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運び屋の季節  作者: 飛鳥 瑛滋
第五話 運び屋の季節 1年目 秋 十一月
145/196

五章 シベリアの掟(1)

 五章 シベリアの掟

 

                       1


 俺はソファーの上でゆっくりと意識を覚醒させた。

 今日は一日中晴れているのか、海に面した窓の磨り硝子からは気怠い金色の午後の日差しがソファーまで差し込んでいる。

 寝転がったまま俺は左手を持ち上げ、手首に巻いたハルミトン・カーキフィールドへ眼をやった。

 黒地に銀の文字盤の針は十五時二十八分を指しており、昨日、ヴァレンティノ神戸で交わした約束を守る為に出掛けなければならない時刻が近付いているのを俺に示している。

 大きく息を吐いて、俺はそのまま左手を己の顔の上に被せる。


 その家は道路を挟んで海に面している何の変哲もない一軒家だった。

 動かなくなった我が愛車を回収しに来た車屋の親爺のレッカー車に同乗して、この三原の中心より僅かに外れた場所へ運んで貰ったのだ。

「……寒いな」

 十一月の早朝の三原は、冬の到来前とはいえ身を震わせる冷たい海からの風にさらされていた。

 我が家である倉庫を改造した住居も港の倉庫街にある事から、晩秋の港町のわびさびを有難がる気持など、とうの昔に消え失せている。

 街道沿いに横並びになった住宅街の中に早朝から開いているパン屋を見掛けたが、昨晩からの過酷な逃避行に疲労しきった俺に食欲は沈黙したままだった。

 俺は手にしたパスケースの保険証書に記された苗字と、その家の門柱に張りつけられた表札の表記が同じことを確認してからインターフォンに指を伸ばす。

 インターフォンの脇には、猛犬注意、とステッカーが貼られているが、我ながら怪しい男が此処まで接近しているのに何の吼え声も聞こえないのは、それがセールスマン除けの擬装である事は明白だった。

「何か御用でしょうか?」

 突然響いた少女の声に面喰いつつ顔を上げると、家の玄関から紺色のセーラー服に学校指定の黒いスポーツバックを肩に掛けた少女が顔を覗かせる。

「済みません、両親はもう仕事に出ていて、私も登校で時間が取れないんです」

 軽く頭を下げて詫びるポニーテールの少女の言葉に俺は苦笑せざるを得なかった。

 そういえば今日は平日。

 運び屋という曜日に関係なく、夜に仕事をして昼に眠る生活をしていると、曜日に対する注意などつい忘れてしまう。

 さて、どうしたものか。

 俺も約束を抱えており、出直してくる余裕などないのだが。

「手短に済ますので、少々時間を割いてくれると嬉しいのだが」

「あ、はい。何でしょうか」

 登校前の迷惑な訪問者にも関わらず、少女が素直に応じてくれたことに安堵しつつ、俺は手にしたパスケースの中を開いた。

「この人は君の家族かそれに近い人、で間違いないか」

 少女は俺の傍へ駆け寄ると、黄色ジャージの持っていたパスケースとその中身を目を丸くして見つめる。

 運動部なのか、身を乗り出した少女の首筋から小麦色と肌色の境目が露わになり、俺はそちらへ気をとられないようワザと視線をそらす。

「……兄ですけど、兄が何か?」

 声が固いのは、少女が兄の生業を知っている為だろうか。

 まあ、早朝にサングラスの黒背広が尋ねて来たら誰だって警戒するだろう。

「俺は運び屋でね」

 俺は背広のポケットから携帯電話を取り出すと、パスケースと重ね合わせて少女に差し出す。

「君のお兄さんからの預かり物だ。受け取ってくれ」

「え、ええ」

 少女は驚いたように俺の顔と手元へ視線を往復させてから、おずおずと手を伸ばす。

 両手で包み込む様に受け取られた携帯電話とパスポートの上に、俺は孝道の鞄から抜き取った札束を懐から出して乗せた。

「これは?」

「お兄さんからだ。急な仕事で暫く帰って来れないから、この金を借金の足しにして欲しいそうだ」

「……」

「それだけだ。手間を取らせて悪かった」

 俺は用は済んだとばかりに(きびす)を返して、己の手元へ視線を落とす少女から離れようとした。

「待って、待って下さい!」

 俺は背を向けたまま足を停める。そのまま無視をして去っても良かったのだが、少女の声に含まれた何かに引き留められた。

「何かな」

「私は、こんな大金、受け取れません」

「……俺に言われても困るんだが」

 俺が肩ごしに振り返ると、少女は両手で札束を挟み突き出した姿勢で俺見上げていた。

「だって、兄は、あまり良い噂の聞かない元網本のお爺さんの手伝いをしていたんです。だったら、このお金は悪い事をして手に入れたお金じゃないんですか」

 俺は少女に向き直った。

「いや、そのお金は君のお兄さんが真っ当な仕事をして稼いだ取り分だ。それは俺が保証するよ」

 遠い港町で君のお兄さんが働いた分の取り分だ。

 少女は俺を暫く見上げていたが、何かを悟ったかのように視線を落とした。

「……兄は、帰って来れないって。もしかして、いなくなったんですか」

 少女のいなくなったという言葉に含まれた意味に気付かない程、俺は鈍感ではいられなかった。

「……どうして、そう思う?」

 札束を挟み込んだ少女の両手に力が込められる。

「だって、おじさんみたいな人が何かを届けに来るって事、今迄無かったし、それに」

「それに?」

 少女は札束を下ろすと右手を上げて俺のレイヴァンへ指先を伸ばす。

 ゆっくりと俺の顔からレイヴァンを抜き取ると、少女は困った様な、それでいて何かを(こら)えているような笑みを浮かべた。

「――ほら、やっぱり、おじさんは……」

 そう言って、少女は震える手で労わる様に俺にレイヴァンを掛け直した。そのまま俯いて足の爪先で地面を叩く。

 俺はただ無言を通すしかなかった。

「しょうがないです。兄が悪いんです」

「そうでない事は君がよく知っているはずだ。少しの間だったが、俺には君のお兄さんは、俺達底辺で生きる者の汚れが無い、そんな人間に見えていたよ」

「……」

「それだけは確かだ」

 少女にとって俺の保証など何の足しにもならない事は、俺自身がよく知っている。

 少女からすれば俺も元網本の爺さん同様悪い人に過ぎないのだから。

 俺の言葉に少女は静かに首を振った。

「それでも、やっぱり兄が悪いんです。父も、母も、あんな人達に関わってまで借金を返して欲しいとは思っていませんでした。兄は似合わない事をしたから罰が当たったんです。けっして、おじさんのせいじゃありません」

「……残念だが、俺はそんなに優しい人間じゃないさ」

 少女は顔を俯かせて、長い息を吐いた。

「もう、こんな時間。これじゃあ遅刻ですね。今日は休もうかな」

「それもたまにはいいかも知れない。おじさんは遅刻をしない日の方が珍しかったが」

「羨ましいですね。でも、やっぱり学校へは行きます」

「……そうか」

「……はい、だから」

 俯いた少女の手から札束が滑り落ち、彼女の足下で風に巻かれ舞い上がる。

 少女はそれを拾う事も無く、小さな両手でスカートの布地を握りしめ、少しずつ肩の震えをを大きくしていった。

「ありがとう、ございました」

 予期せぬ来訪者との時間は終わったのだと、区切る様な少女の言葉に、俺は今度こそ背を向けて歩き出す。

 晩秋の早朝、雲の見当たらない青い空の下。

 少しずつ大きくなっていく少女の泣き声を背に受けながら、俺はワイルド・カードを咥えて火を点ける。

 少女が俺に何を見たのか、そんな答えの出ない問いをぼんやりと考えつつ煙を吐き出した。

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