四章 スイート・ビター・チョコレート(4)
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暑い。
この住居兼倉庫の窓は通りに面した、正確には海側に付けられた一つしかなく、そこだけだと、この夏の真っ盛りともいえる炎天下では室内が蒸し風呂と化しているので玄関のドアも大きく開放している。
それでも海からの風が途絶えた今の状況では室温が上昇する一方で、私は毎日の日課となっている図書館への避難を始めようとノートと図書館から借りた山本敏晴さんの書籍を手に取った。
毎日、図書館に通っていたのでは借りた意味が無くなってしまうのだけど、此処に居たらノートが水滴だらけになって読書どころではなくなるので仕方がない。
「ん、今日も図書館か?」
夏の魔人が声を掛けて来た。
黒背広、ネクタイ着用、サングラス、黒手袋。
「……あつっ」
つい口に出してしまう。
「ああ、確かに今日も暑いな」
「うん、暑い」
私の返答に狗狼は顎に手を当てて何かを考える様に目を閉じた。
おそらく、エアコンを買おうかどうか考えているのだろう。
驚くべきことに、この事務所兼倉庫にはエアコンは無く、二枚の羽根を不規則な回転速度で回す扇風機が一台あるだけだった。
狗狼曰く、「倉庫に居るより車に乗っている時間の方が長いので必要が無かった」とのこと。
狗狼は私が居るのでエアコンを購入しようとしたのだけど、私だけの為にエアコンを買うのも勿体無いので必要ないと突っぱねた。
だって、来年は私は此処には居ないから。
私は独りで生活しなければならないから。
半月前まではそう思っていた。
でも今は違った。
あの半月前の旅行で、私は何かを知りたい、やってみたいと思ったのだ。
世界の仕組みについて、少年兵や難民を生み出す源の何かを知りたいと思ったのだ。
しかし、中卒の学生では得られる知識や持ち合わせた技術が不足しており、表面的なテレビカメラに映る物事をなぞっている程度の物事しか知りえないだろう。
狗狼に相談するべきだろうが、本来、彼は私に無関係の立場であり、そこまで彼が私に関わる義務は無い。
彼も繰り返し言っていたが、あくまで彼が保護者を演じているのは契約違反の代償でなのだ。
「俺も出るか。図書館まで送ろう」
「え?」
「二日前から煙草を切らしてるんだ。近々入荷すると聞いたから煙草屋を覗いて来るよ
そうなのだ。彼は【ワイルドカード】と呼ばれるあまり見かけない煙草しか吸わないので、通っている煙草屋さん以外では売っていないらしい。
煙草屋の御婆さんも狗狼しか吸わないので無くなってからしか取り寄せず、一度在庫が切れると二週間ほど入荷するまで待たなければならない。
その間、狗狼は仕事後の至福の一時を我慢しなければならないのだ。
「達成感が全然違うのだよ」
とは、切らした時の狗狼の一言。
私には理解出来ないけど。
「あのー、すみませーん」
開けられた倉庫兼事務所兼住居の入口から女性が顔を覗かせて声を掛けて来た。
「あ、はい」
運びの仕事の依頼かなと思って入口へ顔を向けて、私はそこに居る見知った顔の人物に驚きを隠せなかった。
「え、ええ、佳代さん、工藤さん」
「はい、その節はお世話になりました」
半月前の旅行で知り合った佳代さんと工藤さんの元夫婦は玄関口で一礼した後、事務所の奥へ目をやってこちらへ歩いて来る狗狼へも目礼した。
「どうしました? お二人共揃って?」
「今日はお二人に報告したいことがあったので、その、探偵さんにご住所を窺ってきました」
狗狼の質問に工藤さんが答えた。
二人の表情が半月前より明るく感じられるのは、私の気のせいだろうか。
「それは、わざわざ遠い所から来て頂きご苦労様です。外は暑いでしょうから中に――」
狗狼の声が途切れた。
だって、屋内も灼熱地獄だから。
「私、冷えたジンジャーエール出すよ」
「あ、ああ、頼む」
冷蔵庫から何本かストックしているウィルキンソ○のジンジャーエールを取り出して、氷を入れたグラスに注ぐ。
「どうぞ」
ガラステーブル来客用のソファに腰掛けた工藤さんと佳代さんの前に置くと、工藤さんは先程から気になっていたのか、電源を入れると2枚の羽根で振り子運動を始めた扇風機から目を離して「どうも」と頭を下げた。
「あの、此処までは、タクシーですか?」
佳代さんの真向かいに座った私は、開け放たれたドアから覗く照りつける日差しで白く変化した風景を一瞥して訊ねる。
最寄りの【中埠頭駅】からこの倉庫街にある事務所兼自宅迄、約五〇〇メートル。
普段なら大した距離ではないが、今日はその五〇〇メートルが十三階段のように思えてくる。
「いいえ、中埠頭駅からここまで歩きでです。探偵さんが事務所は解り難い所にあるので注意するように言われていたのですが、ドアが開いていてよかったです」
ドアに貼り紙か何かした方が良いかも。
「でも、一寸驚きました。運び屋さんって夏でもスーツなんですね」
「何時依頼があっても、直ぐに対応出来るようにしております」
「大変なんですね。でも黒いスーツが似合っていますよ。カッコいいお父さんで」
「いや、お褒めに預かり光栄です」
ごめん、狗狼。佳代さんは重要な勘違いをしているけど、それは訂正しなくてもいいの?
私は慇懃無礼に一礼する狗狼を放っておいて、訂正するように慌てて眼前で手を振って否定した。
「あ、あの、違います。その、彼は私の叔父で私が両親を亡くしたので代わりに面倒を見て貰っているのです」
私の説明にさんと佳代さんは意外な事を聞いたとでもいう様に顔を見合わせた。
「あ、そうなのか。いや僕は仲の良い親子で羨ましいなと思っていたから」
「いや実は不肖の保護者でして。湖乃波君のほうが確りしております」
失言だったかと気にしたように頭を下げようとする工藤さんを手で制して、狗狼は冗談とも本音とも区別のつかない茫洋とした口調で答えた。
狗狼は親子と見られることに抵抗は無いのだろうか。
私は横目で狗狼の表情を窺ったけど、サングラスを掛けたままの表情からは感情が読み取れなかった。