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運び屋の季節  作者: 飛鳥 瑛滋
第一話 1年目 春 四月
14/196

二章 危険な受取人(7)

                        3


 ここから北上して424号線を権現峠まで上り、そこから194号線を石堂山付近まで行くと、途中で車一台分の横幅しかない山道がある。江戸後期に建てられた一日一組のみ宿泊出来る隠れ家的な宿がある。そこは【(みや)様】と呼ばれる女主人が切り盛りしており、素朴な山里料理が宿泊者を楽しませる。

 以前、運びの仕事で寄ったのだが、女主人との会話が面白くもあり、また出された茶菓子が甘いものが苦手な俺でも美味いと漏らしてしまう程、良く出来たものであった。以来、この近辺の仕事で時間がある場合には、そこに顔を出すようにしていた。

 さて、一部の方々のみ有名な宿だから、運が良ければ予約が空いているのだが今日はどうかな。

 俺は事前に連絡を取ろうと、その宿の電話番号をプッシュするすると、すぐに繋がり、ゆったりとした女性の声が伝わってきた。

「お掛けになった電話番号は使われておりません。電話番号を」

「ちょっと待った」

 俺は嫌われているのではないかと思いつつ、その声を遮った。

「ひょっとして、今日は都合が悪かったかな?」

 暫くの沈黙した後、彼女は変わらない口調で答えてくれた。

「いえいえ、先程、お客様がお発ちになられまして。それまで、やれ料理の味が薄いだの、女将の愛想が無いだのクドクド言われていたものですから、ぶぶ漬けを出したいのも堪えて接待していたんですよ。だから今日はこれからのんびりとテレビでも見ながら、お茶と煎餅で心身ともにリフレッシュしたかったんです」

 俺はその顔も知らない宿泊客を呪い殺したくなってきたが、とりあえず急ぎの用件を伝えることにした。

「寛いでいるところをすまないが、今晩泊めて欲しいのだ。ちょっと訳ありなんで詳しい事は訊かずに頼む」

 本来、この宿は電話での予約を受け付けない。この宿を知る者の紹介状と、宿泊希望者の住所と人数を同封した封書をのみ受け付ける。宿泊可否の返信も封書の為、基本この宿に関しては飛び入りは許可されない。

「珍しいものですね。いぬい様は仕事に関しては、他人の手を借りる事を嫌っておりましたのに。かしこまりました。生憎、食材の持ち合わせが乏しく、大したもてなしが出来ず申し訳ありませんが、ごゆるりとおくつろぎ下さい」

「有難う。助かる」

 俺は肩の力を抜き、心の底から礼を述べた。これで無事、宿に着きさえすれば今晩の安全は確保したも同然だ。

「えーと、もう落ち着いたか?」

 胃の中が空っぽになっても、まだ苦しいようで、先程からしゃっくりを繰り返す少女は文句の有りそうな険のこもった視線を俺に向けた。

 しかし、此処から宿までの道程は山の中を突っ切るものであり、その曲がりくねったコースは311号線で痛めつけられた少女の胃を、更に揺さぶってくれるだろう。

 俺はこれから何処に向かうのか少女に説明した。少女も俺の案に従うしかないのは解っているようで、小さく頷いて「出来れば安全運転で」と答えた。

 いや、このコース、安全運転じゃないと落ちる場所があるんだけどね。

 どうにか峠越えを終えたのは、午後二時を回った頃だった。207SWはレンジ3でゆっくりと山道を登り始める。此処の道幅は狭く曲がりくねっている為、対向車をよけ損なえば山肌へ飛び出し、横転しながら下の道路へ叩きつけられることとなる。プジョー207はコンパクトカーの中では3ナンバーの横幅が広い部類に属するから、こういった日本の道路には不向きかもしれない。

 一時間後、207SWは対向車とすれ違うこともなく目的の宿へ至る山道へ辿り着いた。

 道は雑木林を横断するように通っており、午後三時過ぎのといえばまだ明るいはずだが、日光が生い茂った木々の枝葉に遮られて、ヘッドライトで前方を照らしておかないといつの間にか道を間違え、全く別の道へ入り込みそうだった。

「おっ」

 不意に道沿いの木々の間から表門が覗いた。その表門は銅板葺きの屋根を土塗りの真壁作りの壁と丸太柱が支えており、素朴な雰囲気を持っていた。

「着いたよ。ここが今日の宿だ」

 俺は庭に道沿いに207SWを停め、少女に下りるよう促した。

 少女は車外に出ると驚いたように屋敷を眺めた後、庭先をぐるりと一望して固まった。 土壁作りの塀の向こうにも無数の木々や草花が生い茂っており、その合間から屋敷が覗いている。

 どうやらこんな場所に来るのは初めてらしく、俺が表門をくぐり屋敷の玄関に向けて敷石を歩き出した後を、少女はおっかなびっくり辺りを見回しながらついて来た。

 玄関は引き戸でその取っ手や戸に掘られた彫刻は、戸の下部に彫られた鯉が、戸の上部へ至ると竜に変わっているもので非常に精緻(せいち)で見栄えが良い。

 俺は引き戸の傍らに吊るされた魚の形をした板を、それに突き刺してある(ばち)で数度叩いた。木々の間を子気味よい乾いた音が鳴り響く。

 少女は魚の形をした板が珍しいのか、それをしげしげと眺めている。

「ああ、それは魚板といって、お寺や古い旅館ではそれを叩いて時刻を知らせるんだ。木魚の原型といわれていてね、板じゃなく円柱のもので魚鼓ってのもあるぞ」

 少女が意外そうに俺の顔を見た。ま、運び屋でもこれくらいのことは知っているんだぞと胸を張っておく。

 引き戸の向こうで誰かが三和土に下りてきて、引き戸の鍵を回して外す音が聞こえた。

 しかし、ねじ式の引き戸の鍵をまだ使っているとはね。セキュリティの面では女性が一人暮らしする家にしては、少々不用心だと心配になってくる。

 引き戸が滑車の滑る音と共に開かれ、中から着物姿の女性が姿を現して一礼した。

「乾様、ようこそのお運び、厚くお礼申し上げます」

 軽くウエーブのかかった長い髪を襟の下で桜色のリボンでまとめ、老茶色の地に薄い桜色の花弁を散らした着物と紅色の帯を組み合わせて着こなしたこの女性は、瓜実顔に細く目尻の垂れたいつも微笑んでいるような表情をしており、この宿を訪れた者を見ているだけで和やかにさせる事で有名である。

「いや、こちらこそ急で済みません」

 俺は彼女に見とれそうになるのを堪えて非礼を詫びた。

「いいえ、幸い明日は空いておりますので、お心置きなく寛ぎください」

 宮様と呼ばれるこの女性は、突然の来訪を気にした様子もなく俺達を上り口に通した。俺の後ろからついて来る少女についても、何も尋ねてこないのは客の私事には立ち入らない宿の女将としての矜持(きょうじ)からであろうか。

「あの、ここに泊まるのは、高く、ないの?」

 少女の問い掛けに、俺は答えず両掌を肩の高さまで上げて肩をすくめるしかない。

 上り口で靴を脱ぎ廊下に上がる。

 この宿は玄関の右手に八畳と三畳の茶室、正面の納戸を挟んで客室である六畳と八畳の和室が並んでいる。宮様は俺達を八畳の客室に通してお茶の用意を始めた。

 少女と俺は彼女の用意した座布団に腰掛け、二人そろって室内を見回した。

 床の間は【本床】で格調高く、床脇も違い棚が備え付けられて、そこに置かれた蒔絵の置き箱も庶民では想像もつかないほどの値打ち物だろう。隣の六畳との仕切りは襖が置かれ、その表面には日曜朝のNHKで見るような立派な草花が描かれている。

 更に鴨居上部の欄間の透かし彫りは日光東照宮もかくやという様な透かし彫りが施され、この部屋に泊まる者の目を愉しませているのだろう。

 うん、一泊何円(いくら)なんだこの宿。

 ひたすら感心する少女と、宿泊料金について、どうやって交渉しようか悩む俺の前にお茶とお茶菓子である栗羊羹が盆に載せて差し出されてきた。

 お茶に口を付ける。温度はおそらく五十五度。ほんのりと甘い。

「お二人とも、上着を預けて寛いで下さいませ」

「は、はい」

 少女は緊張しているのか、あたふたと学生服である薄茶色のブレザーを脱いで宮様に手渡した。それを微笑みながら見つめていた宮様は、不意に俺に向き直り一言言った。

「綺麗なお嬢様ですね。娘さんですか」

「おう」

 俺は不意を打たれて仰け反った。俺が独身であることは知っているはずだが。

「違います。少し理由があって一緒に居るだけです。俺は何時、宮様に求婚しようか悩んでいるんですよ」

「ふふ、御戯れはそれぐらいにして、上着はどうしますか」

 どうやら全然相手にされていないようで、宮様は俺ににこやかに笑いかけて上着を脱ぐよう促した。俺は、いや、半分本気なんだが、と心の中で呟いて黒のジャケットを脱いで預ける。

「ところで宮様」

 俺はサングラスを外し、目下の懸念事項について解決すべく宮様に改まって声を掛けた。

「はい、なんでしょう」

 対して宮様は春風駘蕩(しゅんぷうたいとう)、俺の懸念事項など予想もしていないに違いない。

「実は、宿泊代を後日、改めて払うことにして頂けないだろうか。転がり込んでからこんな事を頼むのは非常に気が引けるのだが、いま持ち合わせが全く無いんだ」

 拝むように右手を眼前にかざした俺へ、宮様は表情一つ変えずに穏やかな口調で答えてくれた。

「かしこまりました」

 持つべきものは菩薩の心を持った美人の知己である。

「では乾様は、風呂の水汲みと薪を割って湯沸し。それに私とこの子の夕食の準備で宿代と致しましょう」

 俺は彼女を拝んだままの姿勢で畳に突っ伏した。

 まあ、外に放り出されるよりマシなのだが。

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