三章 追撃者(1)
三章 追撃者
1
「なんしとんじゃ、ワレ!」
シャッターにもたれかかったまま我に返った孝道の怒号に人影は答える様子もなく、左足を前に踏み出した。
俺は人影に対して半身の姿勢を取りながら僅かに視界に入る黄色ジャージの倒れた姿を窺う。顔は人影に向けたまま、そうでないと僅かにでも顔を背けると先程の様に手斧の投擲で黄色ジャージと同じ運命を辿る事になる。
黄色ジャージの右肩から胸にかけて手斧の分厚い刃が食い込んでおり、その周辺は赤黒く変色して今もなおその領域を広げつつあった。
先程まで咳き込んでいたが今は細く息を吸い込もうとする呼吸音だけが響き、彼の肺が切り裂かれて呼吸困難に陥っているのは確実だ。
もう助からない。
俺は黄色ジャージの事は意識することをやめ、眼前の危機に集中することにした。
人影は華奢で背もそれほど高くはない。こういった手合いはオールラウンダーな戦いをせず一芸に秀でた者が多い。おそらく手斧が一番使い慣れた必殺の武器なのだろう。
華奢な体格の不利を、俊敏さを殺さない程度の重さを持った武器で補う戦闘スタイル。
人影の手が振り上げられ、その右手から放たれた凶器が回転しつつ俺に向かって来た。
どうやら俺を次の標的に見定めたようだ。俺が生きている限り孝道の命は保証されることとなる。
手斧等の重量のある武器は振り上げる等の初動が解り易く、玄人相手に一撃で倒すのは不可能と言っていい。
だから、この投擲はフェイク。
見た目のインパクトがある手斧を慌てて躱そうと姿勢を崩した相手に、次の本命が繰り出される。
ディバッグから再び斧を抜き出した人影が駆け出すと同時に、俺も手斧をシャッターに張り付くようにして躱し乍ら走り出した。
人影に向かって。
左右に店のある高架下の商店街は、通路が人がすれ違うのがやっとという位に幅が狭い。これだと左右に振り回される手斧を避けるのは至難の業で、受け身になれば背後に下がるしかなく、一度態勢を崩せば後はいいようにぶった切られる。
だから前進して状況を作り出すしか、この場所の戦闘は活路が無いのだ。
俺は駆けながら右手を黒背広の左内ポケットへ差し込み、愛用のナイフ、アップルゲート・コンバットフォルダーを取り出そうとした。
相手の手斧が振られる円の軌跡より、より小さく早い楕円を描いて相手の機先を制する。狙いは斧を握る指であり、凶器以外では最も俺に近くなる部位だ。
指が接近してから手斧が俺を捕らえるまでの間に指を切り落として無力化を狙えるのは、ナイフが軽く常にトップスピードで振るう事が出来る武器故に出来る芸当だ。
しかし、背広の左内ポケットに差し込まれた右手の指先がナイフのグリップに触れたものの、そこから抜き出すことを俺は躊躇せざるを得なかった。
それは、俺達を襲ってきた人影と俺との距離が近付くにつれ、その人影の容姿が薄闇の中でも見て取れるようになったからだ。
人影の正体は俺の予想範囲外であり、武器の使用を躊躇わせるものだった。
黒のパーカーと黒のハーフパンツ、肩に軽く触れる程度に伸ばされた光沢の無い黒髪はほぼ闇と同化しており、その白い相貌を浮かび上がらせる。
少し太い眉とその下の黒瞳は顔の面積に対してやや大きめで、人影がまだ成長途中だという事を物語っていた。
華奢な体格も当然だろう。あと一〇年もすれば街を歩くと男達がすれ違ったとたん振り向く、そんな器量を備えた容姿を羨むものも多いだろう。
そんな少女が両手に斧を握ってこちらに向かって来るのだから、神は途轍もなく意地悪だと俺は思った。
左脇に差し込んだ右掌を何も握らないまま抜き出す。
相手が少女だと素手で、尚且つ余計なダメージを与えない様にして無力化しなければならない。打撃は却下。地面が固く大怪我に繋がりかねない投げも却下。そうなると締めか関節技か。
「……」
どちらも少女に対して行うには彼方に非があっても、非常に抵抗のある手段と言えよう。少なくとも特殊な趣味でない事を胸中で弁解する必要がある。
そんな取るべき手段について考えあぐねているうちに少女との距離が詰まり、彼女の右手が横薙ぎに振られた。
身体を僅かばかり仰け反らせて首筋を狙った一撃を回避すると、間髪入れず左手の胴を狙った横薙ぎが俺の背筋を冷たくする。
くるりと少女が背中を見せると次は振り向きながらの下から振り上げられる一刀。
「ちいっ」
上体を仰け反らせたばかりにその場に留まってしまった下半身を狙った攻撃に、俺は強引に片足で地面を叩いて背後へ跳び下がった。着地の衝撃でレイヴァンが顔から外れて地面に落ちるが拾う間など無い。
地面に手を付いてすぐさま起き上がるが、少女が距離を詰める方が早い。振り上げられた一撃が下降へ転じる。
俺は自ら横倒しに倒れると、そのまま少女の両足を取ろうと海老の様な体勢で身体を滑らせて両手を伸ばす。
衝撃音と共に両手の先から少女のアンクルブーツを履いた両足が消える。
「な」
首を捻って見上げるた俺の視界に入ったのは、手斧をシャッターにぶつけてめり込ませると、それを支点にして身体を持ち上げ三角跳びの要領でシャッターを蹴って宙を舞う少女の姿であった。
しかも手に残った一振りの斧が横倒しになった俺の胴を両断しようと振り下ろされる。
「軽業師かよ!」
耳障りな音を立てて分厚い刃が地面を叩き、タイルの表面を割って欠片を宙に舞わした。
俺は丸太の様に転がって少女から距離を取ると、下半身のばねを生かして反動をつけて起き上がる。
「くっはっ」
先程の一連の攻防で俺の息は上がっており、自分自身が若くない事を自覚する。
正直、ナイフを使っていても危ないのかもしれない。
少女は俺から視線を外さずにシャッターに刺さった手斧を引っこ抜く。
襲ってくるのが妙齢の美女なら返り討ちにする気力も湧くのだが、相手が湖乃波君とそう変わらない年頃の娘というのはどうも勝手が違う。万が一しくじって、少女の身を危うくすれば湖乃波君の顔を正視出来なくなる。そんな気がするのだ。
「君、俺が何か悪いことでもしたか?」
念の為、少女に訊いてみた。何しろ身に覚えが有り過ぎる。
もし俺に非があれば土下座でも何でもいいから謝って、円満にお引取り願おう。
「……」
しかし少女からの返答は無く、手斧の刃が俺に向けられたのみだった。




