前編 湖乃波SIDE(6)
3
「た、ただいまー」
一旦、ドアの脇に両肩に下げた荷物を置いてからドアを開ける。
誰もいない事が解っているけど、帰っていたことを挨拶するのは私の昔からの習慣だ。
「よいしょ」
一つの袋には北浜の御婆さんから渡された漬物で、大根の葉と白菜の漬物に柚子を擂って散らしたものだ。
私と【魚政】のおじさんの会話が聞こえたので、それに合う付け合わせの漬物を用意してくれた。
甘辛くなりがちなスキ焼の口直しとして、合間に口に運ぶと美味しいそうだ。
おばあさんの話によると、【魚スキ】は関西で昔によく食されていたようで、牛肉の普及と共に家庭で食する機会が減っていったらしい。
「コツは異なる魚肉が混ざらない様にきっちりと野菜で仕分ける事、わりしたは濃くなりすぎて牛肉より味の薄い魚肉の素材の旨味を消さない事」
北浜の御婆さんはそう言って、メモ用紙に出汁から作るわりしたのレシピを記入して渡してくれた。
一つの袋は【田口青果】のおじさんに渡されたもので、珍しい苺【初恋の香り】のパックが三つ詰まっている。
【初恋の香り】は果肉が白みの強い薄いピンク色で、赤い苺とは異なった甘みのある苺らしい。
一個試食させて貰ったけど、甘い香りと味の柔らかい食感をした不思議な苺で、これは何個でも食べれそう、というのが私の正直な意見だ。
正直に感想を田口青果のおじさんに述べると、おじさんは相貌を崩して「そうだろう、そうだろう」と嬉しそうに頷いた。
これからオーガニックケーキ専門店のシェフが二十五個ほど注文してくれたので、そこから販売ルートを広げるつもりらしい。
という事で、三パック計十五個の【初恋の香り】を何故か私が頂くことになった。
「うん、変わっているけど美味しいクリスマスパーティーになりそう」
私は冷蔵庫に漬物とイチゴのパックを放り込みながら今日の晩に想いを馳せていると、来客を知らせるブザーが応接間兼台所に響き渡った。
「はい、今出ます」
【魚政】のおじさんが魚を届けてきたのだと思い、私はぱたぱたとスリッパの音を響かせ、喜色満面でドアの取っ手に手を掛けると勢い良く開け放つ。
「……」
最初に目に飛び込んだのは黒いポケットの多いジャンバーの様なものを黒い長袖シャツの上に羽織ったやや細いががっしりとした上半身だった。
ジャケットは所々穴が開いておりその向こうに金属の光沢のようなものが見えるのが気になる。
左胸ポケットの上には落下傘に吊り下げられた頭蓋骨のイラストと「Down to hell」文字が刺繍されたワッペンが縫い付けられており、なんとなく軍人さんが着ていそうだ。
「……」
視線を上げた。
そこには不機嫌そうにむすっとした表情で私を見下ろす細面で目つきの鋭い青年? ひょっとしたら少年かもしれない顔があった。
背が高い。ひょっとしたら一八〇センチ以上あるのだろうか。
スリムジーンズに包まれた両脚は筋肉の隆起が見てとれて、日ごろ鍛えている事が読み取れる。
「……野島さん?」
彼の両手に下げたビニール袋ががさりと音を立てて、呆然と見上げる私を我に返してくれた。
「は、はい、私です!」
少年のような声を以外に思いつつ、私は右手を上げる。
「……狗狼に頼まれて野菜とか生麩を買ってきた」
「あ、有難う御座います。あの、御代は?」
「後で狗狼から貰う事になっている。狗狼は?」
「まだ、帰って来ていないんです。パーティーがあるので、遅く帰って来る事は無いとおもいますが」
「……そうか、困ったな」
彼は両手にビニール袋を下げたまま宙を仰いだ。少し顔が赤い。
「?」
不思議そうに見上げる私へ視線を下げると、背の高い彼はばつが悪そうに鼻の頭を掻いた。
「その、狗狼からパーティを開くから、手伝うついでに晩飯を食べていくよう誘われたんだ。でも女の子が留守番している所に上がり込むのも無神経だろう」
ビニール袋を提げたまま腕組みをして眉を寄せる。
「やっぱり、荷物だけ置いて帰るわ。狗狼には、また今度寄るからって伝えておいてくれ」
彼は顔を上げると入り口に食材の入ったビニール袋を置いて踵を返そうとしたので、私は慌ててその背に声を掛けた。
「あの、その、私は気にしませんから」
「いや、俺が気にするから。あんた、綺麗だし」
彼は、ごめんな、とでもいうかのように右手を拝むように立てて苦笑する。
その背後で白い軽トラックがブレーキ音を高くして急停車する。
「湖乃波ちゃん、お待たせって……おお!」
【魚政】のおじさんは軽トラックから降り様に、彼の長身を目にして驚いたように声を上げる。
「龍坊! また一段と大きくなって、親父さんより背が高いんじゃねえか? ちょうどいいところに来た、こいつを持ってくれねえか!」
何故か、店で見たときよりも一回り大きくなっている発泡スチロールの箱を、おじさんは彼を手招きして持ち上げるように促した。
「……」
帰るタイミングを失ったのか、龍坊と呼ばれた彼はしかめ面のまま厚底の軍用ショートブーツをがつがつと響かせながら軽トラに近づいて発泡スチロールの箱を持ち上げる。
「じゃ、頼んだぜ。湖乃波ちゃん、じゃあ、また機会があればうちに寄ってくれな」
「はい、ありがとう、ございます」
「……重っ」
【魚政】の軽トラックを見送る私の隣で、龍坊と呼ばれた彼は身体を仰け反らせるようにして発泡スチロールの箱を抱え持っていたけど、意外と重いらしく受け取ろうとして手を伸ばした私に首を振った。
「これは重いから倉庫の中まで持って行くよ」
「あ、済みません」
私の記憶では魚の切り身が入っているはずだけど、ひょっとしたら別のものも一緒に入っているのかも。
彼は長身を屈めるようにしてドアを潜ると、床に発泡スチロールの箱を壊れ物を扱う様に慎重に下ろした。
重々しい音を立てた事から、魚の切り身以外の何かが入っているのは間違いないと思う。
「ったく、何が入っているんだ?」
右肩を解す様に廻しながらぼやく彼に、私は「何でしょうか?」と答えて発泡スチロールの箱の蓋を開ける。
中には新聞紙に包まれた円錐状の深皿みたいなものが三枚とカセットコンロが同じく三つ、そして魚の切り身を纏めた袋が入っていた。
新聞紙に包まれたものを手に取る。ずしりと重い。
彼は新聞紙を剥ぎ取ると、内から現れた黒光りする鍋を見て微笑んだ。
「これ、すき焼き用の平底鍋だ。誰かが気を利かせて入れてくれたんだな」
箱の中にはメモが添えてあり、その筆ペンで書かれた文字の筆跡は店頭で見慣れたものだった。
「これ北浜の御婆さんの筆跡。えっと、店でひじきやつくだ煮に使う鉄の平底鍋とカセットコンロを御使い下さい。田口青果さんから柚子を頂いたので入れておきます、だって」
「……至れり尽くせりだよな。重い訳だ」
「うん、嬉しいです」
綺麗に食べるサイズに切り揃えられた魚の切り身は魚の種類ごとに閉じ口付きのビニール袋に分けられている。袋には魚の名前と切り身の数がマジックで記入されていた。分け易い様に気を使ってくれたんだと思う。
【何時もよく考えて、楽しそうに買い物をしてくれて有難う】、このボールペンの字体は田口青果さんだ。
「何時もアドバイスしてくれて、有難う御座います」
どうしよう、こんな時に嬉しくて泣きそうだ。
彼は気を使ったのか、私から視線を逸らしてサンバソウの切り身の入った袋を見下ろしている。
すると、いきなり彼の腹の虫が、長く大きな鳴声を放った。
「……」
「……ふふっ」
ばつが悪そうに無言で顔を赤らめる彼に、つい私は笑みがこぼれてしまった。
「……あ、その、やっぱり、晩飯を頂いていいかな?」
「……はい、喜んで。私こそ一緒に食べて欲しいです」
照れたように鼻の頭を掻く彼のその仕草が、何となく不器用でいい人そうだと思った。