二章 城(クリェームリ)(5)
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俺と孝道は先導役の後に付いて残りの階段を昇り切り、木彫りの彫刻が目立つ【城】の玄関前に佇んだ。
階段や外からの死角になるが、扉の上部に張り出した雨避けの隙間からカメラとそれに連動したショットガンの銃口が覗くのは何時になっても馴れないものだ。百パーセント暴発は起こりませんと誰かが保証しているのだろうか。
木の軋む音を立てて玄関の扉が左右に開いていった。
その内側は赤い絨毯の敷かれたロビーとなっており、左右には屈強な体格の男が二人筒控えていた。
一階は食堂と厨房の他、メエーチや先導役等、セルゲイの部下の内、重要な役割を持つ者の住居となっている。
ロビーの中央には二階へ通じる幅の広い階段があり、階段の踊り場の正面にはイコンが飾られており描かれたキリストがそこを通る者を睥睨していた。
階段の踊り場で階段は左右に分かれており、どちらからでも二階には上がれるが先導役は右側の階段へ足を運んだ。
先に孝道の用事を済ませるのか。
階段の右側を上りきると二階のロビーに出る。そこには二人掛けのソファに挟まれたテーブルが六つ、それぞれの会話が聞こえない程度に配置されており、ロビーの突き当たりには簡易なバーカウンターが備えられていた。
ロビーには警護の男たち以外に十代後半に見える少女が数人居る程度であり、それ以外の一般人と言っていいのか解らないがこの館の関係者以外の人物が見当たらないのは、今の時刻を考えると営業時間だからだろう。
足音を立てないように配慮されているのか、一階とは別の分厚い絨毯の敷かれた二階のロビーを横断して階段の正面にある、これまた重厚な焦げ茶色の扉の前に立った。
先導役がインターフォンを押すと扉が内側に開かれ、二人の背広姿の門番が左右に控えて有事に対応している。
この先が隣接する塔に通じる渡り廊下であり、セルゲイ・セレズニョフの経営するクラブ【城】の入り口なのだ。
俺も目にした事の無いセルゲイ・セレズニョフの定めた法のみまかり通る絶対空間。そのルールを破った為に、二度と此処から出て来る事の無かった者も数人いると聞いている。
まあ、俺はそもそもこの場所に入る心算など、毛頭も無いが。
「入れ」
俺は一歩下がり、この場所に用が無い事を示してから孝道の背を押した。
「用があるのは此奴だ」
門番の一人が何の感情も込められていない冷えた両眼で孝道を眺めた後、不意に背を向けて渡り廊下の奥へ向けて歩き出した。
戸惑いを隠せない孝道へ、行ってらっしゃいと左手を肩の高さまで上げて一度だけ振る。
急ぎ足で門番の後を追う孝道だが、門番は待つこともなくさっさと渡り廊下を進んでいく。
無愛想この上ないが、あの門番がビデオレンタルの受付のお姉さんの様な口調で、この館を利用するにあたっての注意事項を説明し始めても困るので、あれはあれで正しい対応なのだろう。
孝道が渡り廊下の先にある同じような装飾のドアの向こうに消えるのを見送ってから、先導役と俺は再びドアをくぐって二階のロビーに舞い戻った。
この階の半分は通称「セルゲイの娘達」と呼ばれる少女等の居住スペースとなっており、仕事のあるものはロビーでお客の対応、無いものは己に割り当てられた部屋で過ごすこととなっている。
別に仕事の無い者もロビーへ出て構わないのだが、訪れた会員に声を掛けられるのが煩わしいのだろうか利用するものは少なく、主に一階の食堂が彼女らの寛ぎの場となっている。
「爺様に運び屋が来たと報告してくるから、此処で寛いでくれ」
先導役がロビーとは反対側にある三階へ通じる階段へ向かい、俺はロビーでひとり取り残された。
「さて」
此処に居ると会員と間違われる可能性もあるので、取り敢えずバーで時間を潰すことにする。
幸いバーカウンターの内側には亜麻色の癖のあるショートカットで、ベストにスラックス姿の若い女性がひとりでグラスを磨いていた。
「水をくれないか」
カウンターの前に椅子が無いのは長時間居座る場所ではないからだろう。
女性はちらりと俺を一瞥した後、無言でバーの上に掛かったプレートを指差した。
「ゲルシュタイナーが一杯百円、エビアンが一杯五〇円」
水なのに金を取るのか、と言ってはいけない。水が無料で提供される国は珍しく大抵は有料だ。ビールより値段の高い国もあるのだ。
世界の水不足は深刻化しており、大企業が他国の水源を土地ごと買い占める事態まで発生している。何時かは石油より水が高いとぼやく事があるのかもしれない。
「エビアン」
百円玉をバーカウンターに置くと、女性は俺に背を向けて冷蔵庫から氷を取り出して先程まで磨いていたグラスに数個放り込んだ後、背後に並んだ決して数は多くないビンとペットボトルの中からエビアンのペットボトルを取り上げる。
俺はその女性のベストからスラックスに到る芸術的な腰の括れを鑑賞しながら、欠伸を噛み殺した。
水の注がれたグラスが女性の長い指に押しやられて、水滴を溢し乍ら俺の前に流れて来る。グラスの軌跡に沿って彼女と俺の間に引かれた水の道に映る彼女の頬から顎先に到るラインは、彼女に中性的な魅力を与えるている様で、俺はグラスに手を沿えたまま暫し水鏡を眺め続けた。
ところでお釣りはいつ帰って来るのだろうか。ひょっとしてチップとして徴収されたのかもしれない。
「貴方、あまり見ない顔だけど、此処の会員かしら?」
俺がグラスに口を付けると、女は大した興味も無い様な気怠い口調で俺に尋ねて来た。
興味がある、というよりあまりにも暇なのでとりあえず訊いてみたといった単なる場繋ぎの会話の心算だろう。
「残念ながら、単なる送迎でね。中に入ったのは久し振りだ」
「送迎で中に入れるのも凄いけど」
「俺は気が進まなかったんだが。さっきまでは、な」
「今は違うの?」
「芸術的な指先をした美人に会った。君に会う為なら此処の会員になってもいい」
女は僅かに唇の両端を吊り上げた。
「会員特典は何もないわよ」
「特典は今貰っている。此処での大人の女性との会話は貴重過ぎる」
俺はグラスの中の水を飲み干してカウンターに置いた。この後の仕事が控えていなかったら、ショットグラスのポンペイ・サファイヤを片手にこの気怠い口調が耳に心地よい魅力的な彼女とだらだらと時を過ごしたかった。
「ふふ、そんな事を言っているから罰が当たったのかしら」
「?」
罰ってなんだ。
心当たりが無く眉を寄せていると、背後から微かな足音と共にピンクのパーカーを羽織った少女が俺の隣に入って来た。ミディアムショートの柔らかい銀髪が揺れ、それが澄んだ鈴の音を立てたように俺に錯覚させる。
少女は一四〇センチ後半ぐらいの背丈で、カウンターに手を付き伸び上がる様にして身を乗り出して女性の背後にあるファンタオレンジのペッボトルを指差した。
カウンターに置かれた黄色の液体が注がれたグラスを両手で包み込む様に持ち口を付ける。
誰かの着古しを譲り受けたのか、オーバーサイズのパーカーは手首まで折り込まれ、ゆったりとしたコットンパンツも足首まで幾重にも折り畳まれていた。
丸顔の白い肌に大きな青い瞳と薄い色素の唇をした少女の顔は整っており、頬に必要以上の無駄な肉は付いていないのだが何故か俺に苺大福を連想させる。
目を細めて美味しそうにファンタオレンジを飲む少女の姿が微笑ましいのか、カウンターの奥から少女を見る女の眼は優しげに細められていた。