二章 城(クリェームリ)(6)
少女は喉の渇きを癒し一息ついたのか、ふと大きな瞳が俺を捕え固まる。
無遠慮に眺めすぎたか、サングラスだけでも返して貰えばよかったか、と俺が苦笑を浮かべる姿を少女は暫く見つめていると、グラスをカウンターに置いてカウンターの片隅に置かれたトレイを手に取り、カウンターに積まれた御絞りと水道の蛇口を指差す。
女は苦笑を浮かべてからカウンター下の引き出しから新しい御絞りを取出して水道に水を含ませてから軽く絞って少女の持つトレイの上に乗せた。
少女は俺の前まで歩いて来ると、トレイを持ち上げてその上に乗せられた御絞りを差し出す。
俺?
訳が解らず少女を見返すと、少女は困ったように首を傾げてから自分の柔らかそうな左頬を指差した。
成程。
「有難う、助かります」
如何やら孝道に殴られた俺の左頬は外見で解るぐらいの有様の様で、御絞りを手に取り少女に礼を言うと少女は嬉しそうに微笑んでトレイを下ろした。
「色男は辛いよね」
女の言った罰の意味を理解した俺は、彼女の冷やかしに苦笑を浮かべるしかない。
「そんなにいいものでは無いさ、勘違いだ。俺はそんな女ったらしに見えるのか? ええと、君の名前は」
俺が少女に問い掛けると、少女が困ったように笑い返してパーカーの襟元を軽く開いた。
僅かに顎先を逸らすと、首筋を右あご下から左斜めに走る盛り上がった傷跡が目に入る。傷は細く、それが鋭利な刃物で切り裂かれたものだと判別出来た。
「その娘、喋れないのよ」
女の言葉に俺は少女の顔を無言で見返した。
少女の無理矢理微笑んだような苦笑は増々深くなる。
「まさかと思うが、此処で、か?」
俺の口調に含まれたものに気付いたのか女と少女の表情が僅かに強張った。
「……違うわ。此処に来たときには、もう喋れなかったらしいわ」
「ならいい。済まない、べつに怒ってはいないんだ」
少女は気にしていない、とでもいうかのように笑みを浮かべる。
この少女も此処に来るしかなかったのかもしれない。
「そうだ、貴方、ゲーム出来る?」
「ゲーム?」
野球拳とかお尻相撲、バタフライ・アタックじゃないよな、当然ながら。
ちなみにバタフライ・アタックというのは目隠し鬼ごっこの事だ。で、目隠しには何を用いるかは想像にお任せする。
黙り込んだ俺を気遣う様に女性が質問してきた内容に俺は訊き返した。
「そう。この娘、気を使って、何時も独りで携帯ゲームを弄っているから、暇なら相手してあげたら?」
ゲーム機か。俺はそう言ったモノは苦手なんだが。
幼馴染である悪友の息子に一時期格闘ゲームなるモノを相手させられたが、ボタンの意味を覚えるのが非常に煩わしく辟易とした記憶がある。
さて、どうしたものか。そう思い横目で少女の様子を窺うと、少女の表情は期待に満ちた視線を俺に向けて輝いていた。
「……」
相手、するしかないか。
「解ったよ。ただ、初心者なので操作法方法は教えて欲しい」
カウンターに温かくなった御絞りを返して少女に伝えると、嬉しそうに頷く少女は俺の手を取ってロビーに並んだテーブルに引っ張って行った。
そんなに慌てなくても逃げはしないのだが。
少女はソファーに腰を落ち着かせると腰に下げたポシェットから赤い携帯ゲーム機を取り出した。ただ、俺の知る限り最新型ではなくひとつかふたつ前の古い型のようだ。
楕円形の薄いゲーム機の電源が入ると、中央の画面にCGで作られたでもムービーが流れ出した。
どうやらストリートレースのゲームらしく、三菱ランサーエボリューションやスバル・インプレッサ等の馴染み深い車種がドリフト等の派手なパフォーマンスを繰り広げつつ大都会の道路を走り抜けていた。
レースゲームなら俺にも勝機があるのかもしれない。
手始めに少女が操作方法のお手本がてらレースを披露することとなった。ルールは単純で競争相手の車より早くゴール地点に到達すること。途中、パトカーからの妨害もあるので捕まると強制的にゲームオーバーのようだ。
ガレージの走行車種選択画面で少女が選んだのはマツダRX‐8。自然吸気型13B‐MSPロータリーエンジンを積んだ4ドアクーペだ。確かに流線型のサイドビューの美しさは女性好みかもしれない。
ゲーム開始と共に少女の操るRX‐8は、AIの操るインプやランエボ等の競争相手をスタートダッシュで後方へ置いて行き、後はひたすら独走態勢となった。
携帯ゲーム機ということもありステアリングは方向ボタン、アクセル、ブレーキ、サイドブレーキはプッシュボタンと実際の運転と異なる操作方法には慣れが必要だろう。
少女はAI相手に五戦五勝を達成しており、それを追い抜くのが俺の当面の課題となる。
後、気付いたのだが少女はコーナーでのドリフト走行や急加速の度に、その可憐な唇を大きく開閉しており、ひょっとしたら少女は外見に似合わない叫び声を上げながら走行しているのかも知れない。
さて、次は俺の出番だ。少女から携帯ゲーム機を受け取り車種選択画面を開いた。
プジョーは見当たらなかったのだがゴルフGTIがあったので、それに搭乗する事とした。実際に所有しているのはGT TSIだが同じ車種ということで勘弁してほしい。
「俺は運び屋でね。プロの速さを見せてあげよう」
スタートまでの秒読みが開始され、年甲斐もなく俺はアドレナリンが上昇するのを感じた。
数分後。
「負けたーっ!」
五本ともAIの操る競争相手には遅れを取らなかったものの、脇道から出現したパトカーに追突される等のアクシデントに見舞われ、結果的に大幅に少女のタイムより遅れることとなった。
「廃業、しようかな」
ソファーに座って真っ白に燃え尽きて項垂れた俺を、少女は楽しそうに笑みを浮かべて見つめている。
ああ、いい笑顔だ。負けるのも悪くない。
「勝った君には、何かご褒美が必要だな」
俺の言葉に少女は、とんでもないとでも言うかのようにびっくりして大きく目を見開く。
「いや、プロに勝ったのだから当然だな。しかし何がいいか」
腕組みをして考える俺だが、この年頃の子に何をすればいいのか、湖乃波君と暮らしていながら全然解らん。
心配そうに俺を見上げていた少女の表情がふと強張ったので俺が背後を振り返ると、塔に通じる扉から門番の片割れがロビーに足を踏み入れたのが目に入った。
門番が此方に歩み寄って来るのを少女は暫く見つめていたが、俺の差し出した携帯ゲーム機を受け取ると微笑んで頭を下げた。
「……」
掛ける声が見当たらないまま、俺は門番に連れられて塔へ通じる扉へ向かう彼女の小さい背中を見つめていたが、門番が扉のドアノブへ手を掛けたのを目にして、ようやく俺に出来る唯一の事を口にした。
「ドライブに行こう」
少女が驚いて俺へ向き直った。
「言ったろう。プロの走りを見せてあげようって」
少女が笑顔を見せてドアの向こうに消える。
俺の言葉が何かの救いになると思えるほど自惚れていないが、それでも彼女の未来にひとつだけでも笑顔を残せるのならと願わずにはいられなかった。




