後編 湖乃波SIDE(4)
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御碗の中でオレンジ色に輝く卵黄に箸を突き立てると、白い雪の様な大根おろしと桜色の甘海老のぶつ切りを撹拌してよく絡める。
この魚すき用の浸けダレだけで美味しそうだけど、本命はは眼の前のカセットコンロにかけられた黒い鉄鍋の内で、ブリやサバの薄茶色やタラの白い切り身、ほうれん草や菊菜が煮汁を吸い込んで膨れていた。
私はブリの大きな切り身を箸で挟むと、先程かき混ぜた浸けダレに浸して少しだけ冷ます。
それから湯気を立てる切り身を口腔内に放り込み咀嚼する。
少し癖のある甘い味の青魚を大根の辛さが引き締めてくれるかと思えば、時折、甘海老のぷりぷりとした食感が、歯の間で潰れさらに甘い肉汁を舌の上に垂らしてくれた。
あ、この料理、けっこう好きかも。
鍋の上で煮汁に付けた魚肉を焼くだけの単純な料理だけど、魚肉の種類と組み合わせによっては複雑な味わいが楽しめる。
ほうれん草と菊菜の温められた苦みある旨味も、浸けダレに浸して食べれば今迄と違った味わいになるのは驚きだった。
「これ初めて食べるけど、すごくおいしい」
カテリーナは艶のある唇で生麩を齧ると笑顔を浮かべる。
生麩に至っては完全にデザートと言っても差し支えが無いと思う。
「うん。これ、うちの店で出せるかも」
ジョセフィーナさんはタラの切り身を咀嚼し終えると、薄褐色の彫りの深い顔立ちを綻ばせた。
彼女の長い睫と高い鼻、少し厚めの唇は波打つ黒髪と相俟って眼を引くラテン系美人の特徴を備えている。
その上、彼女の服の上からでも解る胸やお尻の突出しと、腰の括れは凄いとしか言いようがない。
「クリスマスに鍋物も良い物ですね」
斑比さんはひょいひょいと一種類ずつ切り身を椀に放り込んでから醒めるのを待つように箸を止めた。ひょっとしたら猫舌かも知れない。
ショートボブにくりくりとした丸く黒い瞳は彼女の童顔を強調しているみたいで、私より年上だけどすごく可愛いと思う。
「熱っ!、汁が飛び出た」
その隣では龍生君が斑比さんの作ってくれた魚肉餃子を口に頬張った途端、口を押えて顔をしかめた。
「あ、大丈夫ですか。水、要りますか?」
「あ、いや、要らない。熱いけど美味いから」
慌てた様に答える龍生君の姿を見て、ジョセフィーナさんは悪戯っぽく笑みを浮かべる。
「ポニーテールの可愛い子が正面に座っているから意識しているんだ。ええと、カテリーナさんだっけ」
「はい?」
カテリーナは箸を止めてジョセフィーナさんへ視線を向けた。
「二人でシャツのボタンをもうひとつ外そうか」
その言葉に龍生君だけでなく、私も切り身を喉に詰まらせそうになる。
いや、それは凄く刺激的な眺めになりそうだけど。
「そうですね。ちょっと熱くなってきましたから」
カテリーナもカテリーナで不敵な笑みを浮かべる。
「どう思う、龍生?」
ジョセフィーナさんとカテリーナは申し合わせたかのようにずいっと龍生君に向けて身を乗り出した。
「いや、お前等、食事に専念させてくれよ」
視線を上に向けて答える龍生君。
うん、ご愁傷様。
「私はスイカもメロンも持ち合わせてないからね。ねえ、湖乃波ちゃん」
「そ、そうですね」
遠い目をして呟く斑比さんの問い掛けに私は苦笑で答える。
どうして私に話を振るんだろう。一応、私は平均ぐらいはあるはずだけど。カテリーナとか静流さんとかジョセフィーナさんが大き過ぎるだけだから。
「……狗狼、俺、そっちに行って良いか? 此処は五人もいるから窮屈なんだ」
「いや、君が来たら、此方が五人で窮屈になるぞ」
狗狼は何が楽しいのか、口元に浮かんだ笑みを隠そうとせず、からかう様な口調で龍生君に告げる。
「どうしても別の席に移りたいなら、あそこの三人席に混ざって貰うが」
狗狼が視線を向けたのは、マオさんとフランコさん、久美さんの組み合わさった席だった。
丁度、|久美さんがショットグラスの老酒を一口で飲み干している。
「いいわねえ、美味しい鍋に美味しいお酒。送迎付きだから幾らでも飲める」
「同感。教育者もたまにはお酒で心の洗濯をしないと駄目よ。私なんか忙しすぎて、お酒を飲んでも酔えないからね」
久美さんの言葉に同調するマオさん。
それは貴女が【うわばみ】なだけでは、と私は胸中でツッコむ。
「あれ、老酒がもう無いぞ。どうする? ワインを開けるか、それとも狗狼のボンベイサファイアも空にしておこうか」
「ボンベイならパーティーが始まる前に空にしたわよ。ワイン飲も、ワイン」
物凄いペースで飲まれるお酒と、酔っていてもおかしくは無いけどまだ余裕そうな三人を見て龍生君は肩を落とした。
「いや、ここでいいです」
「だろうな。あそこに行けば、今以上にからかわれるぞ。まあ、ハーレムだと思って我慢しておけ」
それなら狗狼が代ってあげればいいのに。
でも狗狼は絶対にこの席には来ないに決まっている。
だって、彼は二十五歳以下の女性には興味が無いから。
「あ、私が代ってあげましょうか」
美文さんが控えめに申し出るのを、狗狼は右拳から人差し指を立て左右に振った。
「いや、それは駄目だよ、美文さん。このまま龍生を放っておいたら、何時まで経っても女性に奥手なまま人生を送ってしまう」
「そ、そんな事は無いんじゃないかな。大人になっても出会いはあると思うんだけど」
「そうか? 俺は眼の前の美女二人が、恋人のひとりやふたり、いない方がどうかしていると思うんだが」
恋人はひとりで充分で、ふたりいたら浮気になると思うんだけど。そう思っているのは私だけだろうか。
「そ、それは、私の勤め先は女学校だから出会いが無いだけで、けっして婚期を逃しているわけでは……」
美文さんの表情から血の気が引き、眼鏡のレンズが室内灯を反射して嫌な光を放つ。
「今迄の二十九年間出会いが無かったのに、これからの三〇年間出会いがあるとは限らないな」
狗狼の言葉に美文さんの指に挟まれた割り箸が音を立てて折れ曲がる。
「違いまーす。私はまだ二十九にはなっていませーん。まだ若い二十八歳でーす。きっとこの一年で良い出会いがきっとありますーっつ!」
あ、美文さんが壊れた。
別テーブルでワインをショットグラスに注いでわんこ蕎麦のごとく、立て続けに口に運んでいた久美さんが、立ち上がった美文さんを指差して大笑いしているのが目に入った。
彼方は彼方ですごく楽しそうに見える。
美文さんは少し丸顔で栗色のセミロングが似合う眼鏡美人だけど、よく理事である久美さんと一緒に居るから男性教諭が話し掛け辛いと思う。
「あ、私より年上だったんだ」
驚いて呟いた静流さんの一言に、美文さんは衝撃を受けたのか胸を押さえて「はうっ」と声を漏らす。
それこそ、今の静流さんは黒のニットシャツに黒のスリムジーンズと男性的な出で立ちだけど、普段着の彼女は白い控えめなフリルの付いたカッターシャツに青紫のロングスカートを着る事もあるお嬢様だった。
そんな彼女だから、恋人、いや許婚がいてもおかしくは無い。
「で、俺は君の眼鏡に適うのかな。こうして出会った以上、この縁を大切にして欲しいのだが」
「……えーと」
狗狼のアプローチに困った様に言葉を濁す美文さん。
まあ、狗狼の言葉に、背中合わせに腰掛けたジョセフィーナさんや斑比さんが振り返ってその光景を見ていたら返答に困ると思う。
その隣にいる龍生君は何も聞かなかったかのように平然と鍋をつついている。
私の隣に腰掛けたカテリーナも同様だった。
「……まあ、狗狼だし」
私もつい口に出してしまう。
狗狼は私の学校に寄った時には必ず美文さんに声を掛けているが、彼の申し出が通ったことは無く、常に玉砕している。
それに懲りずに狗狼が声を掛けるのは、狗狼の女好きは病気だから。
そう、思うしかない。
頑張れ美文さん! 揺らいだら駄目だよ。
私は胸中で美文さんに向けてエールを送った。




