第1章
「じゃあなんで僕は生きているのだろう」
第1章
“拝啓貴方様へ”
そんな最期になりたくない。
拝啓 と書きたくない。
僕が生きている理由はそんなに内容が浅はかなものじゃない。
幼い頃母親が死んだ時に思ったことだ。
拝啓から始まった手紙には虐待をしてくる父と死にたがりの僕に別々に手紙が入っていた。
内容はあまり覚えていない。
どうでもよかったからだ。
隣で虚言をだらだらと吐きながら周囲の人と話す父親。
喪失感さえも感じなくなっている僕に花輪のように取り巻く偽善者達。
何も考えたくなかった。
というよりかは、脳が周りの戯言をシャットアウトしているかのようだった。
まるで映画のワンシーンを見ているような気分。。。僕は空に身を委ねた。
1つ散った。あと5つ
僕は今17歳 学校も家もこの世界という枠組みも大嫌いだ。
寝ては幼い頃の夢を頻繁に見る。
あれは…。
なんの夢だったっけ。
思い出せない。
家に居た時の僕は精神的にも肉体的にも殴られっぱなしで辛い。
これは規則的な毎日なのだろうか。
親はもう父親という概念すらなくなっていた。
だからずっと学校にいたいと思うのだ。
僕に話しかけてくるやつなどいなかった。
しかし、ある日を境に毎日話しかけてくる奇妙な奴がいた。
「私ね」から始まる一言。
これも規則的な毎日の仲間入りなのだろうか。
僕はこの子に返事をしたことがない。
それなのにも関わらずその子はまるで僕が話しているかとでも言うように、僕の気持ちを手に取って話をする。
僕の代わりをするその子の口から出る言葉は僕の心そのものだった。
“美しい”
人に対してそのような感情を抱いたのは初めてだった。
ただ、その子の笑顔があまりにも綺麗で驚嘆した。
その子の初めての一言は
「私ねリリィっていうの」
だった。
名前から外国人かと思ったが違う。
顔の成り立ちが、そういう風に見せなかった。いや、鼻が高いし、瞳の色が透き通っているから外国人では無いと一概には言えないな…。
などと思っているとリリィは
外国人じゃないよ、!と焦っていた。
一日で一言程度しか話さないのにリリィにはとてつもない魅力があった。
またひとつ散った。あと4つ
「私ね、貴方には不思議な力が宿っていると思うんだ。」
「私ね雲を見ることが好きなの。形は複雑なのに優しい印象があるから。」
こんな会話を毎日1人でリリィはしてきた。
会話ではなくもはや独り言なのかもしれない。
リリィはたまに可笑しなことを言う。
「私ね雨と霧雨の違いがわからないの」
「私ね傘と合羽より靴とスニーカーの方が好きなの。」等といったことだ。
傘と靴は似ても似つかないと思うが…と考えていると、リリィはきまってこの世界の大体は一緒なんだよ!と真顔で、至って真剣な顔で言う。
こういう時のリリィは冗談なのか本気なのかどっちか分からない。
心臓が早く脈打っている。
ような気がした。
リリィはその日モノを持ってきた。
半分に切られているそれは思っていた以上に甘い薫りがした。
「私ねこれは赤色じゃないと思うの。」
またおかしなことを言っているなあと思っていたら、
「君はどう思う?」と聞いてきた。
僕は答えない。
答えられない。
瞬きしてからもう一度それを見ると何色にも見えなくなっていた。
赤でもない。
青でもない黄色でもない。
白でも、黒でも、何色でもない。
僕にはわからなかった。
またひとつ散った。あと3つ
リリィは僕のことをわかっていない。
なぁ、リリィ。
君は病気であまり眼が見えていないのだろう?
花が散ってしまう前にどうかお願いだから気付いてくれ。
頼むから。
どうか、どうか気付いてくれ。
今日もリリィは独りで話している。
「私ねこれから貴方と一緒に林檎の観察をしたいの!」
僕は何も言わない。
ただ黙って君の話を聞く。
何も言っていないのにリリィは楽しそうに「はい!じゃあこれがあなたの分ね!」と言ってきた。
昨日のモノとはまた別のモノを用意していた。
リリィが僕に向けてそれを渡そうとしてきた。
床にぼとっと音を立てて落ちる。
リリィは手に持っている左半分のそれをじっと嬉しそうにも、悲しそうにも見える顔で見ていた。
気付けばリリィはそれを持ったまま寝ていた。
赤褐色に染っていくそれの断面。
起こしたくても起こせない虚しさ。
手を伸ばそうとしたらふらついて花がひとつ散ってしまった。
あと残り2つしかないのか。
今思えば君がぼくのひとつちった音で起きたからよかったのだろうか。
またあした。リリィ。
リリィは目が見えない代わりに聴覚がとてつもなく鋭かった。
また、僕は持っていないものを持っている、そんな気がした。
僕はこの場所を去ることも、逃げることも許されない。
空を見上げることも、地面を見ることも出来ない。君とはまた違った“モノ”なのだ。
それなのに、それなのになぜリリィは僕に話しかけてくれる?
本当はリリィだって分かっている筈なのに。
僕はもう原型がない、崩れた肉体ってことに。
死んでしまっていることに気がついているはずだ。
僕はリリィに触れたくても触れられないことだってリリィはわかっているはずだ。
花弁1枚が落ちた音にさえ気づける君なら僕がそこに居ない、形のないものだってわかっているはずなのに。
なんで君は。
なんで君はそんなにも。
翌日リリィは学校に来なかった。
死んでいる僕でも規則的なものが壊れるとすこし寂しい。
またひとつ散った。あとひとつ。
僕が生前、使っていた机には花瓶が置かれている。そして花瓶に挿された、残り1枚の花弁で散ってしまう花。
リリィが言うにはもう外の桜の木の莟が膨らんでいるらしい。
僕は外を見ることも出来ないこの半透明で真っ黒なからだで教室内を浮遊していた。
その桜の莟はまるでリリィみたいだな。
リリィを花に例えるとしたら、月下美人のようで、眉目がとても整っている。
等といったくだらないことを考えていた。
不思議な音が廊下からした。
優しくて、てとてと といったような軸がない音が。
教室に入ってきたのはリリィだった。
僕がリリィのことを考えていたから、思ってしまったから、皮算用でそう見えただけなのかもしれないと思った。
ただ現実なのだとわかったのは、リリィが喀血していたからだ。
こういう時にどうしようもできない僕は本当に格好が悪い。
リリィは苦しそうな素振りをひとつも見せることなく、
「私ね貴方が最期なのがわかって、私も最期みたいだから貴方と一緒に空に舞いたいの。」
とまたおかしくて、素敵ことを言っていた。
リリィは
「私ねその為には外の世界を知らないといけないと思うの」
と言ってベランダの扉を勢いよく開けた。
3月下旬とは思えないほど冷たい風が僕とリリィ2人だけの空間を創り上げた。
寒さからか、外を久しぶりに見たからなのか、星がとても綺麗に鮮明に光って見えた。
リリィはベランダの柵に登りあげて、あの時僕に向けてくれた本物の、嘘偽りない満面の笑みで柵の上のわずか5センチ程の上を踊っていた。
その姿はとても美しく、狂っていて、死に対する恐怖をも感じなかった。
強迫観念を取り払って踊るその姿に僕は驚嘆していた。
バレリーナのように美しく踊るリリィはきっと全てを悟っていたのだろう。
身を躱すようにしてひらひらと踊るリリィに僕は初めて声をかけた。
「君もこっちにおいでよ」
リリィは、満面の笑みで空に身を翻した。
空知らぬ雨と落ちゆく中で君は何を思う。
「私ね。貴方に出逢ってから毎日が楽しいの。死神さんどうも有難う」
今、嫣然と笑う君が、もう二度と空笑いをしないで済むように。
ひとつ散った。
残りは…
もうない。
次の日僕が使っていた机の隣には綺麗な月下美人の花が置かれていた。