幕間 其の一 アリョーナ編
幕間 其の一 アリョーナ編
「アリョーナ、大変大変!」
ドアをノックする音に私が返答する早くドアが勢いよく開かれる。
ノックをする意味が全然無いんですけど。
今日は冬休み前の終業式の為、早くに学校から引き揚げた私が、学校から出された課題を早めに片付けようと机に着いた矢先であった。
私の部屋に飛び込んで来た人物は、私のしかめっ面を気にした風も無く足早に私の机の側に歩み寄ると、私に覆い被さるようにして身を寄せる。
「本当に、大変なのよ、アリョーナ」
私は椅子を回してその人物に向き直る。
困った事に、その人物は先程まで部屋で自堕落タイムを満喫していたのか、緑色の着古してよれよれになったスエットと白地に水色縞模様のショーツだけの人には見せられない姿であった。
ブラジャーも着けておらず彼女が身動ぎする度に、大きな胸が揺れているので形が崩れないか少し心配だ。
「……オーリャ姉さん」
「たい、ん、何、アリョーナ」
「また、こたつで寝てたでしょう」
呆れた様に私が訊くと、姉さんは誤魔化す様に視線を天井に向けて「あはは……」と跳ね上がった後頭部の赤い髪の毛に手をやった。
「オーリャ姉さんも私もそれ程肌は強くないんだから、こたつで寝ると低温火傷するよ」
「んー、でもこたつで寝るのは日本の伝統だし」
「そんな伝統聞いた事ありません」
「ちぇーっ」
口を尖らせてそっぽを向く。小学生ですか、貴女は。
オーリャ姉さん、オーリャはオリガの愛称で、姉さんはシベリアの民を祖とする犯罪組織【聖なる泥棒】の幹部であり、私達の暮らすこの場所【城】の支配者であるセルゲイ・セレズニョフの養女だ。
そして【聖なる泥棒】内部で恐れられる懲罰部隊【慈悲深き手】の極東部隊隊長でもある。
仕事中のオーリャ姉さんは黒のパンツスーツに同色のカッターシャツ、赤い無地のネクタイを身に付けており、姉さんの赤い艶のある長髪と切れ長の両眼から覗く冷たい光を放つ青い瞳が、姉さんの端正な美貌を引き立てている。
でもOFF時のオーリャ姉さんは、この通りルーズ過ぎる格好だ。
「それにその恰好、その恰好で歩き回らないで」
「え、おかしいかなあ」
自分の服装を見下ろして首を傾げる姉さんに、私は自分の額に指先を当てて頭痛を堪える。
「でも部屋を出る前にスエットを着たからいいでしょう?」
「……」
自分の部屋でも服着ろ、服!
「オーリャ姉さん。私や【日向葵】、【真珠】だけが此処に住んでいるならその恰好で構わないけど、他にもセルゲイや【蜘蛛】達の眼もあるから気をつけて」
「えーっ」
面倒臭そうに姉さんが抗議する。
でも駄目。特に【蜘蛛】の前では何時もの様に黒のシャツに同色のパンツスーツで格好良く振る舞って欲しいのだ。
あの子は姉さんを慕っているみたいだから。
【蜘蛛】は私達が【城】に入るより前から【慈悲深き手】に属していた暗殺者だ。年齢は私達より下だが、【聖なる泥棒】のメンバーとしてのキャリアは姉さんと同じぐらいだ。
何時からか彼女が姉さんから命令を受け取る時、凄く嬉しそうに目を伏せる時がある。それに彼女が黒のパーカーを愛用しているのは、姉さんが黒いスーツを着ているから御揃いの心算なのだろう。
もし姉さんが今の恰好で廊下をうろついて【蜘蛛】に遭遇したら、格好良い姉さんしか知らない【蜘蛛】の受けるショックは如何ほどのものか、想像したくないものだ。
「それで、何が大変なの?」
「そうそう、そうなの、アリョーナ。驚かずに聞いてね」
オーリャ姉さんは電話越しに聞くと寝起きの男性と間違いそうなハスキーヴォイスを更に低く小さく声を潜める。
姉さんの真剣な面持ちに私も固唾を呑んで彼女の一言を待った。
そう言えば今朝、セルゲイから、今日はオーリャ姉さんを目の敵にしている【聖なる泥棒】の幹部が【城】に顔を出して来ると聞いた。
ひょっとしたら無理難題を吹っかけられたのだろうか。
「アリョーナ、私も今日知ったのだけど」
「……うん、何?」
「……外の森に未確認生物がいるの」
「……」
今、私がどんな顔をしているか鏡で見てみたい。
でも姉さんは真剣な面持ちを崩していない。真剣そのものだ。
「……姉さん。昼間っからウオッカは飲まないでね」
外の森と言うのは私達の住む【城】に通じる私道脇の雑木林の事だろう。
そもそも、あそこは野犬が入り込んで危ないと理由から、誰かさんの手によって立ち入り禁止地帯と化していたはずだ。
ワイヤートラップで動作するNSV重機関銃や金属球を撒き散らすクレイモア、圧力式スイッチと連動した榴弾、木の枝をたわませて作られたRPG自動発射装置など、誰かがうっかり入り込もうものなら【城】の洋館ごとこの世から永久に旅立つことが出来る危険物が設置されている。
門番など警備についている者達からは一刻も早い撤去との声が上がっているが、設置者が何処に何を仕掛けたか覚えてないらしく、撤去はほぼ不可能だろうと結論が出た。
その仕掛けた本人がその場所で未確認生物を目撃したのだ。
「それで、何、未確認生物って、何がいたの」
正直言って、ややこしくなりそうで訊きたくは無かったけど、訊かなかったら訊かなかったらで拗ねて手に負えない事は想像出来たので一応訊いてみる。
「うん、【怪奇、トナカイ人間】」
「……」
私の耳はおかしくなったのか、それにオーリャ姉さんは何故、こんなにも嬉しそうなのか。
「ごめんなさい、オーリャ姉さん。私、よく聞き取れなかったの。もう一度聞かせて」
「トナカイ人間だけど。ちゃんと一本だけど角があって馬面でこげ茶色の体毛だった。ただ可笑しいのはトナカイだけど二足歩行してスーツを着ているの。ね、可笑しいでしょう?」
摩訶不思議のは貴女の頭の中だ!
「姉さん、日本にトナカイはいないと思う」
「だから未確認生物」
「それに二足歩行もしないし、背広なんか絶対に着ていない」
「未確認生物」
「誰か悪戯でそんな恰好をする必要性も考えられないし」
「未確認生物って、日本の造語でUMAって言うらしいね。トナカイだけど」
私は額に指を当てて深く深くため息を吐いた。
揺れる木の枝の見間違いか、それとも寝惚けていたための幻覚か。どうやってオーリャ姉さんにそれを納得させよう。
私は頭痛すら湧き始めた頭をフル回転させて姉の納得す答えを見つけようとした。
「私の部屋の窓から外を眺めていたら、偶然トナカイ人間が森の中を歩いているのを見つけたの。びっくりしたけど急いでドグラノフで狙撃をしたら、ふっと姿を消してそれっきり現れなくなった。ホント、驚いたわ」
「驚いたのはこっち、何やってんの!」
誘爆したらどうするの、このポンコツ姉!
「断言する。あの森の中を平気で歩ける人などいないし、トナカイ人間なんて絶対この世にはいないから。オーリャ姉さんの見間違い!」
がーと捲くし立てる私に、オーリャ姉さんは「ううう」と唸るとぎゅっと胸前で両拳を握った。
「いるもん、トナカイ人間、絶対いるもん。あの森にいるもん!」
豊かな胸を揺らして反論するオーリャ姉さん。
早く【日向葵】帰って来ないかな。
私は姉同然の同居人と二人で、この手間のかかる姉をなだめる苦労に思いを馳せると、そっとため息を吐いた。




