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運び屋の季節  作者: 飛鳥 瑛滋
第四話 運び屋の季節 1年目 秋 九月
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一章 衝撃! 猩々の潜む整備工場(3) 

                       2


 数十分後、俺は愛車のプジョー207SWを駆って487号線から垂水区神陵台へ走り抜けた。

 少々時間が押しているため制限速度を超過しているのは仕方がない。

 神陵台小学校前を通り抜けコープの隣で左折する。

 やや古い団地を左手に見ながら細い路地を通り抜けて左へ曲がると、一般住宅に紛れて小さな自動車整備工場が目に入った。

 車二台が並ぶと人が通れなくなりそうな通路兼駐車場の奥に、青色のシャッターが下りたプレハブ住宅が佇んでいた。

 俺は207SWをその建屋の前まで乗り入れると、クラクションを二度鳴らして暫く待つ。

 古いシャッターの巻き上がる金属音と共に、プレハブ住宅から油の滲んだ青色のツナギを着たボルネオオランウータンがのっそりと現れた。

「……バナナを買ってくるのを忘れてた」

 俺の呟きが聞こえたのか、猩々(しょうじょう)は不機嫌そうに207SWの運転席にいる俺を一瞥すると、中に入れとでも言うように長い腕を手前に振って背を向けた。

 207SWを建屋内に入れると俺は運転席から下りて猩々に声を掛ける。

「何時、ボルネオ島から帰って来たんだ」

「……」

「済まないな。バナナをお土産に買って来るのを忘れたんだ」

「……」

 返事が無い。どうやら言葉を忘れて本当に野生化したのかもな。

「御嬢さんをお嫁に下さい」

「やるか!」

 何だ、聴こえてるじゃないか。

 ようやく猩々が振り返って言葉を発した。

「俺の何処がオランウータンだ。昔から好き勝手言いやがって!」

 拳から親指を立てて己を指すこの整備工場の主を、俺は頭のてっぺんから足のじっくりと眺める。

 頭頂のやや剥げた白髪の混ざった髪。

 鼻から下を隠すごわごわの髭。

 太い両腕に大きな掌。

 突き出たビール腹。

 短い両足。

「いや、全てがオラン」

 猩々が歯をむき出してM24ボルト用のスパナを手にしたので、俺は途中で言葉を止めた。

 つい、「スパナじゃなくて棍棒の間違いじゃないか?」と言いそうになったが、明日の朝刊に俺の訃報が掲載されかねないので、心の中で呟く程度にとどめておく。

「お前は人をからかいに来たのか? 仕事の邪魔だ、帰れ!」

「落ち着け。電話で頼んだ通り、車検とATオイル交換をお願いしに来たんだが」

 確か207SWのATFは四万キロで交換しているから、八万キロで二度目の交換をお願いしに来たのだ。

「ついでならエンジンオイルとオイルエレメントの交換もやって貰おうかな」

 俺の言葉に猩々は「はっ」と鼻先で笑ってパンタグラフリフトで持ち上げられたセンチュリーをスパナで指し示した。

「残念だが今、俺は忙しいんだ。実入りの少ない仕事より急ぎの大金だ。解るか!」

「……」

 そうか残念だ。バナナじゃないが、とっておきの土産があったのだが。

 そう胸中で呟いて、俺は207SWの荷室から樹脂製のカゴに入ったとっておきの土産(みやげ)を取出して、狒々親爺(ひひおやじ)の前で高々と宙に持ち上げる。

「お」

 カゴの中で立てられた十二本のガラス瓶がお互いにぶつかり合い、せわしなく立てられる甲高い音が耳に入ったのか、親爺は振り返ると低く呻いて喉を鳴らした。

 まだ夏の名残がそこかしこに漂っており、そんな夜にこの音は、風鈴の音以上の清涼感をもたらす事がある。

 エルディンガー・デュンケル。

 小麦のマークが特徴的なこのドイツビールは、クリーミーな泡に含まれたまろやかな甘味と黒ビールのコクが絶妙に合わさっており、黒ビールの苦みとコクを敬遠する人達にも気軽に飲める逸品だ。

 そしてこの自動車整備工場の主である佐藤(さとう) 源一(げんいち)が愛飲するビールである。

「おい、おい、おい」

 俺が音を立ててビールケースを地面に置くと、源一は(とが)めるように俺を呼び止める。

「何時も何時もビールで懐柔出来ると思うなよ。お前の仕事を割り込ませると、花代(はなよ)に怒られるのは俺なんだ」

「酔っぱらって、聞き流せばいいさ」

 源一は額に手を当てて嘆息した。

 しかし今晩には風呂から上がった源一が、この操業して百三十年にもなろうというドイツの老舗(しにせ)ブルワリーの作り出した旨味に舌鼓を打つのは確定した未来であると俺は信じている。

「わかった。解ったからそこに停めておけ。此奴が終わったら取り掛かってやる」

「謝謝」

 何だかんだ言いながらも、この親爺は迅速に仕事を片付けてくれる。

 多分、明日の朝には各オイル交換どころか、きっちり整備された207SWが俺を待っているだろう。

 センチュリーの傍らに腰掛けて仕事を再開した源一の背中から視線を外し、ぐるりと店内を見回す。

 さほど広くない整備スペースの奥には、花代夫人の愛車である黄色のルノーカングーが曲線を多用した愛嬌(あいきょう)と実益を兼ね備えた車体を披露していた。

 さらにその隣には源一の愛車であるダイムラーダブルシックスが重厚で優美な車体で佇んでいる。

 源一はその日一日の仕事を終えると、このイギリスの濃緑色の光沢が美しい車を前にゆったりとパイプを燻らすのだ。

 別に乗らなくてもいい。ただ、眺めているだけで至福の一時が味わえる。それが、この車だと彼は(うそぶ)いている。

 車に実用性を第一に求める俺でもその意見には同意するしかない。特に四つ目のヘッドライトと組み合わされたボンネットの精緻な曲線と、5343ccⅤ12気筒SOHCと大型のエンジンを積む割に天地方向に浅く作られた車体の造形は、車に興味を無い者でも唸らざるを得ない優美さに満ちている。

 源一の興が乗った日には、エンジンを掛けるとボンネットを開けてⅤ12気筒SOHCの奏でるサウンドを堪能した後、何時ものつなぎ姿から正装に着替えて運転席に乗り込む。

 グレンチェックの三つ揃いに愛車の車体色に合わせた深い緑のスカーフを身に付けた姿は普段の類人猿からほど遠く、ダブルシックスの隣でパイプを燻らす姿は、ある車雑誌の見開きに使われるほど堂々としたものだ。

 そして源一は必ずドライヴに花代夫人を同伴(どうはん)する。それに対する花代夫人のコメントは、

「あら、ダブルシックスに乗るのなら、多少太っていた方が様になるわよ」

 甘々である。

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