五章 シベリアの掟(6)
身を低くしたメエーチは下から短剣を薙ぎ上げると8の字を描くようにナイフを旋回させた後、更に∞の銀光を閃かす。
全く、この老人は右肘にモーターでも組み込んで旋回させているのか。
今度は右脇腹を切り裂かれて俺は、よろめくと左手を右脇に当てて固まった。
その隙を逃さず俺の首筋を狙って迫るメーチェの横薙ぎを、俺は上体を前屈させて何とかやり過ごす。
頭上を短剣が通り抜ける。
掛かった。
俺はそのまま前転してメエーチの脇を転がり抜けると、その勢いを生かして上体を起こしざまに背後へ短剣を振り抜く。
驚愕する黒衣の老人だが、飛び退いた反応は早く、脹脛を僅かに削いだだけだった。
「ほう、驚いた」
メエーチは心底楽しそうに笑みを浮かべた。
やはり厄介のなのは、彼の長い手足のリーチだ。一歩、たった一歩移動するだけで奴は俺の短剣が届く範囲から逃れられるのだ。
「やはり、ブレード、いやクロウ。君と刃を交えるのは面白い。この老いぼれの身体が錆び付く前にこのような機会が与えられるとは。それだけはあの、愚かな金髪に感謝せねばならんな」
「変な期待するな。とっととセルゲイと老人ホームへ入れ」
毒づいてみるものの状況が劣勢である事に変わりなく、俺は次の手を頭の中で組み立てる。
俺は短剣を突くように見せかけて、右から左下への袈裟切りに変化させる。狙うはメエーチの首筋頸動脈。
それが空を切るとそのまま横薙ぎへ変化させてメエーチの首を切り離そうとした。これも空を切る。
僅かに肩を引いて突きに転じるとこれは躱せないと判断したのか、メエーチの右手の短剣が撥ね上がり刃と刃が絡み合う。
此処で肘。
懐に入れば長い手足が邪魔になり、逆に対処出来ないだろう。アバラを砕いて無力化すればメエーチを生かしたまま終わらすことが出来るかもしれない。
肘を打ち込もうと身を滑り込ませた俺の眼前をメエーチの足先が撥ね上がる。
間合いが近く、蹴りの通り抜けられる距離では無い筈だ。
たたらを踏んだ俺の頭上でメエーチの右足が膝を曲げ、俺の肩と首を太腿と脹脛で挟み固める。
「!」
回し蹴りの様に振られて放り出された俺は、地面に背を打ち付けた勢いを利用して跳び退いて距離を取った。
足だけを使った投げ技。確かこの技は……。
「ザンボもやるのか、爺さん」
「普段は必要ないがね。君だから使うのだよ、ブレード」
「ありがた迷惑だ。二〇年前は三味線弾いてただろ」
メエーチは首を傾げた。
「いや、私は音楽など趣味ではないが」
「素で返すな!」
俺の放った突きにメエーチの眼が僅かに見開かれる。
その突きはただの短剣の突きではない。
腰を落として前屈すると共に前足の足裏を僅かに浮かす。それだけで人の身体は進もうとする。
更に後足の曲げられた脹脛とアキレス腱が伸びようと力を解放する。推進力はそれぐらいだ。
後は武器を握った手を突出し、反対側の手は後方へ伸ばす。
厄介なのは技の起こりが単純で構えが無い為、見切り難い事だ。
戦国の武士の一撃は、これに加えて鎧の重さが加えられている。
いつの間にか距離を詰めた全体重を乗せる脇差の一撃。
團場流甲冑刀術の刀術口伝、川蝉。
だが、それすらもメエーチは腕の長さを生かして短剣の刃を噛み合わせて受け流し、外側へ軌道を逸らした。
俺の短剣を握った右手がメエーチの右肩肉を僅かに削り取る。
「良い攻撃だが、まだ甘い」
「囮だよ」
単に接近する手段だ。
俺の自由な左手がメエーチの右手首を掴む。
メーチの腕を跨ぐ様にして回転しながら蹴りを放った。
「コマンド・ザンボ! でも浅い」
オリガの声と共に、踵に僅かな手応え。
顎に蹴りが掠めたメエーチは上体を揺るがせる。
この蹴りは布石。本命は次の一手。
俺は蹴り足を戻す様に逆回転でもう一度、蹴りを放つ。
「ふざけるな、若造!」
メエーチの怒声は奴の意地か、逆に踏み込んで蹴りの威力を殺そうとする。
俺の蹴りは左脹脛をメエーチの左肩でブロックされて威力を失う。そして右足は、地面を蹴ってメーチを後方へ押し倒した。
メーチの右腕を掴んだまま、俺の身体に沿わしてねじり反らせる。
俺の背とメエーチの背が地面にぶつかり跳ね上がるが、俺の両足は奴の右腕を股に挟んで身体を押さえ付けた。
腕ひしぎ十字固め。これが本命。
俺はメエーチの長い右腕を引っ張りながら身体を反らせ、肘裏に圧を加える。
悪いがこのまま折らせてもらう。
だが、メエーチの肘関節が逆側に反り返り、短剣を握った手が半回転して刃を下に向けようとする。
嘘だろ、おい。
メエーチは緩んだ右手を回して外すと、ブリッジで体を起こしながら左手を引っ張られる右手に重ねるようにして身体を時計回りに半回転させた。
俺の両足の拘束を脱して逆に俺の上を取ったメエーチが、左掌を己の短剣の尻に当てて体重を掛けて押し込んで来る。
形勢逆転で俺の胸部に向けて刃先が迫るのを、俺は右手を掴んだまま必死に押し戻す。
ぷつり。
僅かに沈んだ短剣の切っ先から赤い球が盛り上がり、身体の傾きに従って流れ出した。
「つおおっ」
俺は身体を丸太の様に転がすと同時に、膝蹴りでメエーチの脇腹を打ちバランスを崩させ、その隙をついて地面から飛び起きて距離を取る。
息が荒い。今のやり取りで逆に俺の体力が消耗したぞ。
しかし、今の腕ひしぎ十字固め、確実に極めてへし折っていた筈だ。しかしメエーチの肘関節は破壊されず撓んだままだった。
おそらく常人より関節の柔らかい体質、二重関節ってやつだろう。
あのデタラメに軌道を変える短剣の動きや、狭い間合いでも繰り出せた蹴りとザンボも彼の関節の可動域が広い故に出来ることだ。
「ははは」
笑うしかない。
短剣の勝負では軌道が読めない。
素手の戦いではリーチで劣り、近付いてもザンボで返される。
関節技はほぼ無効。
おまけに出血によるものか、体が冷えている。
「生かしたまま、決闘を終えるなんて出来るものか」
俺は自分に言い聞かせるように呟いた。
またひとり、見知った顔を失くす覚悟は出来たか、狗狼。
「なあ、メエーチ。俺は長期の依頼を引き受けているんだ。運び屋が途中で依頼を放り出すことは、出来ないんだな」
俺は両手を背中に回してメエーチに向けて走り出した。
メエーチも短剣を構え、俺を迎え討とうと踏み込む。
狙いは俺を貫こうとメエーチが僅かに肩を引いた瞬間だ。
二人の距離が、俺の腕が届かず、メエーチの腕が届く距離で奴の突き出された短剣が僅かに引かれた。
今だ!
誰かが声を上げた。
セルゲイかもしれない。
オリガかもしれない。
アレクセイかもしれない。
女性店員かもしれない。
ブレードこと乾 狗狼はもっとも愚かな攻撃方法を選んだのだから。
俺は左のアンダースローでメエーチの右肩めがけて短剣を投げたのだ。
メエーチは俺が背中に手を回した理由を、左右どちらから攻撃をするのか予測させない為と推測したのだろう。だからどちらにも対応出来る様に正面で迎え討った。
それの虚を突いて、避けられない距離での短剣の投擲を行ったのだ。
成功すればメエーチを無力化することが可能かもしれない。
成功すれば、だが。
キンッと俺の投擲した短剣は、メエーチの短剣によって外側へ弾かれていった。
これで俺は渡されたメエーチの命を奪う武器を失ったのだ。
例え奇跡が起こり、銃や素手でメエーチを殺害出来たとしても、それは乾 狗狼の死を意味している。
セルゲイはこの決闘を始める前に言った。「この聖なる決闘は、この武器以外で相手を殺めてはいかん」と。
異音と共にメエーチの表情が歪み驚愕していた。
彼の右手の親指の付け根がえぐれ、人差し指が千切れて宙を落ちているのだ。短剣と共に。
すまないな後藤、壊してしまったよ。
俺は右手に握った、メエーチの右掌を抉った衝撃で半分が外れてしまったブロンズ製のネクタイピンに詫びた。
これは武器ではない。そして殺めてもいない。
投擲された短剣を弾く瞬間は、メエーチの出鱈目な短剣の動きも推測可能だ。
そして右手を背後に回した理由は、戦いが始まる前にナイフを探す振りをしてカッターシャツの袖口に挟みこんで隠したネクタイピンを、取り出す動作に気づかせない為だった。
そして落下するメエーチの短剣は俺の左手に受け止められる。
最短距離で突き出された切っ先は、メエーチの肋骨の斜め下から突き上げる様に心臓へ突き刺さり完全に破壊した。
メエーチは信じられない物事を目撃した様な表情で己に突き刺さった短剣を眺め、次に頭上を仰ぎ見て膝が砕けた。
俺は目を見開いたまま息絶えたメエーチの背中を膝で支えながら、ゆっくりと大地に仰向けで横たえる。
背後で不規則な杖の音と低い老人の祈りの言葉。
セルゲイは長年の部下でもあり友人でもあった老人の瞼へ震える指を伸ばす。
「……待ってくれないか」
俺の言葉にセルゲイの手が止まる。
「メエーチは、今、天上にいる奥さんが見えているんだ。だから、眼を閉じるのは、もう少し待ってくれないか」
運び屋の季節 一年目 秋 十一月 完




