供が」
「だからいいのよ。貴女の娘さん共々、仲良くして行きたいわね」