二章 城(クリェームリ)(7)
「運び屋」
少女の消えたドアから目を離した俺に、ロビーへ入ってきた先導役が声を掛ける。
「爺様の都合がついた」
「五分以上前にな」
俺の言葉に先導役は憮然とした表情を向ける。
「彼女とのゲームが終わるまで遠慮してくれていたな。礼を言う」
先導役が気にするなというように軽く手を振った。
ロビーを横切り二階の反対側にある三階へ通じる階段へ向かう。
階段へ通じる廊下の両脇には此処で暮らす【セルゲイの娘達】の部屋が合わせて一〇部屋並んでおり、各部屋に二人ずつ入室している。
三階へ通じる階段を上がる。
三階はこの館の主であるセルゲイのプライベートスペースとなっており、会員と言えど上がる事は許されず、セルゲイに呼ばれた者のみが例外となる。
階段を上りきるとドアの手前でボディーガードの身体検査があり、それを終えるとようやく三階の内部へ足を踏み入れることが出来た。
幾つかのドアを通り過ぎて、三階のほぼ中央の扉の前で先導役が足を止める。
「爺様、運び屋を連れてまいりました」
「……入りなさい」
先導役が扉を開いて脇に退いた。俺の事はあくまで賓客として扱うらしい。
俺が室内へ足を踏み入れると、薄暗い蝋燭の灯が点っている程度に照らされた部屋の中央に重厚な大机と椅子が設置されており、そこに一人の老人が腰掛けていた。
老人は手にしていた万年筆でテーブル上の書類に何かを書き込むと、小さな金縁の眼鏡を外して右手の人差し指と親指で両眼の間を揉み解す。
「近頃の書類というのは文字ばかりが小さくなり、けたたましく泣き叫ぶヒヨドリの様だ。手紙という者は詠う様に書かれるべきだと私は思っているが、どうかな?」
「善良たる同胞と兄弟達に祝福を。御久し振りです、セルゲイ」
「神と全ての聖人の祝福を。良い挨拶だ、ブレード」
老人は俺の回答に二度頷くと、椅子から立ち上がり身を屈めて俺を抱擁した。
老人ことセルゲイ・セレズニョフはベアバックのごときハグから俺を解放すると満足したかのように再び椅子へ腰を落ち着ける。
セルゲイは老人と呼ばれる年齢域に達しているが一八〇センチ近い体躯に衰えは見られず、時折、杖をついて邸内を散策する光景が唯一彼が老境に差し掛かっていることを周囲のものに認識させる。
彼の頭頂には髪が無いが、その代わりこめかみより下側は豊かな白髪と顎先まで覆う美髭と、その老人とかけ離れた体躯が彼の風貌を老将校めいたものに見せていた。
「顔を合わすのは一年振りか。その様子では元気そうだな」
「貴方より長生き出来る自信はありませんが、何とかやってます」
俺の返答にセルゲイは面白い事を聞いたとでも言うかの様に、手にした杖の先を床に打ち付ける。
「長生き等、勝手について来るものだ。それ自体に意味はありはせん。こうしてウルカの掟に反しても生きる事を余儀なくされているのは罰そのものだ」
そう言ってセルゲイは窓際のイコンと額縁に収められた古びた八角帽を振り返る。
「生きれば生きるほど掟を忘れていく。それでも我々は掟に寄り添って生きなくてはならん。掟は我々の信仰であり、終の棲家でもあるからな」
そこまで語り、セルゲイは鉄製の凹みが目立つマグカップに手を伸ばした。マグカップからは湯気が立ち上り取っ手もそれなりに熱いのだろうが、セルゲイは気にした風もなく手に取り唇を湿らせた。
「アレクセイ。席を外してくれないか」
セルゲイが先導役に告げると、先導役は一礼してからドアの向こうに消えた。
「良いボディガードですね」
俺が先導役、アレクセイについて感想を述べると、セルゲイも同意するように笑みを浮かべる。
「アレクも我々と同じく故郷を失った者だ。だから我々の同胞に加えた。いずれは私の娘の補佐に回ってもらう」
娘? 孫じゃないのか、いや、そもそもこの老人は独身だったはずだ。それとも二階の少女達の管理を任せる心算だろうか?
テーブルの上に硬い音が響いたのは、セルゲイがマグカップの中を飲み干したからだ。
「ブレード。我々の流儀とこの館の意味をよく知るお前が、一時的にせよこの館に踏み入れる気になったのはどのような理由かね」
セルゲイは何気なくそう尋ねるが、ゆったりとした口調とは裏腹に細められた両眼の奥にある灰色の瞳は何の感情も読み取れなかった。
「昔からの知人の頼みです。どうしても大切な取引相手なので便宜を図って欲しいと」
「客人はお前の友人では無い訳か」
「商売上の付き合いなので。今日の仕事を終えたら二度と会う機会は無いでしょう」
俺は素っ気無く言った。
個人の好みの問題だろうが、俺は此処の会員になる奴等とは正反対の価値観を持っている。そしてそれを活計の手段のひとつに選んでいるセルゲイに対してもわかだまりがあるのも事実だ。
しかし、それならば此処に暮らす少女達を救う手段をお前は持っているのかと問われれば否としか答えられない。
手段はどうであれセルゲイは何らかの理由で一人で生きていく事を強いられた少女達を保護しており、その僅かな見返りを手にしているだけなのだ。
セルゲイの行いを批判出来るのは、セルゲイ以上の財を持ち無償で少女達の面倒を見る事の出来る輩か、セルゲイと同じくシベリアからの掟を遵守するウルカの民ぐらいだろう。
「私としても、会員以外の急な客に上級の持て成しをするわけにもいかんのでな。君の客人の相手は新人に務めさせてもらう事にした。それが君に対して失礼に当たるのではと危惧しておったが、わしの取り越し苦労だったようだ」
「無理を通してもらったのは俺達なので、文句などありませんよ」
俺の言葉にセルゲイは軽く頷いた。
「解っておるよ。お前は我々と同じルールで己を縛り付けておる」
「そんなに厳しいルールを己に課していません。買い被りです」
ただ、譲れない事が自分自身で解っているだけなのだ。
俺は苦笑して肩を竦めるしかなかった。
「まあ、客人の楽しみが終わるまでロビーか食堂でゆっくりと寛ぐがいい。皆には特例として伝えておく」
「いや、此処の決まりは守らせて貰いますよ。屋外の詰所で待たせて貰います」
俺はセルゲイの申し出を手で制して断った。
申し出は有難いが、会員と同じ扱いをされているのに、この館に勤める者達に代価を支払わないのは俺の道理に合わないのだ。
「そうか。アレク!」
申し出を断られたのにセルゲイが不快な面持ちを見せなかったのは、俺の返答を予想していたからだろう。
セルゲイは掌を叩いてドアの向こうで待機していた先導役を呼び出した。
重厚なドアを開けて室内に足を踏み入れたアレクセイが恭しく一礼する。
「客人を待機所へ」
「ダー」
俺は背を向けて歩き出したアレクセイについて行こうと一歩踏み出し、ふと気になっていた件についてセルゲイに質問しようと振り返った。
「セルゲイ、ひとつ聞きたいことが」
「何かね」
「此処に銀髪の丸顔で大きな青い瞳をした口の利けない少女がいたが、その子も貴方の処の娘か?」
セルゲイは俺の質問に何かを思い出すかのように鼻の頭を人差し指で叩いた。
「ふむ、真珠だな。最近我々が引き取った子だが、彼女がどうかしたかね」
「あの首の傷、あれは何時からだ?」
「さて、真珠はオリガが連れて来た子だ。聞いておこう。何か気になることでも?」
「――いや、知らないならいいんだ。余計な事を聞いた」
それを知って同情でもしようというのか、乾 狗狼。
同情など何の助けにもならない事を知っているのに、齢を取って忘れたか?
俺は自分を戒める様に首を振って、今度こそアレクセイの後を追ってこの城主の部屋を退出した。