五章 シベリアの掟(3)
その大型バイクは俺を追い越すと二メートル程先で停車する。
「……」
ロシアの軍用バイク、ウラル・サイドカー。
750ccの大型エンジンを積んだ、サイドカーを利用した二輪駆動の怪物はダークグリーンの車体を震わせて咆哮する。
そしてそれに跨る主人も規格外れと言えた。
おそらく一八〇センチ近い長身に、黒スーツと同色のワイシャツを身に付けている。ワイシャツの襟を飾るのは赤いネクタイで、それが彼女の拘りであることは間違いない。
オリガの赤い皮手袋に包まれた両掌が、赤毛をはみ出させた銀色のゴーグル付きヘルメットの側面に当てられ、寄せられた九〇センチは確実に超えているであろうワイシャツを盛り上げる双丘が黒背広の合わせ目から覗いた。
「ふう」
ヘルメットの下から整い過ぎている瓜実顔に赤毛の長髪の美貌が顔を出し、俺に警戒感を抱かせる。
「あら、こんなところにいたのね運転手」
眼を細めて心の底から嬉しいとでもいうかの様に微笑むオリガに俺は条件反射で笑みを返してしまい、腕を組んだ女性店員の視線が俺の頬に突き刺さるのを感じた。
「ブレード、此方の方は?」
「ああ、彼女は仕事上の付き合いで」
「貴方も元気ねぇ。昨晩あんなに激しい夜を過ごしたのに女性とデートをするなんて」
「はい?」
いや、オリガ君。その言い回し方は誤解を受けるよ。
俺の肘に回された店員の右手に力が加わり、俺の前腕を締め上げる。
「だって、そうでしょう。妹達を立て続けに五人も相手したのよ。それでも立っているなんて奇跡に近い事なのに」
外の肌寒さなど関係無い様に俺の背中と脇の下に汗が滑り落ちた。
俺の頬に突き刺さる視線は物理的な痛さを伴っており、締め上げられる左手は関節技を掛けられている様な錯覚さえ覚える。
「いや、君、誤解を受けるから少し黙っててくれないか」
「ええ? 私は本当の事しか言ってないわよ。そんなに元気なら今度は私が相手して貰おうかしら。今から、どう?」
そう言ってオリガはバイクに跨って振り返った姿勢で、自分の頬に人差し指を当てて片目をつぶった。
いや、そのウインクは卑怯だろう。
彼女の体勢も非常に攻撃的で、振り返っている為に彼女の上半身は俺から見てほぼ真横を向いており、その魅力的な胸の大きさを誇示していた。また背広から浮き上がった彼女の腰はひねりが加えられており、彼女の腰自体の細さと柔らかさが推測できる。
そしてバイクのシートに乗せられている彼女のお尻は、ウラルのシート形状の為か沈み込まず撓んでおり僅かに突き出された姿勢となっていた。撓んでいるにもかかわらず大きく丸く整った形状であることから、鍛えられた張りと柔らかさを併せ持っているのは明白だ。
ミシリッ。
いや、俺の左腕は関節技を掛けられている様な、ではなく、実際に女性店員の絡められた前腕に手首を固定され締め上げられていた。
この痛みが無ければ俺の理性は既に無く、彼女のウラルのサイドシートに自ら飛び込んだに違いない。
「どなたか存じませんが、この人は今から明日の朝まで私と過ごす予定が入っておりますの。明日以降にして頂けませんか」
「一晩過ごそうが、それが二晩になろうがこの男は貴女の手に負えるものじゃないわよ。ブレードと呼ばれる人間がまともだと思ってるのかしら。貴女、彼の名前を知っているの?」
いや、その、まあ、なんだ。仲良く出来ないかな?
日本の放射能噴射怪獣 対 黄金の三つ首翼竜の争いに巻き込まれた一般市民と化した俺を間に挟んで美女が火花を散らす。
しかし、このまま見物を決め込む事は精神衛生上非常に良くなく、今日の今後の予定をキャンセルされかねないので、俺は仕方なく口を挿んだ。
「で、本当はどうなんだ。わざわざからかう為に俺を探したんじゃないだろ?」
オリガは俺の言葉に苦笑を返した。
「言ったでしょう。私に付き合って欲しいのよ」
彼女の表情や姿勢は変わらず、ただ彼女の纏う雰囲気がその存在に相応しいものへと変化する。
それだけで女店員の表情が青ざめ、無意識に俺の左手に両手で縋るのが解った。
「俺の今日の予定は彼女から聞いて知っているな。さよならだ」
対戦車ライフルで半グレを血祭りにして、ショットガンで人の片足を吹き飛ばす。おまけに小さい組織とは言え、ヤクザの相談役を心底怯えさせる。
そんな女性に付き合うのは誰だって遠慮したいだろう。俺だってそうだ。
「言い方が悪かったわね。セルゲイが呼んでいるわ」
「……」
とうとう大御所が出て来たか。まあ、あのまま何事も無く過ごそうとするのは虫が良過ぎるか。
「残念ながら、俺はセルゲイの部下ではないんだ。俺を呼ぶのは依頼か?」
「違うわね」
「なら、俺はこの女性との約束を果たさせてもらう。それが道理だ」
俺は女性店員を安心させるように、俺の左手を掴む両手に俺の右手を重ねる。
オリガの右手から力が抜かれて下げられた。
俺も余計な肩の力を抜き、オリガの行動に備える。
オリガのウラルのサイドカーには荷物の類は乗せられておらず、彼女の羽織った黒背広の身体のラインは崩れていない事から下に短機関銃等の火器は隠されていないだろう。
可能性としては俺からは見えないオリガの左脇に、昨晩見た回転式拳銃MP―412が吊られていると思われるが、彼女がそれを抜くには一度、身体を正面に向けて銃を抜いてから再び振り向き、俺に銃を向けなければなるまい。
それに対して俺は背広の左内ポケットからコンバットフォルダーを抜き取りながら刃を起こし、オリガとの距離二メートルを詰めるだけだ。
どちらが早いかは明確で、オリガがそんな愚を起こすとは考え難い。
おまけに此処は元町で人通りが多い。こんなところで銃声が響けば確実に警察のお世話になるだろう。
さあ、どう出る。
背後で小気味良いエンジン音が響き俺達の後方三メートルで停止する。
振り返らずにウラルのサイドミラーに映った光景から、その車の車種がラーダ・ヴェスタだと解った。
ラーダ・ヴェスタはロシアの自動車メーカーであるアフトヴァースがフランスの自動車メーカーであるルノー傘下に属してから販売されたコンパクトカーで、ルノーや日産の技術が応用されておりトータルバランスに優れた機種だ。VWのゴルフの様なものと思ってくれれば間違いない。
特筆すべきはその堅牢性と安全性にあり、クラッシュテストでは十六点中十四・一点を記録している。
そのラーダのドアが開き降りて来たのは口髭を生やした灰色の背広を着た男、【城】で俺や後藤を案内した先導役、アレクセイだった。
「……」
くそっ、前後を押さえられた。
奴の左脇の下は僅かに膨らんでおり、彼の愛用するトカレフが収められているのだろう。奴がその気になれば、早打ちに特化したトカレフで俺と店員の彼女の頭を吹き飛ばして逃走する事など容易いはずだ。
今にして思えば、オリガのふざけた会話は俺をその場に留める為の時間稼ぎだったに違いない。今気が付いても遅すぎるが。
「どうするの、運転手?」
オリガの問い掛けに、俺は首を振った。
「しょうがない、付き合うよ。ただし彼女は」
「当然付き合って貰うわ。貴方が素直に従ってくれるとは思えないから」
「……」
俺は女性に殺されるなら本望だが、色恋沙汰でないのが俺らしいと言えよう。
結局、俺はウラルのサイドカーに、店員の彼女はラーダの助手席に同乗させられて城へ向かう事となった。彼女と分散させられたのは二人一緒にラーダに乗せて逃亡する可能性を考慮した為と思いたい。
「……なあ、君」
「……なあに」
「サイドカーに座っている奴もヘルメットを被っていなければいけないんじゃないか」
「ええ? この国の法律じゃあ自動車扱いでヘルメットもゴーグルも要らない筈よ」
「そうか?」
「間違いないわ」
俺は顔に吹き付ける冷風と、引っ切り無しに鼻腔から流れ落ちる己の酸っぱい体液に辟易としつつ、サイドカーに関する法律を決めた奴を呪い続けた。
サングラスが無ければ即死だった、と敢えて言いたい。




