後編 湖乃波SIDE(3)
「……私が初めてじゃ、無かったんだ」
何か釈然としないものを感じて私は視線を落とした。
いきなり背中を平手で叩かれて跳び上がる。
「ひゃっつ!」
カテリーナは少し怒った様に私を見つめてから、ふっと優しく微笑み掛けて来る。
「湖乃波。今日はクリスマスだからそんな顔をしちゃ駄目だよ」
「え、あ、うん」
カテリーナの両掌が私の頬を挟んで、親指で私の両口元を軽く押し上げた。
「ほら、キウイって言ってみて。湖乃波が心配することは無い、湖乃波が一番よく知っている事でしょう?」
そうなのだ。今は私が一緒に狗狼と暮らしており、私が彼を信じてあげなければならない。カテリーナはそう言いたいのだろう。
「……うん。ありがとう、カテリーナ」
「いいよ、私が湖乃波の沈んだ顔を見たくないだけだから」
カテリーナはそう言ってから、緑色の瞳をした双眸を悪戯っぽく細めた。
「龍生が小学一、二年頃とすると、当時のあの女性は私と同じか一つ上ぐらいの年齢だから、二十五歳以下は興味の無い狗狼にとっては女性じゃないからね」
「……そんな事を気にしてるんじゃないんだけど」
「そう?」
カテリーナはそう言って明るく笑顔を向けてくれる。
「はら、湖乃波、鍋の中の魚肉が焼ける前に準備を済ませないと。急ごう。ほら、あんたも手を休めない」
「中断させたのはお前だ、お前。湖乃波さん、気にすることは無いよ、きっと」
「う、うん。ありがとう」
「……あ、ああ」
龍生君は急いで背を向けると、猛烈な勢いで甘海老を刻んだ具を大根おろしを装った皿に放り込み始めた。
「あ、卵は私が割ります」
私も生卵を割ってその器に落としていく。
あ、何となく綺麗なコントラスト。
白い大根の上にピンクの甘海老が混ざり、濃いオレンジ色の卵の黄身が乗っかっている。
「雪原に落ちた赤い星屑とお月様」
カテリーナがスマートフォンを取り出して、芸術品を撮影した。
「そろそろ出来上がりだから俺の指示に従って席に着いてくれ」
三つの魚スキの鍋を囲む様に、狗狼の指示に従ってそれぞれ床に敷かれたクッションの上に腰掛ける。
一つ目の鍋は、私、カテリーナ、龍生君、斑比さん、ジョセフィーナさんが割り振られ、一〇代後半から二十歳までの若い世代が集まっている。
子供同士で集まって和気藹々と気兼ねすることなく食事を楽しんで欲しい。狗狼のそんな心遣いかも知れないが、ひょっとしたら子供の相手は面倒臭いので一か所に集めておこう、本音はそんなところかもしれない。
二つ目の鍋は、狗狼、奥田さん、美文さん、静流さんが割り振られ、狗狼の言葉を借りれば【優雅な夕食組】で食事と少量のお酒を楽しむ人達の席らしい。
三つ目の鍋は、マオさん、フランコさん、カテリーナのお母さんである久美さんが割り振られ、子供や一般人立ち入り禁止の上級者コースらしい。
この席では食事よりお酒が重視され【幹部クラス】の集う魔窟だそうだ。
「さて、みんな付けダレの器は行き渡ったか? じゃあ、クリスマスパーティーを始めるか。まずは今日の主賓である未成年組の挨拶からどうぞ」
黒背広にサングラス姿の、一見、地方局のマイナーなカラオケ番組の司会者の様な狗狼がお玉をマイク代わりにして私達を手で指し示した。
私はワケも解らず指先を自分に向けた。
うんうん、と狗狼が頷く。
「……」
え、いきなり振られても何を言えば良いのか解らないよ。
カテリーナが戸惑う私のお尻を叩いて無理矢理立たせる。
一斉に湧きあがる大人達の拍手に私は圧倒された。
「あ、ええと、今日は急なクリスマスパーティーの招待に応じて頂きありがとうございます」
私は深々とお辞儀をしてからこの事務所に集う人達を見回す。
「私は今迄、母と二人でクリスマスを祝ってました。クリスマスツリーを飾る事の無い、何時より少しだけ豪華な食事と文房具等のプレゼント。細やかながらもそれは特別なものでした。でも、母を失くしてから、私は誰かとクリスマスを祝う。その事を忘れていました」
私は隣に腰かけて私を見上げる、エメラルドグリーンの瞳をした一歳年上の親友を見下ろした。
「私の親友がクリスマスパーティーを開こうと急な提案に応じてくれなければ、私は通りの夜を過ごして、今日ここに来てくれた人達、今日初めて会った方の顔や、此処で過ごしてから知り合った人達の今夜だけの笑顔を知らずに過ごしたと思うのです。だから、ありがとう」
カテリーナははにかむ様に微笑んで目を伏せた。少しだけ恥ずかしいけど、彼女にそう言いたかった。
「そしてこのクリスマスパーティーを開く為に力を貸してくれた、此処にはいない【魚政】や【北浜漬物店】、【田口青果】の商店街の人達と料理を提供してくれた人達に感謝します。今夜、貴方達と一緒に過ごすことが私にとってのクリスマスプレゼントです」
私はもう一度、今日集まってくれた人達に向かって頭を下げた。
意識してあと一人、お礼を言いたい人の名前を出さなかったのは、二人だけの時に言いたいからだ。
この場で口にするのはすごく恥ずかしかったから。
「じゃ、次はカテ公だな」
「ううっ、仕方ないなあ。じゃあ湖乃波への愛の公開告白をこの場でしちゃおうか」
「ええっ、それは困るよ!」
「飲んでも無いのに酔うな、未成年」
腰を上げ乍らカテリーナの口にした冗談に私と狗狼にツッコミが同時に入った。
「とりあえず自己紹介から始めちゃうか。ええと、私は湖乃波と同じ学校の高等部に通うカテリーナといいます。そして一〇年後には此処の主である黒服のお嫁さん、もしくは恋人になる予定です」
「ええ!」
「うおーい」
カテリーナ、それは爆弾発言だよ。
びっくりして狗狼へ眼を向けると、狗狼は抗議の声を上げていたけど苦笑を浮かべているだけだった。
最初から冗談と決めて掛かっているのか、それとも二十五歳以下の女性の言葉は耳に入らないのかもしれない。
「冗談はさておいて、湖乃波。貴女からクリスマスパーティーを開こうと聞いた時、とても嬉しかった。クラスメイトやクラブの人達からクリスマス会に出席する事はあるんだけど、ワザと楽しい振りをしていることに疲れて、家族とのクリスマスを過ごす事を理由に退座してたんだ」
カテリーナは自嘲するように口元を歪めた。
私もクラスメイトから誘いを受けても母とのクリスマスが大切で断り続けていたら、いつからか誘われなくなっていたけど、カテリーナは必ず出席して学校内でのお嬢様を頑張って演じていたんだ。
「でも今日はパーティーが始まる前から料理を作ったり、クロさんの顔なじみと話をしたり色々楽しかった。だから今から始まるクリスマスパーティーが楽しみで楽しみで、すごく嬉しいの。湖乃波、ホントにありがとう」
カテリーナは顔を上げて狗狼、そして久美さんに微笑み掛けた。
「クロさん、ママ、有難う。クロさんがママを誘ってくれなかったら、ママがそれに応じていなかったら私は義父に今日はこのパーティーに出席する事を言えなかったかもしれない。とても感謝してる」
「そうか? 俺は君の美人なお母さんをパーティーに誘いたかっただけだが」
「私はお酒を飲む口実が欲しかっただけ」
カテリーナの感謝の言葉に、まるで口裏を合わせたかのように答える二人を。、カテリーナは眩しいものを見るかのように目を細めて微笑んだ。
「うん、解ってる。でも、有難う」
うん、私も解る。二人とも素直じゃないんだ。
カテリーナは話し終えると垂直に腰を下ろして掌で顔を仰ぎながら顔を伏せる。彼女の頬にはうっすらと朱が差しており、彼女が照れているんだと直ぐに解った。
「な、何か、改めてお礼を言うのも恥ずかしいよね」
「うん、そうだね」
私とカテリーナへの拍手が止むと、狗狼はおたまを私の正面に腰掛けた龍生君にぐいっと突き出す。
「よし、トリは龍生だな」
「なんでだよ! 俺はみんなと初顔合わせじゃないだろ」
龍生君の抗議に狗狼はしょうがない奴だなあ、とでも言うかのように嘆息して腕組みをする。
「そりゃ、お前が湖乃波君と同じ中学三年生だからだ。湖乃波君とカテ公、そこの金髪の悪魔とは年齢も近い。これから三人でつるむ事もあるだろうから自己紹介しておけよ」
龍生君は私とカテリーナに一瞬だけ視線を向けると、「しょうがねえな」と後頭部を掻いてから腰を上げた。
私が床に座りこんだ姿勢から龍生君を見上げているからかもしれないけど、龍生君の一八〇センチ近い身長はかなりの迫力がある。
「えーと、俺は神陵台中学校三年の根神 龍生と言います。皆知っているだろうが、俺は狗狼と奥田さんの幼馴染が俺の両親で、小さい頃から二人やマオさん、フランカに面倒を見て貰っている。今は親父も母さんも海外で仕事中で自由な独り暮らしを満喫しています。以上」
そそくさと腰を下ろしてそっぽを向く龍生君へ、狗狼は何か疑問に思ったのか、僅かに首を傾げた。
「なあ、ポニーテールと大きいおっぱいが好きな事は言わなくてもいいのか? 雑誌を買うぐらい好きなんだろう」
「今、ばらす事かですか!」
ぶわっと顔を赤らめて狗狼に抗議する龍生君。




