二章 城(クリェームリ)(3)
屋敷内では手持ち無沙汰になるのを覚悟しながら、俺は背広の右内ポケットに手を突っ込んでワイルドカード、俺の愛飲する煙草を取り出した。
先に吸っておくか。
「悪いが一服させてもらうぞ」
俺は煙草のBOXの底をテーブルに軽く叩き付けると、飛び出した茶色の煙草の尻を口に咥える。
「いるかい?」
先導役とボディーチェック役二人にワイルドカードの箱を差し出す。
「スバシーホ」
三人が前屈みになりそれぞれ煙草を手にする。
バーナーライターの強力な炎に驚きつつ、先導のの男が煙草の先を咥えたまま息を吸い込む。
その時、彼の灰色の背広の左内懐が覗き、ショルダーホルスターと黒光りする鋼鉄の凶器が俺の眼に入った。
「おお、これは珍しい味だな。甘いが不快じゃない」
「コーヒーフレーバーだ。俺はこれしか吸っていない」
「見た事が無いな。手に入り難いんじゃないのか。いいのか?」
いいのか、とは俺達に吸わして勿体無くないのか、という意味だろう。
「構わんさ。今、この国では一緒に煙草を吸う場所すら取り上げられているんだ。お互い少ない機会を味わえばいいさ」
先導役の男は静かに頷くと、深く息を吸い込み髭に覆われた唇からゆっくりと吐きだした。
「悪くない。俺もフレーバースモークが好きなんだ」
それは面白い事を聞いた。
「日本で手に入るのか、それ?」
先導役は青い瞳をした細い両眼を更に細めて苦笑する。
「残念ながら、銘柄を知らないのでね」
先導役は煙草を指に挟んで宙を見上げる。
彼が今居るのは、セルゲイの屋敷ではなく、そのフレーバースモークを味わった場所なのだろう。
「……俺が新兵の頃、卑しい土地の出身ってことで強引にチェチェンへ送り込まれたんだ。だが直ぐに撤退するように通達があって、俺の属する部隊は殿を務める事となった。その撤退前日に小隊長から一本ずつ配られたのがその煙草で、生きて任務を達成したら機内で吸ってもいいとな」
機内で吸えって豪気だな。油やガスは怖くなかったんだろうか。
「その煙草は密造品でな。小隊長の母親が煙草の葉を栽培して、干し肉用の木材、チップを香草で燻したもので、煙草の葉を発酵、乾燥させたらしい」
イタリアでは煙草職人が犯罪組織に抱え込まれて非合法の煙草を作っていると聞いた事があるが、ロシアの家庭で作る煙草は初めて聞く。
「小隊長の母親は息子の為に、木の箱一杯に煙草を詰めて戦場に送ってくれるんだ。だが戦場に来る途中でちょろまかされて一本、二本とどんどん減っってくる。小隊長が受け取れるのは救急袋に入った一〇本程度だ。それを分けてくれた」
「……」
「帰っても職は無く、軍に居場所は無かったから、俺達生き残りの数人はこの町に流れ着いた。小隊長とその母親は生まれた土地を離れるのは御免だと本国に残って生涯を終えた」
彼の脳裏には自分達部隊の同僚を見送る小隊長と、その背後で自分の息子の背中と息子が守り抜いた部下達を見つめる母親がいるのだろう。
「一度、小隊長を三宮に呼んだとき、亡くなった母親が作ってくれた煙草の味に似ているって喜んでいたモノがあったんだが、それが見つからないんだ」
「……」
四人の煙草がそろそろ燃え尽きて灰になる。
「……つまらない話をしたな」
「いや、煙草一本分以上の価値はあるさ」
元町の煙草屋の婆さんに訊けば何か解るかもしれない。
「しかしチェチェンか。エライところに飛ばされたものだ。その肩に吊り下げているのはTT―1933か?」
俺は一時期、中国の使い古し粗悪品や銀ダラと呼ばれるデッドコピーが日本に出回ったなじみの拳銃の名を口にした。
トカレフは1930年からソビエト連邦の軍隊に正式採用されていた拳銃だ。
当時米軍で正式採用されていたコルトM1911を手本に極限まで簡略化された拳銃だ。何しろ軍用銃に付きものの安全装置が無く、装填後は銃後部の撃鉄をハーフコックするのが唯一の安全策だ。
弾丸はドイツの名銃モーゼル・ミリタリーと同じく七・六二×二五と強力な弾丸を使う。このライフル弾の様な形状をした弾丸の厄介な点は初速が早く貫通力の優れていることだ。この銃の類似品が日本国内に出回ったお陰で、警察の防弾チョッキが質の良いものに見直されたのたのだから、当時どれだけ脅威だったかは想像に難くない。
「今はMP443を使うべきなんだろうが、確実に作動する此奴以外使う気がしないんだ」
先導役はショルダーホルスターから黒光りするトカレフを抜いた。どうやらホルスターは押し込む力を加えるとロックが外れて抜けるシステムらしい。
「へえ」
俺は先導役の取り出したトカレフを一瞥して、読み取れる使用目的に感心した声を上げた。
そのトカレフは標的に狙いを定めるフロントサイトとリアサイトが低く削られており、ホルスターから抜き出す時に引っかからない様に加工されていた。
またトリガーガードは前側が切断されており、咄嗟に引き金へ指を掛ける時の邪魔にならないようにしてある。
グリップの前側はヤスリで荒らしてあり滑り止めだろう。後部のハンマーも同様に切り欠きを深くしてあるのはホルスターから抜き出しながらハンマーをハーフコックの位置から起こす為だ。
遊底には何かのまじないか十字の傷が刻まれている。
「何かあれば直ぐに撃つ事が出来るように薬室に弾丸は装填済みでハーフコック位置。早撃ちに特化させたか」
おそらく一瞬の内に胴に二発で相手の動きを止め、直ぐにヘッドショットで今度は息の根を止めるのだろう。
「正解だ」
にやり、と先導役が笑みを浮かべる。
「で、腰の後ろにはバックアップ用にマカロフか」
「それは不正解だな。PSMだ」
PSMピストルも旧ソ連の中型拳銃で極めて薄く設計されている。その幅は最大でも二十一ミリで携帯性に優れている為、旧ソ連の諜報組織KGBでは愛用するものが多かった。
それだけでなく、この小型拳銃はそのサイズに似合わず獰猛な一面を持っており、それは特殊な弾丸を使うことだ。
使用される弾丸は五・四五×十八ミリ弾で、細い硬質の弾丸は防弾ベストのケプラーを易々と貫くだけでなく乗用車のドアすら打ち抜くことが出来る。
この先導役の男はトカレフとPSMから、己の主人に危害を加える輩に対して相手が防弾チョッキを着ていようが瞬時に無力化する事を目的としていることが解った。
「怖いな。あんたを敵に回したくないものだ」
「皆がそう思ってくれると、俺も楽なんだが」
全く、此処にいる奴等は無駄に戦闘力が高くて困る。