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運び屋の季節  作者: 飛鳥 瑛滋
第五話 運び屋の季節 1年目 秋 十一月
149/196

五章 シベリアの掟(5)

 セルゲイが黒い布に包まれた箱の底を左手で支え、祈りの言葉を唱えながら布の結び目を解いていく。その下から粗削りだが色彩に富んだ聖母マリアと、その懐に抱かれた幼きイエスキリストの彫刻された蓋が現われる。

 蓋がずらされ、箱の中に二振りの柄に十字架の彫刻が施された短剣が納められていた。

「ピッカではないが、この短剣は我々ウルカ共同体が、どちらの言い分も正しい物事を決闘で裁定する時に用いた聖なる武器だ。この短剣には先人の血と知恵が宿っておる。決闘の結果は、全てこの短剣が決めてくれる」

 この短剣は何十、何百の決闘の道具とされてきたのであろうか。それなら刺しても死なない知恵を真っ先に宿してほしいものだ。

「解るな。この聖なる決闘は、この武器以外で相手を殺めてはいかん」

「もし破るとどうなるんだい」

 メエーチが恭しく十字を切ってから短剣を受け取るのを真似して、俺も十字を切ってから短剣を受け取り疑問を口にした。

「一族全てが処刑される。神とシベリアの民の魂を愚弄した罰はそういうものだ」

 俺は小さくくそったれと呟く。

「ったく、じゃあナイフを預けるぞ」

 俺は右手を背広の右裾のポケットに突っ込んでから左懐のポケットへ突っ込んだ。

 抜き出した愛用のアップルゲート・コンバットフォルダーをオリガに渡してから、腰の後ろにあるもう一本も抜き出して預ける。

 メエーチもバヨネットを吊ったショルダーホルスターをオリガに差し出す。

 俺は一戦交える前に煙草を吸おうと、右懐からワイルドカードの箱を取り出して上下に振った。突き出た一本を口に咥えて抜き取る。

 左横から短い擦過音と共に、火のつけられたマッチ棒が突き出された。

 左手で火が消えない様に守られたそれに、俺はワイルドカードの先端を近付け火を付ける。

 マッチの頭薬が燃焼する臭いも、たまには悪くないものだ。

「サンキュ」

 俺はアレクセイに礼を述べてから、ワイルドカードの煙を大きく吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。コーヒーフレーバーは僅かに俺のささくれかけた精神をなだめてくれる。

 俺が一息吸い終るのを待っていたのか、隣に並んでアレクセイは真剣な表情を浮かべる。

「本当にこの決闘を受けるのか。セルゲイやメエーチと親しいお前なら、謝り頼み込めば決闘は取りやめて許してくれるかもしれんぞ」

「……」

「シベリアの民ではないお前にとって、理不尽な決闘だと解っているはずだ」

 俺は口腔に煙草の煙を送り込む。

「そうか、じゃあ、そうしようかな」

 息を吐いて、煙がドーナツ状を形作って舞い上がるのを俺は満足して見送った。

 隣のアレクセイへ視線を移して、俺は片頬を釣り上げた笑みを浮かべる。

「冗談だけどな」

「……全く」

 アレクセイも同じ笑みを浮かべた。

 俺はフィルターの根元まで吸ったワイルドカードを指で弾き飛ばしてから、短剣を手の中で回転させる。

「さて、待たせたな。始めようか」

 メエーチの短剣を握った右腕が前に突き出された。そのリーチは俺より遙かに長い。

「なあ、メエーチ。この決闘の勝敗が決まればどうなるんだい?」

 俺はメエーチの周囲を円を描くようにステップしながら問い掛ける。

「そうだな、私が勝てば組織の面子(めんつ)は保たれる。オリガや娘達、部下の失敗を不問にするように命令する。若い幹部も決闘を制した者の言葉を受け入れざるを得ないだろう」

 成程、古参幹部の発言力が増すばかりか、メエーチの実力が錆びついていない事の立証が出来る。若き幹部連中はメエーチを含めた【慈悲深き手】に対する(おそ)れを、再び植えつけられることになるのだろう。

「君が勝てば、私ですら仕留められなかった相手として、襲撃した娘達の敗北は当然のものとされる。むしろ生きて帰った事は僥倖(ぎょうこう)とされるだろう。そして慈悲深き手は私の代わりにオリガが筆頭となり若い幹部を取り仕切る事となる。その場合、運び屋とは友好関係を結ぶ事となるだろうな。君が決闘の勝者なのだから」

 俺の表情が動いたのを目にしたのか、メエーチは不敵な笑みを浮かべた。

「気が付いたようだな、ブレード。君が勝った方がオリガや娘達の理が大きくなるのだ」

「メエーチ、まさか」

 死ぬ気か? 俺は唇だけを動かした。

 俺の言いたいことが解ったのか、メエーチは僅かに表情を曇らせる。

「ブレード、私が死を望んでいるように思えるか? 最愛の妻に会いたいが為に決闘を望んだと? 逆だよ」

 メエーチは僅かな一歩だけで槍の様な刺突(しとつ)を俺に送り込み、俺はかろうじて短剣の刃を打ち合わせると二歩ほど退いて体勢を整えた。

「私は死んでも妻と会うことは叶わないだろう。妻は最後まで善良なシベリアの民として生涯を送った。魂は間違いなく天上へ召されたに違いない。対して私はどうだ?」

 長身を曲げて身を低くしたメエーチは、長い手足を持つ蜘蛛が巣の上を滑る様にして距離を詰めて来る。

 再び長い腕を生かした突きが繰り出されてきたが、俺が身体を傾けてかわすと同時に空中で短剣が逆手に持ち帰られ、ロングフックのような軌跡を取って視界の外から俺の首筋を薙ごうとした。

 上半身を仰け反らして避けた俺の眼前で、メエーチの右肘が回転して頭上へ短剣が跳ね上がる。

 アイスピックのように振り下ろされる切先が狙うのは鎖骨下動脈、ここを破られると血液が噴水のように噴き出して瞬時に失血死する。

 俺は思いっきり地面を蹴って背後に下がった。視界を縦に通り抜ける短剣の切っ先を認め総毛立つ。

 危なかった。

 そう安堵する間も無く短剣を握った俺の右手首が、メエーチの左手に握り締められ後退が停止させられる。

 右手を持ち上げられてガラ空きとなった脇の下へ、水平に寝かされた短剣の刃が潜り込もうとした。

 俺は右手首を回しメエーチの左手首を浅く切って脱出しようとしたが、手首の動きだけでそれを察したメエーチは俺の右手首を放して回避する。

 俺も右手首が開放されると同時に左後方へ仰け反り、脇腹から肺を貫かれることを回避したが、真横へ通り抜けようとした短剣の切っ先は直角に跳ね上がり、アッパーカットのように俺の胸先をかすめて行った。

 カッターシャツが縦に切り裂かれて俺の胸から血が滴り落ちる。

 全然、短剣の軌道が読めない。

「シベリアの掟の下に何十人もの同胞に慈悲を与えた。そしてシベリアの掟に反する殺しもしてきたよ。ロシアの弾圧の中、信仰と同胞を守る為の見せしめとして禁を破った一族すべてを撫で斬りにして逆さに吊った。幼子もいたよ。そんな私が天上で妻に会える? いいや、私は地獄行きだ。この世でしか妻と会えない」

 視界の隅でセルゲイが(うつむ)き杖が震える。

 きっとメエーチは、いや、この老人はシベリアの掟を守ろうとする者達の影なのだろう。既に人間ではなく、掟を破った者に慈悲という名の終わりをもたらす怪物。

「だから私の願いはこの世界で妻をいつか見上げる事が出来る奇跡だ。それ以外の私はシベリアの民と神への信仰を守る為の代行者でしかないよ」

 シベリアの掟、いいや、それは呪いとしか俺には思えないんだ、メエーチ。

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