二章 危険な受取人(3)
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いま俺達の居る和歌山市から目的地の熊野古道中遍路辺りまで、阪和自動車道で下ったとしても法定速度で二時間半は掛かる。阪和自動車道は片側一車線が多いから、通行量次第では三時間に達するかもしれない。
現在、午前七時五十分。現地での荷渡し時間が午前十時。本当に急がないと遅刻してしまう。指定時刻プラスマイナス五分で到着が俺のプライドだ。途中で一般道に降りて、山道を時速八十キロ越えで突破すべきか。
再び和歌山インターチェンジから阪和道へ入り南下する。途中のトイレ休憩は吉備湯浅PAで取ることにしよう。
さてさて、助手席の少女だが、俺としては彼女は一応行方を眩ましたとはいえ依頼人の親戚であり、また運ぶべき荷物であるから、いつも通り名前も聞かず会話する必要はない。しかし、何か言いたそうに運転席へ視線を向けてくるので、俺としては口を開くしかない。
「トイレ、厠、はばかり、雪隠、W・Cなら我慢してくれ。それとも一個だけ携帯トイレがあるけど、使ってみるか」
「違います」
大声で喚いてくれれば可愛いものだが、残念ながらこの少女は醒めきった目つきで、静かに反論する。
「私は、どうして戻ってきたのか、聞きたかっただけ、だから」
ああ、なるほどな。確かに先程放り出した奴が戻ってきたら、親切な人と思うより、何か企んでいるんじゃないかと思うよな。つまり警戒されているらしい。
俺は、何故戻ったのか考えてみることにした。が、何となく戻ってしまったでは答えにならないのだろうか。
リンゴが落ちる様を見たニュートンが万有引力の法則を思いついたように、何かが俺の脳細胞に語りかけたに違いない。つまり、だ。
「いや、俺はチャネラーなんだよ」
「………」
少女の表情から推測すると、先程の回答は物凄く不評だったようだ。ならば未確認飛行物体からの電波を受信したとでも答えるべきか。ただ、答えた後の、少女の俺に対する評価は今現在と比べ物にならないほど落ちているに違いない。
俺は深いため息をひとつ吐いた後、「尾行されていたことに気が付いてね。ほおっておくのも寝覚めが悪そうだから戻って来た」とだけ言った。嘘はついていないぞ、嘘は。
少女は俺の答えには何の感銘も抱かなかったのか、何も言わず窓の外に視線を転じた。
助手席に座っているのが絶世の美女で、そのミニスカートから伸びる太腿に手を触れながらなら、いくらでも美辞麗句を並べ立てることが出来るのだが、相手がガキンチョならこの程度しか頭に浮かばない。
続けてひとつ深いため息を吐いた。
俺の人生は、このまま悪運にまみれて終わるのだろうか。人生の幸運と悪運は五十対五十と誰かから聞いたような気がするが、少なくとも俺に人生に於いては、その法則は守られていないような気がする。
吉備湯浅PAには方向指示器を使わずに、急ハンドルで方向転換して脇道に入る。これで後続の車両が慌てて進路をPAに向けるなら尾行されている可能性があるのだが、別に慌てるそぶりも見せなかったので尾行は無いものと判断する。
車を降り少女がトイレに向かったことを確認してから、俺は喫煙スペースに足を運んだ。
俺はせいぜい一日一本吸うか吸わないか程度で、ニコチンが切れると吸いたくなるようなヘビースモーカーではない。大抵は仕事を終えて一服するか、このように待ち時間に一服する程度だ。
ジャケット左懐のポケットから煙草の箱を取出し、底を指先で軽く弾いた。
煙草の箱から茶色の紙に巻かれた煙草の尻が覗き、俺はそれを口に咥えて抜き出した。
このタバコは「Wild Card」という名で、これを吸った女性はややビターチョコレートの味がすると感想を述べた。その煙の香りも国産煙草とは異なり甘いものだ。ただこの煙草はここら辺では神戸市元町商店街の老舗煙草屋しか売っておらず、一回ストックが切れると半年以上も待たなければならない。
咥えた煙草にバーナーライターで火を付ける。このライターは小型ではんだの溶接作業にも使える優れものだ。
ゆっくりと味わって一本を吸い終えてからトイレに向かう。
トイレ休憩のついでに缶のお茶を買っておいた。今日は天気は良い方で、エアコンを作動させるほどではないが車内はやや暑い。
「ほら、お茶」
「ん」
トイレから戻って来た少女は受け取って、直ぐに蓋を開けて口をつける。どうやら喉が渇いていたのを我慢していたらしい。
南紀田辺インターチェンジ迄は、和歌山インターチェンジからここ吉備湯浅PAまでの距離とほぼ同等とみてよい。さらに一般道に下りた後に一時間以上、熊野古道を走らなければならない。このままでは目的地到着時刻は十時を上回ってしまう。仕方がない。
「聞きにくい事を聞くのだが、あと目的地まで一時間半ほど掛かるがトイレ休憩は無くても大丈夫か?」
少女は缶から口を放し、暫く缶を見つめた後、こくんと頷いた。きっと、飲む前に話してほしかったと思っているのだろう。まあ、タイミングが悪かったのは諦めてくれ。
吉備湯浅PAを出て、阪和道をただ南下する。時折二車線になる個所があるが、そこでは必ず加速して出来るだけ前に出るようにした。
南紀田辺インターチェンジを下りて、207号線に出た。ここから国道311号線に入り約一時間十五分で、目的地の近露王子へ到着する予定だ。しかし現在時刻九時五分、目立ちたくはないが、多少無茶な運転で時間短縮を図るしかない。
「ちょっと飛ばすけど我慢してくれ」
隣の少女へそれだけを告げてアクセルを踏み込む。
熊野古道は所々に急カープが存在するが、そこもサイドブレーキを使ったドリフトで、スピードを殺さず通り抜ける。
マルクス・グロンホルムよ、我に力を。
助手席で少女は両手で胸前のシートベルトを掴んで、必死で横揺れに耐えている。その少女の頑張りに答える様に、俺は脇道へ入り込んだ。218号線に出てショートカットするつもりだが、これが吉と出るか凶と出るかは神のみぞ知る。
三十分後、硬直して前を見つめる少女と、ひたすらアクセルを踏む俺を乗せた207SWは、何とか国道311号線へたどり着き、目的地への進行を再開した。
ここへ来る途中、非常に道が曲がりくねっていたり、信号に気づかず通り抜けたり、道を間違えて畦道を猛スピードで突破したりと少女にとって非常にスリリングな抜け道であった。でも時間短縮になったと俺は信じることにする。
滝尻王子の看板横を通り過ぎた。あと三十分程度で近露王子近くに到着する。少々余裕が出来たのでアクセルを緩めると、少女が安心したように肩の力を抜いた。
時期が4月中旬ということも有り熊野古道の道沿いには、所々にまだ散っていない桜の花が通り過ぎる人々の目を楽しませるように咲いていた。少女も助手席の窓から、その列立する薄紅色を眺めて「わぁ」と声を漏らす。
日本っていいよな。
俺はサイドブレーキの後ろにあるスイッチを引き上げると天井のシェードが後部座席上までスライドして、助手席手前まで頭上の風景が現れた。
207SWは天井に大型のガラスルーフを備えており、頭上の風景を楽しむことが出来る。桜並木の作り出したアーチを、少女は空を見上げて魅入っていた。
「座席横のレバーを倒せば背もたれが倒せるから」
少女は言われた通り、背もたれを倒してその風景を楽しんでいる。残念な事は仕事でなければ、もっとスピードを落として風景を堪能させてやれたのだが。




