四章 慈悲深き手【ドーヴルィ ルーキ】(3)
俺はゆっくりと彼女から見て左側へ歩を進める。
彼女は銃口で俺を追いながらバイクを下りて、身体ごと俺に向き直った。
「……提案だが、ここは一旦引いてくれないか」
俺の言葉に対してどのような感想を抱いているのか、フルフェイスのヘルメットからその表情は窺えず、唯一判るのは彼女の人差し指が獰猛な凶器の引き金を引いた事だ。
俺は姿勢を低くしてひたすら彼女の左側へ駆け回り続ける。
とうとうサブマシンガンのL字型ボルトが後退して火線が途絶えると、彼女は弾倉を銃把から落としながら腰の後ろの大型ポーチから予備弾倉を抜き取り銃把に差し込もうと両手を近づけた。
「!」
フルフェイスのヘルメットから驚愕した雰囲気が伝わって来る。
それはサブマシンガンを握った右手と弾倉を差し込もうとした左手の両手首を、俺の両手がぎっちりと掴み近付かない様にしたからだ。
「やはり、思った通りだ。君は左足首を痛めている」
俺は不敵な笑みを浮かべて指摘した。
「先程のマーチを蹴っ飛ばした時に痛めたんだろうな。だからバイクを停めて左足に荷重を掛けることが出来ず、バイクから降りるしかなかった。それに左側へ逃げる俺を撃とうとすると左半身へ体重が掛けられず銃口を追わせることが遅れてしまう」
「……」
「仕切り直しだ。今は引け」
俺の言葉が通じたのか、騎手の両掌が開かれて短機関銃と弾倉が駐車場の地面に跳ね返り、夜の闇に固い音を響かせる。
彼女の手首が返され、今度は俺の両手首を掴み返されて引き寄せられる。
「おっ」
青と白のライダースーツが僅かに反らされ、反動をつけてフルフェイスのヘルメットが前に振り出された。
額への衝撃と共に目の奥で散った火花に面喰いつつ、俺は彼女の手を引き外して背後に下がる。
それを追う様に騎手の右拳が俺の左胸に叩き込まれた。
その一撃は膝を曲げて腰を回すと同時に、肘を僅かに曲げた状態を保ったまま槍のように拳を突出して体当たりするように撃ち込んで来たもので、俺はその衝撃に数歩後ろに下がって辛うじて膝が砕けそうになるのを堪える。
「……」
「今の撃ち込み方、システマのストライクか。喰らったのは初めてだが、古流拳法の突きに似てなくもないな」
「……」
「本来ならアバラを折られている。君の体重移動が不十分だったんだな」
返答は数発の素早いジャブだった。足への負担の少ない攻撃に切り替えたのだろう。
俺はジャブを掌底や前腕で弾いて止める。
俺の身に付けた戦い方は團馬流甲冑刀術と呼ばれ、戦国時代の鎧兜に身を包んだ武者が戦場で生き残る為に編み出した武術であり、今の短剣道に酷似した剣術と、甲冑を着込んだ者同士の打撃や投げ、関節技の体術が伝授されている。
指を開いた右手の甲で、弾く様にヘルメットの上から打撃を咥える。続けて左右のこめかみに手刀を叩き込み頭部を左右に揺らす。
團馬流甲冑刀術に握り拳を固めて撃つ事は記されていないどころか、固く禁じられている。これは相手も甲冑を着込んでいる以上、拳で打っては指を傷付けて太刀が振るえなくなる。それは武士として死んだも同然なのだ。
よって、手刀や掌底、前腕の側面、肘、膝、足裏で素早く加撃する事が定められている。
俺は左右へ視線がぶれる事によって、ぞんざいな突きを放った騎手の右腕を、左肘で受けると共に巻き込むようにして脇に抱え込んで固め、ヘルメットのあご先を右手で押すようにして真後ろへ倒した。
騎手は倒れた衝撃を気にした風も無く、ブレイクダンスの様にブーツを跳ね上げて蹴りを放つ。
俺は顔を逸らして蹴りを避けると固めた右腕を外して距離を取った。やはりライダースーツを着込んだ相手に手加減した投げ技は、何のダメージも与えられないらしい。
「しかし、関節技や絞め技は、万が一という事もあるしな」
ぼやいても仕方がないがぼやきたくもなる。
思ったより左足の損傷が大きいのか、ゆっくりと立ち上がった騎手はバランスを崩した様に左膝を地面に付けて足首へ手をやった。
「いわんこっちゃな――」
咄嗟に駆け寄り騎手を支えようとした俺だが、下方から跳ね上がる銀光に前腕で顔面を交差させつつ跳び退く。
黒背広の前腕に切れ目が生じて再びカッターシャツに赤色が滲む。
「ちっ」
幸いな事に傷は浅く感覚が鈍って来る感触は無いが、不用意に近付いた罰なのか、幾重にも半円を描いた銀光をぎりぎりで躱す羽目になった。
「ちょっと、待った待った」
辛うじて躱せた俺は、姿勢を低くして左手を前に突き出した半身の姿勢で騎手を観察する。
騎手の右拳の中央から刃渡り八センチ程の両刃のナイフが突き出ており、それがフリッカージャブの様に下方から曲線を描きつつ跳ね上がって来たのだ。
先程バランスを崩した様に見せ掛けたのは、ブーツに隠したダガーナイフを取り出す動作が不自然に見えない様にする為だろう。
「殺し屋がヒットマンスタイルかよ」
問題は威力の弱いジャブ程度でも、ナイフでは当たり所が悪ければ致命傷になる事だ。
撥ね上がる鞭のようにしなる斬撃を躱し続ける。
フリッカージャブの弱点はスピードは速いが、そのトリッキーな打撃の軌跡は馴れると読み易い事。
俺は顎先をかすめた騎手のナイフを握った右手を左手で跳ね上げると共に、そのライダースーツの腹部を手刀で打った。
騎手の動きが止まる隙を見逃さず、跳ね上げた左手でナイフを握った右手首を握ると、手刀を打った右手を騎手の右脇から通して自分の左手首を握る。
騎手の右腕をくの字に捻り上げたまま下方へ半円を描く様に投げ捨てた。
【鬼砕き】、または【閂返し】と呼ばれる技で、海外の警察でもナイフを握った相手を無力化する手段として取り上げられることが多い。
背中からアスファルトの上に叩き付けられた騎手は、バウンドする反動を利用して地面に手を着くと反転してすぐに立ち上がる。
手強いな。何処まで凌げるか。
「なぁ君、このまま続けるとお互い消耗して共倒れだ。繰り返すが引く気は無いのか?」
俺はダガーナイフを握った右拳を前に突き出して構える騎手に再度提案した。
「……随分、甘い事を言うのね、運転手」
返答されるとは思ってもみなかった。
返されてきたのは落ち着いた若い女性の声だった。ヘルメット越しにも係わらず響く事から若い十代後半から二〇代前半の女性かも知れない。
「男は女性には甘くあるべきだ。と俺は思っている」
「なら、その車に隠れている荷物を渡して欲しいの、と言っても駄目でしょう。それと同じ」
「……」
「私は姉や妹達を守らねばならない。でも、それが出来なかったの。だから私自身の誓いを破ってしまった」
「……確か君は外へ出掛けている。階段ですれ違ったよな」
「そうね」
「その場に居なかった君にはどうする事も出来なかった。違うか」
「貴方はそれで、自分自身を許せる? セルゲイやマーシャから聞いた限りでは、貴方はそれが出来ない人間だわ」
騎手の指摘に俺は沈黙するしかなかった。
「【真珠】が、大切な妹が傷付けられた事実に変わりは無いの。それに私にはシベリアの掟や【慈悲深き手】である事に関係なく姉妹を守らなければならない義務がある」
「……義務なんて、本当はそんなものこの世に存在しない。自分自身や世間との関わり合いで、そう思っているだけだ」
「いいえ、私にはあるの」
そう告げて、騎手は愛車と同じく白地に青のラインの入ったフルフェイスヘルメットに両手を掛けると、顔を俯かせてゆっくりとヘルメットを抜き取った。
ヘルメットの内側から光沢のある赤色の長い髪が、ハイウエイランプに反射する。
彼女は長い赤毛を盆の窪で結び、長いまつ毛に青い瞳のアーモンド形をした両眼にすらりとした鼻梁の下に薄紅色の唇をもった瓜実顔の美人で、その面持は俺にある女性を連想させた。
「私の姉はオーリャ」
オーリャはオリガの愛称だ。
「城の幹部。異父姉妹だけどね」