一章 衝撃! 猩々の潜む整備工場(4)
工場内を通り抜け裏ガレージに繋がる裏口を開ける。
この工場は京都の町屋の様な作りをしており、横幅の狭い工場を奥行きでカバーした構造だ。
裏ガレージは日差しを避ける為、天井代わりにブルーシートが張られたテントハウスとなっており、此処には何時も主に源一、花代夫妻の一人娘、花香菜の愛車であるダイハツ・コペン旧タイプと俺の予備機であるVW ゴルフが常駐しているが、花香菜は仕事に出掛けているらしくコペンの姿は無かった。
俺の予備機であるゴルフは、車をよく知らない人達も一度は目にしたことがあるであろう実用車のベンチマークである。
プジョー207SWの整備期間中の台車としてこの車を購入したのは、このゴルフがひたすら実用性を重視した設計だからだ。
プジョーが故障した時や整備時、そして仕事を妨害してくる車両対策での乗り換えなど予備機の役割は実に重要だ。いざ必要になった時に「御免なさい、故障中です」は許されない。
居住性、走行性能、燃費、堅牢な構造である事、全てが及第点以上の車など中々無いものだがVW ゴルフは何度モデルチェンジしようとも、その条件を満たしている。
車体のデザインも三代目でそれまでの直線的な構成から緩やかな曲線に変わって以来、大きな変化はなく、ゴルフは地味だけどこのデザインだ! と主張している様だ。
俺のゴルフの状態を確かめる。
このゴルフはゴルフV GT TSI。
1400cc 直四DOHC。この車のエンジンにはそれだけでない革新的な画期的な試みが搭載されたのだ。
源一と一緒にVW垂水まで購入前の下見に行ったのだが、ゴルフGTI 2000ccターボに乗り込もうとする俺の首を捻じ曲げ、当時、実力未知数であったGT TSIにむけた源一は「これはゴルフⅠに並ぶ金字塔だ」と言い放った。
源一の説明では、ゴルフVのGTIエンジンは、ゴルフⅣのFSIエンジンの強化であるTFSIエンジンという当たり前の改良に過ぎないのだが、ゴルフV GT TSIエンジンは、これからのゴルフの歴史を変えるというのだ。
ゴルフV GT TSIエンジンは1400ccという小排気量のエンジンが積まれている。これは環境問題で年々厳しさを増す欧州の燃費規制に対するVW社の回答であるのだが、このエンジンは其れだけでなく、スーパーチャージャーとターボチャージャーの二段過給が盛り込まれた。
二段過給といえばラリーや車のメカニックが好きならピン! と来る人もいるだろう。ランチア・デルタやのマーチ・スーパーターボにて搭載された機能だ。
この二段過給により、ゴルフV GT TSIは小排気量でありながら一七〇馬力もの高出力を成し遂げている。
そんな源一の説明をBGMに、俺は応対に出たVW受付嬢の高級そうな光沢のある白いブラウスから微かに透けるラペルラらしいシルエットに気を取られながら、捕えたハエに連れて行かれるカエルのCMについて彼女と談笑していた。
「私、GTIは試乗出来たのですが、あのGT、一昨日納車されたばかりなので、まだ試乗してないんです」
「ああ、じゃあ俺が購入して、納車日に君に届けて貰うとするか」
その後、CMの捕えたハエに連れて行かれたカエルの様に、俺がVWの受付嬢に連れて行かれたかどうかは秘密だ。
そんなこんなで今、此処にゴルフV GT TSIが佇んでいる。
黒い車体色はガラスコーティングされて更に光沢を増しており、俺をそのボディに映し出していた。
俺が半年以上乗っていないにもかかわらず塵ひとつない外観というのは非常に良いものだ。
きっと、オランウータンでなく花香菜が優しく洗車してくれているに違いない。
ざっと外観に異常の無い事を確認すると、俺は再び屋内の源一のもとに戻った。
「しかし、お前が国産車を引き受けるのも珍しいな」
「仕方ない、好みの仕事を引き受けるにも元手がいる。次は大きい仕事が控えているからな。それにな、今は無きに等しい日本の職人車を弄られるから悪い仕事ではないんだ」
源一は手を止め俺を見上げた。
「まあ、今日明日終わる作業でもないんだ。207は明日にでも渡してやる」
俺は黒くオイル塗れのセンチュリーのパーツを見下ろす。
「これは?」
「エアサスのトレーリングアームが歪んでいるんだ。さて、代品がいつ入って来るか。それとも作ってもらうしかないか」
「……前期型か。確かに職人車だ」
「ああ、日本のプライドの塊だ。持ち主が運転を誤って側溝に嵌めてしまってな。半端ない自重でやられたらしい」
よいしょと立ち上がった源一は腰の後ろを数回叩いて背伸びをすると、人差し指と中指を立てて顔の前に持って行った。
俺は背広の左内ポケットから愛飲している煙草、アークロワイヤル・ワイルドカードの箱を取出して底を人差し指で叩く。
突き出た一本を源一に渡して、俺はもう一本抜き取り自分で咥える。
バーナーライターを近づけると、源一は僅かに身を屈め煙草に火を付けた。
俺のワイルドカードにも火を付けると、この煙草特有の甘いコーヒーの香りが漂い始める。
ゆっくりと吸い込んだ後、しばらくして満足そうに紫煙を吐き出す源一。
「たまには煙草もいいものだ」
そういえば源一の愛飲するパイプも、甘い香りがしていたな。
「で、そのセンチュリーの持ち主な」
「ああ」
「もう八〇近いから、此奴の様な大柄な車の運転は出来ないんじゃないかって、自信を無くしてるらしい」
「……」
「このまま廃車にするかどうか、それとも修理して短い期間だけでも乗るかどうか迷っているんだ」
「……難しい問題だな。運転を続けて誰かに取り返しの付かない事を起こすかもしれない。その前に自ら幕引きか」
他人事じゃないよな、こんな仕事に就いていると。
俺は胸中で遠くない未来を重い嘆息した。
「恐らくそうだろうな。ただ、その持ち主にとっては長年の相棒だ。俺は壊れてしまってさよならより、最後に綺麗な状態で数メートルだけでも運転させてやりたいんだがなぁ」
源一は自ら引き受けたのかもしれない。
俺はワイルドカードを吸い終えると携帯灰皿に吸殻を放り込んで踵を返した。
「207はそんなに急がなくてもいい。ゴルフの鍵は?」
「事務所の扉の横にぶら下げている。花香菜を待たんのか?」
「時間が圧してるからな。また今度だ」
俺はパネルで区切っただけの事務所に入りゴルフの鍵を外すと、その開いた場所に207SWの鍵をぶら下げる。
「じゃ、行ってくる」
「おう、地獄に落ちろ」
俺は裏口のドアを開けてから足を止めた。
「源一、センチュリーが修理たら俺に声を掛けてくれないか」
「お、どうしてだ?」
「爺さんが望むなら、爺さんを横に乗せて俺が運転してやってもいい」
「……」
「まあ、センチュリーを運転したいだけなんだ」
源一の苦笑する雰囲気を背中に感じながら、俺は裏口のドアを閉めた。
ゴルフVの運転席に座ると運転席のドアを僅かに力を込めて閉める。
ゴルフのドアはかなり堅牢に作られている為か、他のメーカーと比較して重く感じられるのだ。
フットブレーキを踏んで、差し込んだキーを回す。
TSIエンジンの動作音はゴルフの遮音性が高い為か車内に鳴り響かず、エンジンに火を入れた瞬間に気分の高揚する俺としては少々寂しく感じる。
エンジンに火を入れてから暫らく経つと、エンジンの回転計の針が僅かに下がるので、シフトレバーをPからDに切り替えてパーキングブレーキを解除、フットブレーキを緩めアクセルを踏み込む。
一呼吸置いたようなタイミングでゴルフVが前進する。
VWのDSGの特徴だろうか、アクセルの踏み込みからほんのわずかに遅れてクラッチが繋がる様な気がするのだ。
そう言えばDSGはATではなく自動で切り替わるMTと聞いた。ブレーキがクラッチON、OFFの役割を果たしているらしい。
アクセルを踏み込むとブースト計の針が跳ね上がり、小気味良い程の加速を魅せてくれる。
車重が1・4トンあるのだが、それを感じさせない加速だ。
まだ、仕事時間ではないのでアクセルをさらに踏み込む。
エンジンの回転数を3500回転以上に挙げて坂道を勢いよく駆け上がる。ルーツ型スーパーチャージャーとターボの切り替わり位置など無いが如く、綺麗な加速ぶりに俺は感嘆した。
「久し振りに乗ったが、いい仕事をするな。VW」
口元の笑みを消すことは不可能。
レンジのセレクターをスポーツモードに切り替えると、ステアリングの内側に突き出たボタン、バドルシフトを押してレンジを切り替えた。
そのまま神戸芸術工科大と神戸市外国語大の傍を通り抜け、65号線に右折して合流する。
ターンインが軽い。
ゴルフの乗り心地が固いのとゴルフの静粛性を伸ばす為、ブリジストンのレグノに変えて運動性を僅かに犠牲にしたのだが、それは気にはならなかった。
今回の仕事は依頼人の所在地が西神中央の外れなので、65号線の上下を繰り返す校庭を楽しんで行く。
「ん?」
アクセルから右足を外してブレーキを軽く踏んでも、減速の度合いが大きい。
プジョー207SWを運転する時、俺は両足派で右足でアクセル、左足でブレーキを踏む。
これには理由があり右足でアクセルを踏みながら、エンジンの回転数を必要以上に落としてレンジを変えない様に注意しながらフットブレーキを細かく踏んでいく。エンジンの回転数を下げずに速度だけ落とし、最大の駆動力を車軸に与えるのがAT車の早く走らせるコツなのだ。
しかしVWのDSGはアクセルとブレーキを同時に踏んでしまうと、途端にギアをカットするので失速してしまう。
DSGは右足一本操作の為の機能で、俺はまだそれに慣れていないのだ。




