三章 追撃者(7)
携帯電話の向こうからオリガの息遣いが遠ざかるが、代わりに荒い呼吸音が俺の耳を震わせた。
「――ド、ブ――」
息が荒く、何を喋っているのかよく聞き取れない。
「――ブレードっつ、すまねえっ!」
喉から搾り出すような怒号にも似た苦鳴は俺の見知った男のものであり、急に連絡の取れなくなった依頼人の声でもあった。
「後藤か?」
つい携帯電話を耳に押し当ててしまい聞き取り難くなった音声だが、それでも木の軋む音と後藤の荒い息遣いを俺の鼓膜に伝えてくる。
「どうした、何があった?」
「……木の椅子に座らされて、針金で括り付けられて、身動き、出来ねえ、んだ。この女、とんでもないタマ、だぞ」
後藤は無理やり笑うような引きつった声を上げる。
「お前と別れて、店から出ようした。そしたら、この女が入ってきて、ストレート一発で俺のアバラをへし折りやがった」
後藤も堅気ではない。日頃、有事の際に遅れを取らない様に体は鍛えてあったはずだ。それを一撃で黙らせるとは、やはり階段ですれ違ったときの戦慄は間違いではなかったのかもしれない。
「……孝道、は、いるか?」
「いや、今は用を足しに外へ出ている。奴に用か?」
「まだ、無事か。それなら、いい。すまねえ、肩をバイスで、挟んで砕かれた。行き先を喋っちまった。俺達は、とんだヘマを、こいちまったんだ」
「……」
「あい――」
後藤の声が遠くなる。
「今、貴方の置かれた状況が解ったかしら」
オリガの落ち着いた声音を聞き、俺も激昂し掛けた自分自身を何とかねじ伏せた。
此処は冷静さを欠いては駄目な局面だ。後藤を攫った相手の目的を訊くのが先決だ。
「ああ、よく解った。君の平手打ちはとても痛そうってことがな」
「はっ、余裕があるのね」
オリガの嘲笑と共に、鈍い音と男の苦鳴が響いて来る。すまん、後藤。
金属同士のかみ合う音が、俺の記憶から物騒な得物を浮かび上がらせた。
「貴方が素直になる様に、この男の膝を散弾銃で吹き飛ばしてもいいのよ。密着しているから膝から先はきれいに失くなるでしょうね」
「……何が目的だ?」
たぶん、この女なら平然とやってのけるだろう。俺は怒りを通り越して冷えて行く俺の内面を意識しながら尋ねる。
「簡単な事よ。貴方が運んでいる金髪の彼を私達に引き渡して欲しいの。もちろん、本人の同意は無しでいいわ」
「……理由はなんだ。俺は運び屋で依頼を受けて運んでいる以上、依頼主の許可無しで引き渡せないぞ」
「安心しなさい。依頼主の許可は私が取ってあげる。貴方は金髪を連れて来るだけでいいの」
オリガは唄う様に平然と答えた。
その言葉の意味は俺にも容易に想像出来る。
「何故、奴に固執する。彼奴と後藤の商談の利権が欲しいのか?」
「そんなはした金どうでもいいの。どうする?」
携帯電話の向うから、おい、やめろよ、と後藤の声が響いた。膝にショットガンの銃口が押し当てられているのだろうか。
「理由は私から話そう、ブレード」
「……セルゲイ、何の茶番だ」
低い張りのある老人の声に、俺は驚きつつも問い返した。
「私もこのような事になって残念だよ。君と私は良い隣人だが、君の連れて来たあの男は、我々にとって良い隣人ではなかったようだ」
あの金髪、何しやがった。
もう少しで携帯電話を握り潰してしまいそうになる己を押さえつつ、俺は胸中でこの場にいない疫病神を罵倒する。
「私は君の紹介した彼を、信頼する君の友人として特別に臨時会員として城に迎えた。私にとっては初めての寛大な処置なのだよ、ブレード」
「……」
その言葉の重さに俺は沈黙せざるを得ない。
「ただ、無料で私の娘達から上位の子をまわすのは他の会員に示しがつかない。私の娘となって間もないが、優しく気配りの良い娘を選ばせて貰ったよ」
一介の運び屋の要求に答える義理はこの老人には無く、本当に善意での施しなのだろう。基本、組織の長は例外など認めてはならないのだ。ましてや鉄の掟で部下達を纏める犯罪組織なら、その行為は綻びを生む原因にもなりかねない。
「私は娘に、私の友人の紹介でその人に失礼の無い様に持て成して欲しい、と頼み送り出した。娘は初仕事だが快く応じて部屋に向かった」
セルゲイは一旦言葉を切って、大きく息を吐いた。その一息に含まれるのは悲嘆か、それとも憤りか、俺には判別出来なかった。
「仕事に向かった彼女と、君の紹介した人物の間に室内で何があったのかは解らん。私は何処かの下卑た組織の様に、部屋内に隠しカメラを付ける気など毛頭ないものでね。全ては会員に対する私の信頼で成り立っているものなのだよ。だが、彼が出て行った後、一向に部屋から出て来ない彼女を心配した娘の一人が、禁を冒して室内に様子を見に行った」
それから先は出来れば聞きたくないものだ。だが俺の手は耳に携帯電話を当てたまま微動だにせず、俺を絶望させる準備を整えていた。
「部屋のベッドに顔を暴打されて血塗れにした娘が横たわっていた。娘から知らせを受けた抱えの医者が処置を施して一命は取り留めたがね」
「――っ、最悪だ」
声に出したものの、何が最悪かは俺には解らなかった。その様な目にあった娘なのか。それとも娘をそんな相手に送り出してしまったセルゲイの胸中か。何の理由か解らないが、相手の娘をそんな目に合わせた孝道の存在か。それに巻き込まれた後藤と俺の運か。
「娘が何か粗相をしたのか、それは私には解らんが、娘は役目を果たしたのだろう、と私は確信しておるよ。あの娘はこの城でただ守られるだけの存在であることは嫌だと、自ら役目を引き受けたのだから。優しく生真面目な娘なのだよ」
セルゲイに引き取られる娘達は、何処にも居場所が無く生きる術を持たない者が大半だ。だから彼女達は日々を精一杯生きており、生半可な仕事をする者はいないだろう。それぐらい俺にも解る。
「だが、君の隣人はそんな娘を傷付けた。娘は口が利けないのでね、助けを呼ぶ事も出来ずにされるがままだったのだろう」
「……え?」
セルゲイの言葉に俺は声を漏らした。
今、何と言った? その言葉すら喉に張り付いて出て来ない。
ドライヴに行こう。
「そうか、君は彼女のことを気にしていたな。ロビーで親しそうに話していたとアレクセイから報告を受けておる。そうとも、真珠だ、ブレード」
本当にどうしようもない、そう呟くしかなかった。あの少女が傷付いたのは俺が原因といっても間違いではない。
噛み締めた両顎の奥歯がぎちぎちと異音を発する。
「本当に、奴が傷付けたのか?」
「廊下の監視カメラには君の隣人以外、あの部屋から出て行った者は映っていない」
一縷の望みを抱いた俺の質問を、セルゲイはあっさりと否定した。
セルゲイ・セレズニョフの娘を彼の居城で傷付ける。俺はそんな大それた事を仕出かした奴を聞いた事も見た事も無かったが、まさか俺がそんな事に関わるとは。
後藤の言っていた「とんだヘマ」とはこの事だろう。俺もそんな感想しか出て来なかった。
確かにあの三人が襲ってきたわけだ。納得したくは無い。だが納得せざるを得ない。




