前編 狗狼SIDE(9)
【真珠】の少し丸顔だが白く柔らかそうな肌と東欧特有の澄んだ青い瞳の輝いていた両眼は、彼女の揺らぐ度に音を立てるようなミディアムショートの銀髪に右目が隠されている。
ピンクのパジャマと羽織ったクリーム色のカーディガンが彼女の柔らかい雰囲気に似合っていた。これを見立てた人物は彼女の事を大事に思っているんだろう。
彼女の右顎下から左首筋へ斜め下に下がる白く盛り上がった傷跡は、彼女の声が聞けないことを俺に知らしめていた。
俺は開いた両手を腰の横で小さく円を描く様に上下に回す。
「?」
俺の仕草に部屋の主である【真珠】は軽く首を傾げて目を丸くする。
おかしいな。ひょっとして間違えたか?
俺の記憶ではロシア語の手話で「こんにちは」を表す動作だったはずだが。
念の為、俺は右手の人差し指と中指を立てて俺の顔の前に立ててから、両手の人差し指を肩幅に離して立てて人差し指同士が挨拶するように内側へ曲げる。
次の瞬間、【真珠】が笑みを浮かべて彼女も同じ仕草を返して来た。
俺は安心して机の横の椅子に腰を下ろす。
「……今の動作は何だ?」
「最初がロシアの手話で【こんにちは】、次が日本の手話で【こんにちは】だ。残念ながら俺はロシア語が読めなくてな。あと二、三語でネタ切れだ」
アレクセイの質問に肩を竦めて答えると、ベットの上に腰掛けた【真珠】は嬉しそうに笑みを浮かべる。
手話というものは世界共通でなく、それぞれの国で異なったものだ。それぞれの国の言葉をジェスチャーで表していると思ってくれれば納得出来るだろう。
ロシアでのろう教育は歴史が古く、手話、指文字、手文字等複数の方法が確立されている。
本を取り寄せたのはいいがその説明を読むのに時間が掛ってしまい、肝心の手話まで辿り着けていないのが現状だ。
彼女は伸ばして毛布を被せた両股の上に置いたタブレットを手に取ると、ギリシャ文字によく似たロシアのキリル文字が並んだ画面を人差し指で素早く押していく。
それから彼女は俺にタブレットの画面を向けてから恥ずかしそうな笑みをこぼす。
文章が二つに分かれており、上の文章が打ち込まれたロシア語、下の文章は翻訳された日本語だろう。
「何々、『私が手話を覚えたのは日本に来てからで、ロシアでは手帳に字を書いていました』」
成程、俺は無駄な努力をしたものだ。
苦笑する俺の表情を見て、彼女は慌てた様にタブレットに文字を打ち込む。
『でも、わざわざロシア語の手話で挨拶してくれて嬉しいです』
俺はタブレットに表示された文字を読むと、こめかみに握り拳を当てて顔をなぞる様に顎下までずらした。
「これは【ありがとう】、そして」
胸の前で自分に向けて掌を開き、素早く上下に動かす。
「これが【喜ぶ】。君がそう言ってくれると努力した甲斐があった」
少女は大きな青く丸い瞳を優しげに細めると嬉しそうに微笑んでくれた。
しかし、その笑顔は俺にとっては少々胸の痛くなるものだ。
少女の前髪で隠された右目、その中の瞳は左目の澄んだ青と異なり灰色に濁っている。
また顎に隠れるように半円を描く縫合痕は、おそらく顎の骨折を治療する為にプレートを入れているのだろう。
そして彼女の小さな体躯も蹂躙されており、まだベッドから起き上がって歩くことは出来ないはずだ。
「……」
ひと月前、彼女へ許されざる行為に及んだ男は俺の手で葬ったが、そんな事は彼女の救いにならず、ただ俺の溜飲が少し下がった意味のない行為だった。
問題は俺が、その馬鹿野郎に要求に応じて、この秘密クラブ【城】に連れてきたことだ。
その結果、【真珠】と呼ばれる彼女は傷付き、メエーチや後藤が命を失う結果となった。
黙り込んだ俺を気にしてか、【真珠】が下から俺の顔を覗き込む。
『どうかしましたか?』
タブレットには俺を気に掛けている文字が浮かんでいる。
俺はサングラスを外して彼女の不安げな瞳に眼を合わせた。
「……済まない」
どんなに言葉を紡ごうが時が戻るはずは無く、俺の謝罪はその一言が精一杯だった。
「……」
真珠は訳が分からないと言ったように目を見開いて俺を見返す。
「……思い出すのも嫌だろうが、君に乱暴を働いた奴は俺の客だった。全ての責任は俺にある」
【真珠】の眼に動揺が走る。恐らく僅かにしか見えないだろう灰色の瞳が俺を映す。
「君の痛みがどんなものか俺には解らない。いや、軽々しく解るといってはいけない」
助けを呼ぼうとしても、彼女に声は無い。
いつ終わるとも知れない暴行を、この小さな娘は気を失うまでたった独りで耐え続けていたのだ。
「ただ、君は俺に君の受けた痛みを報復する権利がある。君が望むならどんな罰でも受けよう」
こんな提案、柔らかい笑顔を浮かべる銀髪の優しい少女には似つかわしくない。我ながら愚かな提案だと思う。
だが、俺はそれ以外どうすればいいのか答えが欲しい。
そして俺は、更に己の都合の良い、恥知らずな願いを口にしなければならない。
「ただ、その罰は三年だけ待ってほしい。俺は今、長期の依頼を受けている。その依頼が終わるまで待っていて欲しい」
「……」
俺が口を閉じると、俺を見上げる真珠の両眼から雫が一筋流れ落ちた。
傷付けられた当時の痛みを思い出したのか、しかしその雫は済んだ青い瞳から流れたものも濁った灰色の瞳から流れ落ちたものも、窓から差し込む光を反射して宝石の様に輝き、柔らかい頬の上を滑り落ちる。
『いやです』
彼女の震える指がタブレットの上をゆっくりと往復する。
『私は、まだ、約束を果たして貰ってません』
彼女の意表を突く返事に、俺は一瞬、呼吸を止めて、彼女の顔とタブレットを見返す。
「……そうだな」
確かに約束した。
俺は彼女と初めて会った日に、彼女の背中に向けて声を掛けた。
ドライヴに行こう。
「……それで君はいいのか?」
【真珠】は二度頷くと邪気の無い笑顔を向けて来る。
俺は困ってサングラスを掛けるしかない。
「……そうか」
この娘はひょっとしたら自由に歩けないかもしれない。そんな未来の可能性が在るにも拘らず俺に向けて笑顔を見せた。
なら、俺は微力ながらそれに答える事としよう。
「俺は【城】の会員になったんだ。君が治ったなら真っ先に俺が指名させて貰おう」
【真珠】は俺の言葉に呆然と見上げていたのだが、会員が指名する行為について思い至ったのか、白い相貌を一気に朱に染め上げた。
この反応に、俺も少々面食らう。
「いや、勘違いしないで欲しい。君を一日借りてドライヴに行こうってことだ」
俺の言葉に口を、わあっ、と開いて眼を輝かせる。
この白磁の洋館内でしか自由の無い彼女に、四〇過ぎのおじさんがしてやれることなんかこの程度だ。
だから、その日は運び屋のプライドに掛けて精一杯エスコートさせて貰おう。
「じゃあ、用も済んだし帰る事とするか」
そう口にして、俺は忘れていたことを思い出した。
「その机の小箱、ショートケーキが入っているから食べておいてくれ。少々大人の味だが君にはその資格がある」
俺は腰を上げてアレクセイを促す。
「じゃあ、次に会う時は明るい太陽の下だ。メリークリスマス、【真珠】」
『あるがとう、メリークリスマス』
【真珠】が別れの挨拶を打ち込んだタブレットを顔を隠すように前に掲げる。
礼を言わなければならないのは俺の方だ。
何となくこの娘には一生頭が上がらないんだろうな。そんな予感を抱きながら俺は後ろ手にドアを閉じた。




