三章 追撃者(6)
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神戸西ICを通り過ぎ、三木ジャンクションへ向かう途中で携帯電話から黒電話のベルが鳴る。着信だ。
携帯電話をスラックスのポケットから抜き出して着信画面へ一瞬だけ目をやると、見慣れない電話番号が表示されていた。
いや、何処だったかその電話番号の数字の羅列を目にしたことがあった。
携帯電話をスラックスのポケットに戻して、運転しながらその電話番号を記憶の底から手繰り寄せる。
「――!」
記憶にあるのも当然だ。今日の晩、その電話番号が表示された携帯電話を使用した。
そう、ロシア料理店でマーシャから受け取った直通専用の携帯電話に表示されていた番号だ。
その相手は非合法組織「聖なる泥棒」の幹部であり、クラブ「城」の主であるセルゲイ・セレズニョフ。
そこで俺は胸中で首を傾げた。
セルゲイから直接、俺に電話連絡してくる用件に心当たりがない。運びの依頼なら情報屋を通じて連絡しなければならないことは、幾度か依頼を受けたことがあるのでセルゲイも解っているはずだ。
そうなると、何の用か?
そこで俺はあることに思い至った。
会員でしか館に入ることが出来ず、サービスを受けれないクリェームリ。
俺達はセルゲイの好意で、特別に会員でない金髪アンちゃんの孝道にクリェームリでの接待を受けることを許可して頂いた。
あくまで許可を頂いたのであって、その料金等は零円で無かったとすれば。
俺は背中に冷たい汗が滑り落ちるのを感じながら、何気なく口を開いた。
「孝道さん」
「あ」
「孝道さんは、あのロシア人の館でサービスを受けた時、料金を払ったのか?」
「……いや、お前等の奢りじゃないのか?」
何馬鹿なことを聞いているんだ、とでも言うかのようにすぐさま回答が帰ってくる。
「……」
ひょっとすると料金を踏み倒して出てきたのかも知れない。
とりあえず、次のSAで車を停めてセルゲイに連絡を取らないといけない。
もし幾等になるのか解らないがクリェームリでの金髪の受けたサービス料の請求なら、次に彼等のところへ顔を出す機会があれば、その時に支払いを済ませることを了承してもらおう。
そのついでに、クリェームリ前の階段ですれ違った赤毛で長身の彼女の名前と携帯電話番号を聞けないものだろうか。
三木SAの駐車場に207SWを停める。
神戸市の北側に隣接する三木市は金物の町として有名で、毎年秋頃になると「三木金物祭り」が市役所前の駐車場を会場にして開かれている。
その会場では個人でのカスタムナイフ等が出展、販売されている為、刃物好きの俺も見物がてら出店のグルメを楽しんでいる。
三木の学生が考案したバジルカレーは好評らしく、昼過ぎにノコノコと来店する俺は何時も食いはぐれているのだが、今年は湖乃波君を連れて早めに会場に足を運ぶのもいいだろう。
また三木の稲見酒造から販売されている日本酒「葵鶴」は酒米山田錦から造られる純米酒で、そのまろやかな味わいは日本酒党のみならずワイン党にも飲みやすいものだ。俺も時々、料理店の依頼でこの葵鶴を買い出しに来ることがある。
コンビニでトイレに行きそびれた孝道がトイレで用をたしている待ち時間に、俺はセルゲイに電話を掛ける事にした。
携帯を取出し表示された電話番号を選ぶ。
「ナ プローヴァジェ」
呼び出し音を数回訊いた後、俺の耳に入って来たのは低いが若い女性の声だった。
その声質の深さに、何故か俺は階段ですれ違った赤毛の女性を連想する。
「ブレードと呼ばれている運び屋だが、君は今日、階段ですれ違った赤毛の女性か?」
「正解ね。オリガよ」
「?」
「私の名前」
ロシアの女性ではありふれた名前だ。彼女の雰囲気からもう少し変わった名前かと思ったんだが。
「どうやら、神はいるらしいな」
携帯電話の向こう側が沈黙する。俺の言葉の真意を測りかねているのだろう。
「さっきまで君のことを考えていた。俺と貴女は運命的に繋がっているのかもしれない」
「運命、ね」
「齢を取った爺さんでなく、君が出てくれた事がその証拠だ。次に出会う時には君の黒いシャツに映える鮮やかな赤い薔薇を贈ろう」
携帯電話の向こうから彼女の含み笑い、いや苦笑が響いて来る。
「マーシャから聞いた通りね、運転手。貴方は女ったらしだから五メートル以内に近寄らないように言われたわ」
「そうかな、俺はどんな女性に対しても誠実で紳士的な態度で接してきた筈だが?」
「そうどんな女性にも答えるのでしょう?」
「いや、貴女に対しては紳士的に振る舞える自信が無いんだ。俺のルールを反古することになるかもな」
「それは私が魅力的だから。と、受け取って良いのかしら?」
「ああ、貴女はそれ程、俺にとっては危険で、つい引き寄せられそうになる」
「危険、ね」
俺には彼女の苦笑が増々深くなったような印象を受けた。調子に乗り過ぎたか?
全く、良い女と知り合うと、つい歯止めが利かなくなる。それが俺が悪いのか、それとも良い女性を作り出す神様が悪いのか。
「そう言えば、貴方には妹達が世話になったわね」
「妹達?」
彼女の言葉に俺は眉を寄せる。
さて、赤毛の彼女より若いロシア系の女の子に知り合いがいたか? 思い当たる人物が無いのだが。
「真珠」
彼女の言葉に、俺の脳裏に濡れた手拭いを差し出して見上げて来る銀髪の少女の姿が浮かび上がる。
「……君の妹だったか。いや、世話になったのは俺の方だ。後で君の御蔭で頬の腫れが早く引いた、そう伝えてくれ」
「ええ、伝えられたらね」
彼女の言い回しに違和感を抱いたが、更に別の違和感に気付いてオリガに尋ねた。
「妹達と聞いたが、他に俺と面識のある子がいたのか?」
「ええ、貴方もよく知る三人だわ」
三人と聞いて俺の鼓動がひとつ大きく波打った気がした。これは危険だ。
「一人目は蜘蛛《パウーク》」
シャッターに刺さった手斧を足場にして、ハエトリグモのようにシャッターを駆け上がり宙を舞う黒いパーカーにハーフパンツ姿の少女を思い出す。
「二人目は魔女」
アポロキャップの少女は、視認出来ない製品棚の向こう側へ正確に銃弾を撃ち込んできた。聴覚が優れているのかもしれないが、その為に跳んで来た洗剤のペットボトルを反射的に撃ち落したのが彼女の敗因だ。
「三人目は人狼」
デニム地の上着とスカートにそばかすの残るあどけない顔立ちの少女は、普段は年齢相応の少女として行動し、標的と接触すると月を見た狼男の様に暗殺者へと変身して凶刃を振るう。
「……」
俺は倦怠感を覚えて深く息を吐いた。
「三人とも怪我させることなく戦意を挫いて撃退するとは、父やメエーチが気に入るだけの事はあるわね」
そういえばオリガという名はセルゲイと面会した折、彼の口から直接聞いた。そして、娘がいるとも語っていた気がする。
「君はセルゲイ・セレズニョフの娘なのか」
「血の繋がらない養女だけど、セルゲイから跡を継ぐように言われているわ。だからセルゲイの保護した子達は私の妹となるわね」
いずれクラブ「城」の頂点に君臨する女性は、それが何でも無い事の様にあっさりと告白した。
だが疑問は残る。
「それなら、取るに足らない運び屋に大切な妹を刺客に送り込むのは何故だ。俺は君達の掟は尊重して行動した心算だが、何かを間違えたか?」
「……説明はしてあげる。その前に聞いて欲しい事があるわ」