前編 狗狼SIDE(10)
部屋から出ると【真珠】の部屋のドアの隣に背を預けてもたれかかった人影がおり、俺とアレクセイはぎょっとしたようにその人物を振り返る。
二人とも扉の向こうの気配に気付かなかったのがその理由だ。
だがその人物を目にすると俺は納得してしまった。この娘ならその程度やってのけるだろう。
「ひと月ぶりだな。確か【騎手】だったか」
ヤマハFZ250を駆る赤毛の少女は俺の挨拶に頷いた。
彼女はセミロングの光沢のある赤毛を盆の窪の上で纏めて流し、アーモンド形の長い睫に青い瞳の両眼とすらりとした鼻梁の下に薄紅色の唇をもった瓜実顔の美人だ。
また背丈も一七〇センチ以上あるうえ、前回のFZ250のボディカラーに合わせたブルーとシルキーホワイトのライダースーツでは日本人離れした彼女のスタイルの良さを惜しげもなく披露していた。
今日はライダースーツでなく白のコットンシャツにベージュのセーターと水色のワイドパンツ姿であるが、それでもセーターの双丘は盛り上がっており、腰の高さや足の長さは十分に想像できるものだ。
これが大人になると、彼女の姉の様に無敵のスタイルに育つのだ。
「足は、もう大丈夫なのか」
彼女は大丈夫であることを見せつける様に左足を軽く宙に浮かせると足首を左右に振る。
「このとおり、もう治った」
「それは良かった」
【騎手】、これは【聖なる泥棒】での呼び名であり、彼女の本名はアリョーナと言うらしい。
彼女はセルゲイの抱える懲罰部隊【慈悲深き手】に属する暗殺者であり、敵対組織への攻撃から【聖なる泥棒】内での掟を破った者への断罪など血に塗れた仕事を受け持っている。
その実力は確かであり、ひと月前のSAで彼女と死闘を繰り広げた結果、俺が辛うじて勝ちを収めたが、それは彼女が左足首を痛めていたからであり本来の彼女の実力では勝敗がどうなっていたかは解らなかった。
「……ケーキ、有難う。オーリャ姉さんと年長の皆に配っておいた」
「それは助かる。そうか、あのおっかないボスも食べるのか」
【騎手】の姉であるオリガは、【慈悲深き手】の主である役目をメエーチより受け継いだ。
外見はアリョーナと同じく赤毛のロングヘアーに黒シャツ、黒背広姿の絶世の美女だ。
しかし散弾銃で人の足を吹き飛ばしたり、対戦車ライフルを連射するなど美女にあるまじき攻撃的な一面を持っている。
「うん、嬉しくて皿ごと頭上に持ち上げてピルエットしていたわ。……どうしたの?」
「いや、人違い、じゃないよな?」
悪いが全然想像が出来ない。というより怖くて想像出来ない。
アレクセイも同様に信じられないといった顔をしている。
まあ、命が惜しくない時に本人に訊いてみよう。おそらく一生そんな機会は無いだろうが。
「……【真珠】と話したの?」
後ろ手に手を組んで壁にもたれたまま【騎手】は聞き難そうに視線を床に向けた。
「ん、ああ。謝っておいた」
「……そう」
【騎手】はサンダルを履いた左足首をぶらつかせながら、それに視線を落としていたが「ふたりとも優しいから」と呟く。
二人って、オリガと真珠か? 俺がそう尋ねると【騎手】は困った様に笑みを浮かべて「それも、あるかな」と顔を上げて宙を見上げる。
彼女のその仕草に俺は苦笑を浮かべざるを得ない。
「それに負けず劣らず、優しい奴がいるんだが」
「?」
「【真珠】の事が気になって、外で話を聞いていたんだろう」
俺の指摘に【騎手】はひとつ頷く。
「【真珠】の優しさは、君の優しさと強さでもあるんだ」
【騎手】は俺の口にした言葉に驚いたのか、目を見開いて俺の横顔へ視線を向ける。
「誰かに優しくされると、別の誰かに優しく出来るものさ。世の中には例外もあるが」
そう言ってから例外は苦笑を浮かべた。
それに浸かって生きる事を潔しとしなかったから、こんな底辺でのたうっているのだ。
「あ、ブレードいたーっつ。ケーキ御馳走様ーっ」
俺と【バイケル】を探していたのか、一昔前の女学生のような黒髪のボブカットに青い瞳の幼女、いや、【日向葵】が喜色を顔中に広げて手を振って走り寄って来た。
緑色の綿毛の様なセーターと淡いピンク色のスカートの組み合わせに、桜餅を連想したのは俺だけであろうか。確かに彼女の柔らかそうな頬は引っ張ると際限なく伸びそうであるが。
しかし彼女はあのケーキを食べたのか。
甘さ控えめのはずだが、やはりケーキは甘いものらしい。
「君、あのケーキは苦くなかったのか。甘みといえばスポンジ生地と上に乗せられた白い苺程度で、君等の年齢ではもっと甘いほうが好みだろう」
「ううん、学校の帰りにケーキ屋に寄るときは、甘さ控えめのブランデーケーキをたのんでいるよ」
【日向葵】の平然とした回答に、俺は思わず彼女の幼い顔を凝視した。
最近の中学生は学校の帰りにケーキ屋へ寄るのか。
湖乃波君の学校では保護者の許可がないと、下校時の買い食いは建前上、禁止してあったはずだ。
まあ、俺も子供の頃は下校時に中華街に寄ったり、「下校時はまっすぐ帰るべし」とされていた校則に違反しまくっていたから人のことはどうこう言えないが。
しかし俺の想像では、この少女が高級なケーキ屋でコーヒーカップを片手に、皿の中央にある小さなブランデーケーキを小さなフォークで切り取りながら口に運ぶ光景に、どうしても違和感が生じるのだ。
ああいうところはケーキを食べる目的より連れ合いと談笑することが目的であり、いちいち一口ごとにナプキンで口元を拭わなければならない。
「うーん、君の印象では皿の縁いっぱいにまで広がった大きなパンケーキに、生クリームとシロップをふんだんにかけて、満面の笑顔で両手にナイフとフォークを持っている方が似合うと思うんだが」
「全然違うよ。私はお姉ちゃんだからそんな食べ方は卒業したの」
腰に手を当ててわずかに背を反らし、姉ェ、と得意げな顔になる【日向葵】の背後から深くて低いが通りの良い声が掛けられた。
「あら、【日向葵】、貴女、一昨日の晩に食堂で段重ねしたホットケーキをニコニコ顔で運んでいたわね。あんなにマーマレードのジャムを塗ってたらまた体重が増えるわよ」
「……ほお」
そうか。パンケーキではなくホットケーキか。それに生クリームとシロップでなくマーマレードジャムねえ。
妹である【騎手】を超える長身と、そんじょ其処等のモデルなど歯牙にも掛けないような美貌とスタイルを併せ持った、無造作に伸ばした赤毛のロングヘアーをなびかせた二〇代後半の女性が颯爽と歩いてくるのを俺は視界に入れた。
黒いパンツスーツに黒のカッターシャツの黒づくめに、赤いネクタイが彼女の艶のある赤毛と相まって見るものに強い印象を与えている。
黒のショートブーツを履いているにもかかわらず足音をひとつも立てないのはどういった技術か。
彼女のうりざね顔にあるアーモンド形の相貌と挑戦的な光を放つ青い瞳、高く整った鼻とその下にある僅かに笑みを浮かべているような紅色の唇と、構成する部品ひとつひとつが神造の工芸品と呼んでも差支えがないものだ。
【聖なる泥棒】の幹部であり【城】の主であるセルゲイ・セレズニョフ。その義理の娘であり、自身も暗殺集団【慈悲深き手】を率いる女性幹部で名前をオリガという。
俺が意外に思ったのはひと月前の彼女は、一目見ただけで俺を不安にさせた静かな暴力的な雰囲気を纏っていたが、今は穏やかな年長者の風格で【騎手】や【日向葵】に接している。
【シベリアの掟】で妹たちを纏める、例えれば新選組の土方歳三のような人物だと思っていたが、どうやら見当違いのようだ。
その証拠に【日向葵】を見下ろす彼女の相貌は、優しく慈愛に満ちていた。
「一人で食べてないよ。ちゃんと【蜘蛛】にも分けてあげたもん」
「そうね、あの子は一枚でお腹がいっぱいになったけど、貴女は二枚を平然と平らげたんでしょう。【蜘蛛】がびっくりして私に報告してきたくらいですからね」
「うう」
「そのカロリーはお腹じゃなく別の所に付いているからいいけど、体重は増えるから気をつけましょうね。御姉ちゃん達より貴女の体重が重かったら恥ずかしいでしょう」
ひょいっとオリガの指先が【日向葵】の外見と比較して大き目に育っている胸のふくらみを指さした。
【騎手】がその形の良い口元を綻ばせる。
笑い声を嚙み殺しているのは一目瞭然だ。
「だから、私がお姉ちゃんだって」
もーっ、と頬を膨らませて抗議する【日向葵】はどうひいき目に見ても、俺が今迄に遭遇した【慈悲深き手】の少女たちの中で最年少としか思えない。
おそらく何事もなければ彼女たちの輪の中に【真珠】も混ざっていたのだろう。
そして彼女達の会話を微笑みを浮かべて聞いていたに違いない。
ホント、嫌になるな。
ふと、【真珠】と湖乃波君の印象が重なり、俺は閉口せざる得なかった。




