四章 慈悲深き手【ドーヴルィ ルーキ】(1)
四章 慈悲深き手【ドーヴルィ ルーキ】
1
「おう、待たせたな。とっとと出してくれ」
用を足し終えた孝道が207SWの後部座席に帰って来たのは、俺が携帯電話をゆっくりとスラックスのポケットに突っ込んでから数分後であった。
俺は黒手袋を嵌めた両掌をステアリングに置いたまま宙を仰いだ。
視界に入ったバックミラーには、金髪馬鹿がプジョーの柔らかく乗り心地の良い後部座席に身を沈めてふんぞり返っている。
二十四時間営業の店内コンビニで購入したのか、右手の袋からピーナッツを摘み取って口腔内に放り込むと、硬い咀嚼音を響かせながら食べ始めた。
「……孝道さん」
「あ?」
「済まないが車内飲食禁止なんだ」
「我慢しろよ、運び屋。あと何時間、車に乗せられると思ってるんだ。腹が減るんだよ」
「我慢するのはお前だ、孝道。此処で降りてハイヤーでも呼ぶか? だがな、それだとお前は死ぬぜ」
「ああん、ワレ、今何つーた」
「右手の指の傷、歯に当たったんだろ。全て解ったよ」
孝道は沈黙した。ピーナッツの袋に指を突っ込んだまま動きを止める。
「俺はあそこのボスからお前の引渡しを求められている。後藤も奴等の手の内だ」
「……俺を、売るのか?」
「売る程の価値がお前にあるとは思えない。ロハで進呈するんだ」
「依頼を無視するのか、金が手に入らねーぞ」
「金を払うのは依頼人。お前はグラム幾らかの単なる荷物さ」
報酬は永遠に支払われない可能性の方が高いが。
俺の嘲笑に激昂したのか、孝道の右手が腰の後ろに回ると銀色に光る凶器を抜き出して身を乗り出した。
運転席のシートにしがみ付く様にして、俺の頭のてっぺんに小型拳銃を突き付ける。
「なあ、解ってんのか? 此処で殺してから車を奪って逃げてもいいんだぜ」
「短気な奴だ。こうして、あの口の利けない娘を痛めつけたのか?」
孝道は俺の問い掛けにその時の気分を蘇らせたのか、片頬を吊り上げて銃口を俺の頭にねじ込む様に廻した。
「ああ、あのガキか。上玉だったぜ、甲斐甲斐しくてよ。流石は会員制だ。だがな、囀れねえのは面白くねえんだ。お客をなんだと思ってやがる」
いや、金払ってないだろ、お前。
俺の胸中の抗議にも気付かず孝道は言葉を続ける。
「ひょっとしたらショックで喋る様になるかのうってな、ぶちまわしたんじゃが、こっちの指を切ってもうたのは迷惑だったわ。まあ、あれの具合は良くなったからええがの」
「……」
良かったな、後藤のおかげで命拾いしたぞ。
俺はシートベルトのロックを外し様、深々と運転席に身を沈めたまま尻を前に滑らして頭を下げた。
孝道は消え失せた標的に面食らうものの、運転席のヘッドレストが邪魔で腕が下がらずに銃口が宙を彷徨う。
俺が両手を伸ばして小型拳銃を握り締めると孝道は反射的に引き金を引こうとしたが、引き金の後ろに突っ込まれた俺の右親指が引き金をそれ以上後退するのを許さず、銃口は沈黙したままだった。
さらに俺は身体を左に傾け、孝道の右腕を運転席と助手席の間に挿み込んで自由を奪うと、握られた小型拳銃の銃口を手の甲側へ百八十度背後に向けて回転させる。
孝道の小型拳銃の引き金とトリガーガードに挟まれた右人差し指が、鈍い音を立てて反り返った。
「あ、ががが」
手を広げて小型拳銃を手放した孝道は強引に挟まった右腕を引き抜くと、折れて反り返った右人差し指を元に戻そうと引っ張り始める。
「指が、殺んぞ、おんどりゃー」
後藤と真珠はもっと痛かっただろうな。
俺は小型拳銃を拾い上げて孝道へ向けた。
「……な、なんしょん」
「訊かないと解らないか? 俺は銃口を向けてきた相手を許せるほど寛大ではなくてな」
「や、やめ……」
本気だと思ったのか後部座席に張り付くようにして怯える孝道へ、俺は小型拳銃の弾倉を抜いてから遊底を引いて薬室の一発を取り出すと、それらをバラバラのまま投げ返した。
「だがお前は荷物で依頼主の許可無くては廃棄出来ん。だが、俺に危害を加えようとした落とし前は違約金として徴収させてもらう」
俺は孝道の傍らに置かれた鞄を顎で指し示した。
「その鞄の中の現金を預からせて貰う。依頼達成後、必要経費の五倍を差っ引いて返してやるよ」
「……な!」
「それとも命か。それならその銃を向けるといい。言っておくが、此方の方が早いぞ」
俺は背広の左懐へ右手を差し込むと、内ポケットからコンバット・フォルダーを抜き取り刃を起こした。
その早業に孝道が大きく目を見開く。
それに対して奴の小型拳銃は、銃に弾倉を差し込んで遊底を引いてから薬室に弾丸を送り込み、標的へ銃口を向けて引き金を引く。これだけの動作を行わなければならない。
どちらが有利かは明確で、孝道は鞄を取ると俺に突き出した。
「これはいらない」
鞄の中から書類の束を抜き取り孝道に引き渡す。これは後藤の意地の塊であり、俺が持っていても仕方の無いものだ。
俺は助手席に鞄を置くと、カッターシャツの胸ポケットに挿したボールペンと207SWのグローブボックスから取り出した補修用のビニールテープを孝道に放り投げる。
「添え木代わりに人差し指に巻いておけ。無いよりはましだろう」
「ふざけるなよ、クソ野郎」
孝道は悪態を吐くが実際に不便なのは仕方が無く、いそいそと右人差し指にボールペンを添えてビニールテープを巻き付けていく。
俺は運転席に座り直してシートベルトを袈裟懸けに掛ける。後部座席の孝道もシートベルトを掛けるが少々動きがぎこちないのは仕方が無いだろう。
「手前、金を取るんだ。必ず俺を三原まで生きて連れて返れよ」
正直、これまで襲ってきた三人の様に、相手の油断や本気を出す前に不意を衝けるかどうか解らない。
相手も三回の攻撃を無駄にされてはそれなりの相手を寄こすだろう。
慈悲深き手。この構成員がセルゲイの抱える殺し屋なら実力から言えばメエーチが出てきてもおかしくは無い。奴とは何度か手合わせしたこともあるが、その長い手足から繰り出される斬撃や突きは予想もしない方向から繰り出される為に防戦一方となってしまった。
それに城の階段ですれ違ったオリガ達三人は、腕は立つ事は解るがどのような戦い方をするかは不明で、こちらとしても対処法が確立出来ない。
さて、このまま相手を傷つけずに退散させることが出来るか?
「まあ、なるようにしかならんか」
後藤は意地を通した。俺は意地ではなく、それ以外の選択肢を持ち合わせていないだけだ。
アクセルを踏み込み、俺は損する事は在っても得することの無い依頼を再開することにした。




