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運び屋の季節  作者: 飛鳥 瑛滋
番外編 夏 七月 野島湖乃波の夏休み
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四章 スイート・ビター・チョコレート(5)

「それで、報告したい事とは?」

 狗狼の問いに工藤さんが後頭部に手をやって癖のある髪を掻くと同時に、佳代さんが僅かにうつむいてその頬を赤く染める。

 それで私には解ってしまった。

「よりを戻したってことですか?」

 狗狼も察したらしく、苦笑しながら問い掛けると、工藤さんは恥ずかしそうに消え入りそうな声で「……はい」と答える。

「あの、おめでとう御座います」

「有難う。ええと、湖乃波さん」

「はい」

「貴方達と出会わなければ、私はずっと、この人の事を誤解して憎み続けて娘の思いも気付かずに、あのまま後悔し続けて生きていたわ。本当に有難う」

「あ、あの、私こそ、いろいろ済みませんでした」

 私は恐縮しきって頭を下げた。ただ私は他人の家庭の事情に足を踏み込んでふたりに辛い思いをさせただけで、解決したのは狗狼と奥田さんなのだから。

 お互いに頭を下げあう私と佳代さんを工藤さんは温かい眼差しで見つめた後、表情を引き締めて正面に向き直った。

「もう一つ。僕と佳代はアフリカに行くことにしました」

「え?」

「……」

 予想しなかった報告に驚く私と無言の狗狼。

「前にも話した通り、陽子が亡くなるまで、僕は有機栽培専門の農家を手伝っていました。陽子を失ってからは農業に対する情熱を失って、週に二、三度手伝う程度だったんですが、佳代が前向きに生きると決心したので僕も農業を始めようと決心したんです」

「それで、どうせ一からやり直すのだったら、アフリカの陽子が残してくれたカカオ豆の栽培を手伝えないかなと提案したんです」

 私は驚いてガラステーブルの上にジンジャーエールの入ったガラスのコップを落とすところだった。慌てて空中でキャッチする。

「無謀かも知れないけど陽子の残した希望を私達も手伝いたいと思ったのです」

「僕も佳代の提案は素晴らしいと思って、【スピーシズ・オブ・ホープ】の千種(ちだね)さんに連絡を取りその旨を伝えると、彼女は農業経験者は何時でも大歓迎だと快く受け入れてくれました」

「……そうですか。随分と思い切った決断をしたものだ」

 軽く息を吐いて狗狼は二人の顔を見返した。

「でも、もう大丈夫そうだな」

「はい」

 工藤さんと佳代さんの力強い返答に狗狼は軽く頷く。

 私は工藤さんと佳代さんの顔を、何かを決心してやり抜こうとする意思にしばし見惚(みと)れた。

「あの、その、頑張って下さい」

「ええ、頑張るわ。有難う」

 佳代さんは手を伸ばして私の頭をなでてくれた。

「ホント、陽子もそうだったけど、貴方も困っている人がいたら放っておけない性分のようね。湖乃波さんも頑張って」

「はい」

 きっと佳代さんは私と陽子さんの幼い頃の姿を重ね合わせているんだろう。

 そしてこれから工藤さんと佳代さんはこれまでの過去の陽子さんの姿を振り返るのではなく、外国で自分の生き方を全うした彼女の背中を追い続けるのだ。

 決して振り返る事の無い背中を追い続けるのだ。

 それは嬉しいけど切なかった。

「そろそろお(いとま)しようか。飛行機の時間もある事だし」

「そうね」

 工藤さんと佳代さんが腰を上げる。

「今日、出発ですか?」

「うん、成田発二十一時一〇分のエチオピア航空で日本を出るんだ。成田までは、此処に寄る心算だったんで神戸空港から羽田行で予約を取ってる」

「なら、神戸空港まで送ろう。丁度出る処だっだ」

「はい、見送りさせて下さい」

 狗狼の提案に私は喜んで賛同した。二人の新たな旅立ちを見送って上げたかった。

「ああ、それは、有り難う御座います」

「ええ、嬉しいわ」

 

 神戸空港は早い夏休みに入った人の波でごった返しており、これが一週間後の本格的な夏休みに入ったらどれぐらいの混雑になるのかと、人込みの苦手な私は辛うじて狗狼の痕をついて行きながらうんざりした。

 一度、団体さんに遭遇して工藤さん達や狗狼とはぐれかけてから、私の右手は狗狼に引っ張られている。

「……小学生じゃないんだから」

 そう呟くものの、それが単なる強がりであることは私が一番よく知っている。

 恥ずかしいけど、きっと狗狼の方が恥ずかしいんだろうな。

 ひたすら無言で工藤さん達について行っているし。

 時々、佳代さんが振り返って微笑ましそうにこちらを見て笑みを浮かべているし。

 ようやく二階の出発ロビーに着いて、私は空港内に入って終始俯き加減だった顔を上げた。

 工藤さんはチケットを確かめた後、私達を振り返った。

「それじゃあ、これで。貴女にはいろいろお世話になりました」

 工藤さんが私に右手をを差し出したのでその手を握り返した。

「私こそ、色々、勉強に、なりました」

「うん、またいつか会えるといいね」

「はい」

 佳代さんとも握手を交わす。

 彼女の白い綺麗な右手が私の手を優しく包む。

「湖乃波さん、行って来るわね」

「はい、お気をつけて。私、頑張りますから」

「そう。じゃあ、私も負けずに頑張ります」

 そう言って彼女は破顔した。手を口の前に持って行き目を細めて。きっとこれが佳代さん、本来の笑顔なんだろう。

 それが見れて私は嬉しかった。

「あの、乾さん」

 工藤さんが狗狼に右手を差し出す。

「ん?」

「至らない私を叱咤(しった)してくれて有難う御座います」

「別に、君の為じゃない」

「……」

 手のやり場に困る工藤さん。狗狼、最後ぐらい優しくしようよ。

「狗狼」

「はいはい」

 狗狼は仕方なさそうに工藤さんの差し出した右手を握ると、自分に向けてグイッと引き寄せた。

 驚愕の声を上げる工藤さんと息を呑む私と佳代さん。

「狗狼!」

 それを尻目に狗狼は工藤さんに顔を近づけた。

「いい奥さんだ。今度こそ手放すな」

「は、はい!」

 工藤さんの力強い返答に狗狼は苦笑を浮かべて手を放した。

「佳代さん」

「はい!」

 佳代さんは狗狼に呼び掛けられると、先程の狗狼の行動に呑まれていたのか、裏返った声で返答した。

 狗狼が右手を差し出すと佳代さんはその意図を察したのか、その手を握り返す。

「いろいろと心配を掛けたようで済みません」

 狗狼は静かに首を振る。

「気にする必要は無い。貴女(あなた)の旦那にも言ったが、俺が勝手にした事だ」

「……でも」

 狗狼は何か考える様に沈黙した後、別れの挨拶をするように握った手を軽く上下に動かした。

「佳代さん。あの駐車場で貴女を見掛けた時、その物憂げな面持ちに魅了されたが」

 その時、私には狗狼の口元に僅かに笑みが浮かんだ様に見えた。

「今の貴女は、その百倍も魅力的だ」

 狗狼は佳代さんの右掌を離し、もう別れの挨拶は終えたとでも言うかの様に二人に背を向けて、両手をスラックスのポケットに突っ込み歩き出した。

「さようなら。二人とも御元気で」

 私も急いで二人に最後の挨拶をしてから狗狼の背中を追う。

「あの、乾さん!」

 狗狼の黒い背中に佳代さんの声か掛かり、その歩みが止まる。

「私、乾さんに何時かきっと、私達の作ったチョコレートを贈ります」

 狗狼は振り向かず、ポケットから出した右掌を肩の高さまで上げた。

「悪いが甘いものが苦手なんだ。送ってくれるなら、そうだな、今日の失恋の様なとびきりビターな奴にしてくれ」

 本気なのか冗談なのか判断の付かない言葉を返して狗狼は再び歩き始める。

 運び屋の仕事はもう終わりだとでもいうかのように。


 空港大橋こと神戸スカイブリッジを夕日が黄昏の金色に染めている。

 狗狼は先程から一言も口を利かず、黙々とプジョー207SWのハンドルを握っていた。

「狗狼」

「……何」

 私は先程から聞きたかったことを口にした。

「その、失恋って、ホント?」

 多分、四〇過ぎのオジさんであろう狗狼の失恋は、笑って済ませられるものなのか、それとも一緒に悲しむべきなのか解らないけど、少なくとも後者では無い様な気がする。

「ん、ああ、本当だ。俺は深く傷ついて夕日に向かって車を走らせたい気分なんだ」

「そうなの? 私には、そう思えないよ」

「そうか?」

「そうだよ。だって……」

 私は続ける言葉を敢えて口に出さずに胸の内で呟いた。

 口にすると、きっと今、見ているものが消えてしまいそうだったから。

 だって、狗狼、微笑(わらって)いるよ。

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