一章 最後の依頼(1)
一章 最後の依頼
困ったことに予期せぬ珍客というものは、来て欲しくない時に決まって訪れる。
それが俺の、出来れば誰とも深くかかわりたくないプライベートに関係するものならば、目を閉じて耳を塞ぎ、その疫病神がドアをノックし続けるのを無視するのが一番である。
しかし、俺は何の覚悟もなく馬鹿面を晒してそのドアを開けてしまったのだ。
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「起きなさい、くろ……」
懐かしい声がする。いつまでも狸寝入りをしていたくなる様な優しい声。
でも毎朝、この声がすると目が覚めてしまうのだ。それが、過ぎ去ってしまった日々の幻聴だとしても、その声の主の顔が見たくて目を覚ます。
「んあ?」
俺は微かに窓から差し込む黄色い日差しに目蓋を焼かれて嫌々目を覚ました。
すぐに上体を起こして背伸びでもすれば健康的なのだろうが、生憎、四十代に突入している俺には普段の不摂生も祟って寝返りを打つことしか出来ず、その寝返りすら四分の一回転で障害物に当たって止まる。
「……」
身動ぎするとその障害物はバサバサと音を立てて崩れ落ちた。その内のいくつかが俺の上に乗っかり僅かに気持ちをささくれ立たせる。
「っつあっ」
仕方なく起き上がる。
赤色の寝袋に顔だけ出して眠りに付いたのは昨夜何時ごろだっったのか、十分に眠った気がしない。首のつけ根と背骨に鈍痛があり自分自身の寝相の悪さを物語っていた。
「あーっ」
とりあえず呻く。
上半身を起こして寝袋の上に崩れ落ちた本のひとつを手に取った。題名は【支那図説】。
ぺらりと本を開き流し読みするが、空飛ぶ亀のイラストを見ても内容を全然覚えていない事に気付き憮然とする。大体何時頃購入したかも記憶に無く、ひょっとすると俺は購入したまま忘れ去っていたのかもしれない。
とりあえず寝袋の傍らに積み上げられた本の山の上に「支那図説」を重ねる。明日の朝あたり、また崩れそうな気がするが今はどうこうしようとする気も起きない。
寝袋から足を抜き出し立ち上がる。腕を振って腰を回し、ついでに首も回す。
うん、身体の調子は悪くもないが良くもないようだ。
二日前から着っ放しのシワが目立ち始めた白いワイシャツと、折り目の目立たなくなり始めた黒のスラックスは気にしないことにする。下着の黒Tシャツと同色のトランクスは毎日着替えているから不潔ではないだろう。
辛うじて本と雑誌と酒瓶の堆積する床に開けられた通路を五歩で渡りきり、隣の部屋へ通じるドアを開ける。
こちらの部屋は先程までいた寝室兼書斎と異なり無個性なものだ。
あるのは簡単な流しとその右隣に置かれた白い作業台と二台のカセットコンロ。左隣には小ぶりな冷蔵庫とその上に置かれた薬缶と二個のマグカップ、茶葉の容器。部屋の中央の小さいガラステーブルを挟み込むように置れた小ぶりのソファー。ガラステーブルの上には読みかけの文庫本、四年ほど使っている旧式の携帯電話と灰皿。
約十畳程の、黒ずんだ床板が敷かれた室内の家財道具はそれだけで、詐欺師の借りたダミー会社の急造事務所ですら幾分かマシな物を置いているだろう。
俺にとってはここは食事の場所であり、滅多にいないが飛び入りの依頼人を持て成す場所でもある。
とりあえず、昨晩近くのコンビニで買っておいたレタスサンドとペットボトルのジンジャーエールを冷蔵庫から取り出しテーブルの上に置く。
別にレタスサンドが好きなわけではなく、たまたま売れ残っていたサンドイッチの中で、これが一番安かったから選んだのだ。ジンジャーエールも水っぽい缶珈琲を飲む気になれず珈琲豆を買う金はないので、取り敢えず妥協して一本八拾八円の辛うじて好みの飲み物を買っておいたに過ぎない。
サンドイッチを一口齧り、ジンジャーエールをペットボトルの口に直接、口づけて飲む。
今の世の中、自分しか飲まないのにペットボトルの中身をカップに移して飲む者もいるらしい。そんな者は、こんな飲み方を見れば不潔、と眉を顰めるだろうが別に客に出すわけでもないので気にする必要はない。
それに客に出すのは八拾グラム、千二百円の高級茶葉と決めている。わざわざ虎口に入ってきた鴨を、逃がすような真似をしないよう仕事の相方が用意していたものだ。
五分程で朝食を平らげた俺は顔を洗いに洗面台へ向かった。
もともと倉庫であったこの物件に簡易的に取り付けられたバスユニットは、田舎のビジネスホテルより狭く、バスタブといえば湯の中に腰を下ろしてもせいぜい鳩尾の辺りまでしか浸かる事が出来ない半身浴専用といっても差し支えない小さなものだ。
シャワーの栓を半回転ほど捻り、頭上のからジョボジョボと垂れる水を掌で受けた顔を擦る。ついでに口に水を含んでうがいをした後、足下の排水孔へ吐き出した。
他人が見ると汚いと眉を顰めるかもしれないが、一人暮らしなので人の目を気にする事もなく気楽なものだ。
歯を磨いた後、同様に足元の排水孔へうがい水を吐き出してから、額にかかった髪を後ろへ撫で付け整える。
癖のある少し長めの髪は、乾くと耳の上と後頭部で左右に広がる。きちんと整髪料で整えないと、時間が経つ毎に跳ね上がった髪の毛が雑草の如く直立して非常に見苦しい。
黒のスラックスに足を突っ込み、昨日アイロンがけをしたカッターシャツを羽織る。
このカッターシャツの布地はポリエステルと綿の合成繊維だが綿の比率が多めで欧米のように素肌にそのまま羽織っても不快では無い。糊付けする箇所は襟と袖口、シャツの前ボタンの合わせ目のみとして柔らかさを保っておいた。
仕上げに黒地に黒の縞模様の入ったネクタイを緩めに締めて身仕度を完了させる。葬式でもないのに黒の無地を着用するのは意外と縁起を担ぐこの業界では避けるべきであろう。
後は口煩い相方が残した仕事を片付けるまでやることが無い。
時間までガラステーブルの上に置いたままの文庫本を読んでおこうと手に取った。
俺は基本的に小説は読まない。登場人物の心の機微を読み取ることが面倒臭いからである。何も考えず、ただ図と文章を追うのが俺の読書だ。
今読んでいる本は有名な女性小説家のエッセイで、彼女が飲み食いした料理の感想が書き連ねられている。
今日これを読み終えてしまうと、明日新たな本を買いに行かねばならず予定外の出費を許容しなければならない。
暫くエッセイを読み耽り、クジラのステーキって食ったのは何年前だと記憶を遡っていると、突然鳴り響いた電話のベルに思考を中断させられた。
別にこの部屋にレトロなダイヤル式電話機を置いている訳ではなく、携帯電話の着信音が「呪いの黒電話」に設定されているだけである。
本当は国民的娯楽番組「笑○」の着メロに設定されていたのだが、依頼人との商談中に流れて以来、相方に使用禁止にされてしまった。