三章 追撃者(4)
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「途中でコンビニによって、消臭剤とビニルテープを買わないとな」
さて問題はどのルートで三原に向かうか、だ。
順当に進むなら柳原入口から阪神高速に行くべきだが、先程の襲撃を考慮して新神戸トンネルへ迂回しておくか。
俺は駐車場を出ると左折して三宮方面へ207SWを走らせる。多少の時間ロスは高速道路で取り返す様に努力することにした。
新神戸トンネルに入る前に、ジャガー神戸中央サービス横のコンビニで消臭剤とビニールテープを買う事にする。
ちなみにジャガーは英国車のJAGUARの事で、正確にはジャグワー、またはジャギュアと発音するのが正しい。うーん、英国車だからジャギュアだろうな、やっぱり。
コンビニの駐車場に207SWを停めた。
孝道には車の中で待っていて欲しかったのだが、高速に入る前にトイレに行きたいと言い出したので仕方なく一緒に店内に入る。
店内に小さな人影を認めてぎくりと足を停めてしまう。
「お、止まるな!」
背中にぶつかった孝道が抗議するのを無視して俺は少女の全身を観察した。
こちらに背を向けて顔は解らないがセミロングの髪にアポロキャップを深々と被っている。
店の一番奥に当たるスイーツコーナーを物色中で怪しい気配は無い。
ちょっと神経質になっている様だ。いちいちこの街であの年頃を警戒していれば四六時中、神経の休まる間は無いから、とっとと買い物を済ませて高速に上がろう。
レジカウンターに店員の姿は無い。奥でから揚げの準備をしているのだろうか。
俺は一応礼儀として、店員にトイレの使用を求める事にした。
レジカウンターに手を付いて店の奥を覗き込もうと身を乗り出す。
「すまない、トイレをつ――」
レジカウンターの影には両手を後ろ手にガムテープで固定され、口にもガムテープを張られた眼鏡姿の男性が鼻息荒く俺を見上げていた。
「!」
俺はスイーツコーナー傍の天井にある防犯カメラが黄色い塗料で汚されて役に立っていない事に気が付いた。アポロキャップの少女の足下に逃走犯に投げつける識別ボールが転がっている。
「孝道!」
トイレに向かおうとした孝道の背中を足刀で吹き飛ばすと、桔梗色の購入したばかりの背広の背に俺の足形を残しながら孝道は背筋を逸らして床上に滑り倒れる。
彼の頭の高さにあった製品棚の男性用化粧品の瓶やチューブが、空気の漏れる様な押し殺した音と共に次々と弾け飛ぶ。
サプレッサー?
俺はアポロキャップ姿の少女の手元に注意しながら、レジカウンターから身を低くして製品棚の影へ滑り込んだ。
「お」
孝道はおい、とでも言おうとしたのか、にじり寄ろうとした奴と俺の中間を再び圧縮音とともに飛来した何かに床と製品棚を蹂躙されて、言葉を区切って背後へ倒れ込む。
短機関銃?
少女は明らかに飛び道具を使用しており、二人とも製品棚の影で釘づけにされて身動きすら取れない。しかも製品棚は視界を遮ってくれるものの銃弾を防ぐ事は不可能なのだ。
俺は身を低くして製品棚から顔を覗かせて少女の姿を確認すると直ぐに引っ込めた。
案の定、顔を覗かせた箇所に銃弾が浴びせ掛けられ、お菓子の中身が床上に散らばった。
アポロキャップの少女の武器は小型の短機関銃で、チェコのスコーピオンに似ているものの細部が異なっておりサイレンサーが付いている。
「わわ、ワレ、何とかせーや」
銃撃初体験だったのか、孝道の歯はかみ合わず声も上ずっている。言われなくとも、このままでは二人共あの世行きだという事は俺もよく解っている。
「孝道、俺が製品棚の裏に回って彼女を引き付けるから、お前は最短距離で入り口に向かえ。いくら夜も更けたとはいえ、外で大声を上げるなりすると誰か異常に気付くだろう」
ガクガクと孝道が首を上下に振る。
「よし、三ッつ数えてから始めるぞ。い」
間の抜けた電子音と共にコンビニの自動ドアが開いて俺と孝道が視線を向けると、デニム地のジャケットとスカート姿の茶色の髪をなびかせた少女が店内に足を踏み入れる所だった。
アポロキャップの少女の手がしなり、入り口脇の屑入れが銃弾を浴びて異音を立てる。
固まるデニムの少女の頭上へ銃弾が跳び、天井の構造材の雨が少女に降り注ぐ。
「……あ」
アポロキャップ姿の少女の存在に気付いた彼女はぺたりと尻餅をついて、閉じた自動ドアにもたれ掛かるよう脱力した。顔を伏せて少女に向かって手をかざして震えている。
「……」
「……」
おおーい、そこでしゃがまれると逃げられないんだが。
作戦を実行に移す前に失敗した事実に憮然とした俺は孝道へ次の指示を出そうと振り返った。
「おい、とにかくトイレに逃げ込んで、銃を構えて……」
孝道は真っ青な表情で何かを呟いてこちらを見ていない。
どうやら戦場で新兵の起こすパニックと同じ状態に陥っている様だ。これが酷くなると喚きながら自ら銃弾に身を晒すこともある。
「こら、戻って来い」
とりあえず頭頂部に手刀を入れておく。スパアァンと小気味の良い音と共に孝道の両眼に光が戻った。
「なにすんじゃ、ワレェ!」
ぶん、と渾身の右フックを返してきたので首を傾けて避ける。
全く、手間の掛かる奴だ。その元気さでこの事態を打破してくれればいいのだが。
俺は辟易としながらも、何か役に立つものは無いものかと製品棚を眺め回す。
中段にオレンジ色のプラボトルに入ったスプレー式の食器用洗剤が二本と、それの詰め替え用ボトル二本を見つけて、まず詰め替え用を手に取った。
上下に充分振ってから少女の頭上に放り投げる。
本当は水の入ったペットボトルと一緒にビニールテープで括り付けてから投げたかったのだが、ガラスの冷蔵庫を開ける手間が無い為、それは断念した。
詰め替え用のボトルは短い連射音と共に空中で銃弾に捕捉されてはじけ飛ぶが、その直後に少女の悲鳴が響いたのは液体洗剤を引被ったからだろう。
「よし」
俺はヴァレンティノの革靴にフェイスタオルを巻きつけると、スプレー式の食器洗剤を右手に、もう一つの武器を左手に持ち製品棚から飛び出した。
コンビニの狭い店内での戦闘は製品棚が並んで視界が遮られ易く、容易に相手の接近を許してしまう。
ぐっしょりと濡れたアポロキャップが床に脱ぎ捨てられ、指先から洗剤を滴らせた少女が俺を怒りに満ちた青い瞳で補足する。
少女の持つ短機関銃が俺に向けられるのと、俺の持つもうひとつの武器、空の買い物籠が振られて、その網目に短機関銃の銃口を引っ掛けるのはほぼ同時であった。
その勢いに少女がバランスを崩したのは、床に撒き散らされた食器用洗剤の仕業なのだが、その隙を利用して右手のスプレーから少女の端正な顔をめがけて洗剤が噴射される。
咄嗟に目を瞑る少女の右手から短機関銃が炎を吐き出し続けて不意に止まった。弾切れだ。
スプレー式洗剤を捨てた右手を少女の右肘に掛けながら、巻き込むように背を向けてしゃがみ込むと少女が引っ張られて仰向けに床に倒れこむ。
「泡まみれになるには、あと一〇年は経たないと、な」
床上から睨み付けてくる少女を苦笑交じりに見下ろした。
しかし、黒パーカーの娘やこの娘はいったいどこの誰であろうか。
「……もしかして、君のお母さんに俺が手を出したとか?」
いや銃をぶっ放すような過激な娘を持っていそうな女性に手を出したことは、俺は一度も無い、いや、無いとは言い切れないが、それでもこれは行き過ぎだ。
俺は少女の手を離して立ち上がった。
「どうする、まだやるかい? 大人しく帰ってくれるなら俺は助かるんだが」
弾倉を交換するそぶりを見せるなら、俺も其れなりの対処法を講じる必要に迫られる。出来れば店からとっとと出て行って欲しい。
少女は身を起こすと数歩後ずさってから背中を見せて、しゃがみ込んで怯えているデニムの少女を突き飛ばすようにして自動ドアを抜けて走り去る。
店内には忘れ去られたアポロキャップが床に佇んでいたが、それを拾い上げて少女の後を追う気力など俺には無かった。
「へーっ」
大きく息を吐いて床へしゃがみ込む孝道を、俺はある疑念を抱いて眺めた。
この場で奴を問い質すべきなのだろうが、それより先に済ませなければならない事がある。
俺は、まだ自動ドアの前でへたり込んでいるデニムの少女の前に足を運び、彼女の前にしゃがんで顔を覗き込んだ。
「済まない。とんでもない事に巻き込んでしまったな。少し訳ありで大事に出来ないんだ。警察には黙っていて欲しい」
我ながら厚かましいお願いだなと苦笑する俺へ、デニムの少女は伏せていた顔を上げて全てを拒否するように突き出していた両手を重ね合わせた。
少女の茶色の髪とそばかす痕の残った北欧系の白い頬をした少女の顔立ちに、俺は可愛い顔をしていると感嘆するより、続け様に外国人と思われる少女に襲われた事実が脳内に警笛を鳴り響かせる。
少女の差し出された手から距離をとる様に膝を浮かせるのと同時に、少女の細い右手の指先が左手首の大振りな赤い時計のリューズを摘んで引っ張り出した。
リューズと時計の間を繋ぐ細いきらめきが何かと判別するより先に、少女が両手を交差させる方が早く、俺が己の右腕を首筋を庇う様に翳したのは少女の手の動きからその武器を推測したからに他ならない。
ジャケットの襟の後ろと翳した腕先の布地が少しずつ裂けていく。
少女の狙いは油断してのこのこと近付いて来た間抜けなおっさんを、腕時計を模したリールに仕込んだワイヤーで首を縊り落とす心算だったのだろうが、少しだけ少女の予想より俺の勘が優れていたようだ。