前編 湖乃波SIDE(1)
運び屋の季節 第六話 一年目 冬 十二月
前編 湖乃波SIDE
1
「れーい」
「有り難う御座いました」
冬休み前、最後のホームルームを終えた教室が一斉にざわつく。
私はホームルームで配られた冬休みの課題のプリントを学生鞄に納めて腰を上げる。
後は昇降口でカテリーナと待ち合わせ。バスに乗り遅れない様、足早に教室の後ろ扉へ向かう。
「?」
後ろ扉の前が何か騒がしく、クラスメイトがたむろしているのを不思議に思いつつ、「御免なさい」と声を掛けてからその傍らを通り通り抜ける。
後ろ扉前の廊下には親しい友人と最近知り合った先輩が並んで談笑しており、その下級生に人気のある二人を見ようとクラスメイトが詰め掛けていたのだ。
「あら、野島さん。今日は早めにホームルームが終わりましたので、お迎えに参りましたわ」
鮮やかな金髪をツインテールに纏め、深い緑色の瞳をした目を私に向けた親友が私に余所行きの言葉遣いで声を掛けた。
「ふふ、私もご一緒してよろしいかしら」
もう一人はスラリとした黒髪をミディアムボブでカットした優しそうな細い目をした三年生が首を傾けて微笑み掛けてくる。
私は背後で「きゃあ」とか「お姉さま」とか歓声が上がるのを聞きながら「は、はい」と何とか返答した。
途端に背中に受けるざわめきが高くなったので、私はびっくりして振り返る。
なんで、皆、スマートフォンを構えているの?
「じゃあ、行きましょう」
金髪の生徒、親友であるカテリーナ・富樫が先に立って歩き始めたのを追って、ミディアムボブの三年生、吉乃先輩と私が後を追う。
昇降口に着くと今日は終業式のみで部活の無い為か、生徒でごった返して暫く待たないと靴箱に辿り着けそうになかったので三人並んで待つことにした。
「あれ、野島さん、また背が伸びたのかしら?」
私の右横に並んだカテリーナが私の頭のてっぺんに手をおく。
そう、実は今年に入ってから合計で五センチ身長が伸びて、百五十五センチとなった。
今でも手足の関節や背中が痛くなる時があり、まだ身長は伸びそうだ。それでも百七十センチを超えるカテリーナと、すらりとした長身の吉乃先輩と比べるとまだまだ低いと思っている。
「出来れば一六〇センチ位にはなりたいです。図書室の本が取り易くなるので」
いちいち踏み台を持って来ないと四段目の本が取れないのは、非常に手間が掛かるのです。
「そうかしら。私は踏み台の上で手を伸ばしている野島さんが、凄く可愛らしくて微笑ましいのだけど」
吉乃先輩はそう言って、左手の甲を口に当てるところころと笑った。
笑っている姿も優美だなんて吉乃先輩って凄いなと思う。正真正銘のお嬢様だと思う。
吉乃先輩と私が知り合いになったのは、十一月に行われた学校内での文化発表会での出来事からだ。
私は夏休みに知り合ったある夫婦の問題に首を突っ込んでしまい、その過程で海外の少年兵や難民問題、武装解除組織について興味を持った。
それについて調べるうち、元少年兵達への農業や生産業等の職業訓練を受け持つNGO団体【希望の種】のアフリカ担当である千種女史と知り合いになり、彼女の勧めで少年兵問題についてフランス語と英語でのレポートを作成した。
その結果、スピーシズ・オブ・ホープの代表で、人類学者としても有名なオリヴィエ・ジャルダンから私達の通う学校で講演させて欲しいとの要望が届いたのだ。
慌てたのは学校側で、カテリーナのお母さんで理事のひとりである富樫 久美さんから私に、私が作成したレポートをフランス語で読み上げるように依頼された。
一〇月から文化発表会までの一箇月、幼少にフランスで暮らしていたカテリーナと、フランス語講師である美文さんによる資料添削とフランス語の発音特訓が行われ、一〇月下旬に私とそれに付き合うカテリーナはほぼ生きる屍と化した。
覚えたフランス語の単語が耳の穴からこぼれ落ちそうな疲労を覚えてカテリーナと図書室で帰り支度を始めていた私の耳に、誰もいないはずの音楽室からピアノの旋律が響き、二人で「これは学校の七不思議!」と盛り上がったのだ。
本来なら先生方を呼ぶべきだったのだけど、疲労がピークに達していた私達はまともな判断が出来ず、カテリーナは意気揚々と、私は恐々と音楽室へ様子を見に行くことにした。
私達はそっと扉を開けて覗き込んだ音楽室で、ひとりの女生徒がピアノを演奏しているのを目にする。
「あれ、副会長?」
カテリーナはその女生徒と面識があるようで声を漏らした。
「高等部の?」
「うん、吉乃生徒会副会長」
薄闇の中、ステップを踏むようなピアノの旋律と演奏する吉乃先輩の横顔は綺麗で、私とカテリーナはその演奏が終わるまで音楽室の扉を開けたまま、ただ立ち尽くす。
演奏が終わり吉乃先輩は立ち上がり鍵盤蓋と弦を保護する屋根を閉じると、演奏の余韻が耳に残る私達へ向かい歩いてくる。
私とカテリーナの数歩手前で足を停めた。
「演奏に引かれて、綺麗な妖精が舞い降りて来たのかしら? グールドって凄いわね」
そう言って吉乃先輩は小首をかしげると、細く優しそうな眼を更に細くして私達に微笑んだ。
吉乃先輩は、部活動中は吹奏楽部が使用しており、また自分も生徒会活動で忙しい為、下校時間ぎりぎり前の数分間にピアノを使わせてもらう許可を取っていると説明してくれた。
「あの先輩、さっき妖精って、それとグールドと仰っていましたが?」
薄暗い廊下を三人で歩きながらカテリーナが吉乃先輩に問い掛けると、彼女は左手の甲を唇の前に持って来て静かに笑った。
「ええ、演奏していると音楽室の扉が開いて、黒天鵞絨と金色の二人の綺麗な生徒が来たから、あれ、これは学校の七不思議かなって、そう思ったの」
私とカテリーナ視線を交わして笑みを浮かべた。
私達も同じ事を考えたと知れば吉乃先輩はどんな顔をするだろうか。
「グールドは1950年代から80年代初頭に活躍した、独特の演奏スタイルと理論をもった演奏家なの。愛用の低い椅子に座り、指を叩き付けているのだけど軽やかで繊細な音楽を奏でる本当の天才演奏家」
廊下に響く吉乃先輩の声は歌を唄うかのように滑らかな口調で、凄く耳に優しく聴き取り易かった。
「さっき私が演奏した【6つの変奏曲ヘ長調作品34】もそうだけど、グールド独特のアレンジはロマンティック過ぎると批評されているわ。これはグールド自ら語っているの」
吉乃先輩はそう言うと、鞄から携帯電話を取り出して画面を開き、私達に待ち受け画面が見える様に翳す。
そこには端正な顔をした癖毛の男性が、黒のスーツ姿でピアノの傍に腰掛けている画像が表示されていた。
「それでもグールドは本当に己のスタイルを頑固に貫いて、演奏は当然だけど、服装も夏でも黒のコートやジャケットに手袋を着用していたの」
「……」
「……」
ひとり、似たような人物に心当たりがあり、カテリーナと私は同時に苦笑いを浮かべる。
それ以来、帰りが下校時間ぎりぎりの日には、カテリーナと二人で音楽室へ吉乃先輩の演奏を聞きに行くようになった。




