可惜夜が明ける時
いずれ、天下泰平の世が来る。
その世界に、武勇は要らないだろう。
そうなれば我らは、刀ではなく政を執ることになる。
――だからあの子には筆を握らせた。
いずれ来たる世界を、照らす光として。
これが私の、あの日の記憶。
骸骨たちの武家屋敷に、オレは足を踏み入れた。
瞬間、違和感に気付いた。
否、違和感ではない。
“既視感”だ。
床が遠い。戸が低い。柱が短い。
あの頃とは何もかも異なる見え方をしている。
そのはずなのに。
知っている。知っている知っている。
(この床板は、ここを踏むと大きめの音で軋んでしまう)
(この襖は、建付が若干悪くて開けるのにコツが要る)
(この柱の足元に、何度も車輪をぶつけて疵をつくってしまった)
知らない世界にオレは居るはずなのに、今のオレは見知った屋敷を歩いている。
しかし、屋敷を歩くとすれ違うのは、やはり衣服を纏った骸骨なのである。
「おい、どうした?」
ツクヨミが呑気に問いかけていたようだったが、今のオレには届かなかった。
もう足が勝手に動いてしまう。
骸骨をすれ違いざまに砕きながら、見慣れた通路を通り抜けて。
知らない世界の、見慣れた部屋を見つけた。
車輪の付いた椅子が、居なくなった主を待っていた。
部屋の障子を急いで開けると、見慣れた庭――曇天を映す大きな池と、それを囲むように咲き乱れるシャクヤクの群れ。
オレは庭へ転び出て、池のほとりへ歩いた。まだ、車輪の轍がかすかに残っている。
「ねぇ、ツクヨミ」
自分でも驚くほど、弱く乾いた声だった。
「なんだ?」
頭の中に響く、初めて聴いたときから変わらない声。
「この池に飛び込めば、オレは元の世界に帰れる、か?」
「元の世界? 異な事を言う。此処は元から“お前が居た世界”だろう」
「違う。そんなわけないだろ。だってオレが居た世界には――」
ゆっくりと、部屋の方へ振り向く。
刀。矢じり。槍。
無数の切っ先をこちらへ向けた、甲冑を纏った骸骨がずらり。
「こんなヤツら、居なかったよ?」
自分の声が震えていることが、嫌でもわかった。
四方八方から、刃と物怪が迫ってくる。
戦いながら、オレはまた尋ねた。
「なあ、ツクヨミ!」
宙で止まった矢を払い退ける。
「なんだ?」
突き出される槍が、ツクヨミの力で動かなくなったところを、オレが圧し折る。
「今のオレは役に立ってるよな!?」
振りかざされた刀を捻じ曲げ、刀の持ち主の頭蓋を拳で粉々にする。
「ああ」
その承認は、今のオレを満たすものではなかった。
足りないのではない。違うのだ。
「あと少しだ。さあ、このまま押し切るぞ」
それでも、その承認は、まだ甘美だった。
だから、オレは自分の意志で戦い続けた。
まだ、なにかが欲しいから。
屋敷にいた骸骨武者、その最後の一体。
それは、刀を地に突き刺して、両手を広げた。
そのまま前へ、こちらへ、歩いてくる。
「ほう……降参するとはな」
ツクヨミが嗤いを含みながら言う。
目の前の動く骨は、丸見えの歯の隙間から風を漏らしている。――それは、きっと、聞き逃してはならなかった声なのだろう。
でも、今のオレにとっては、ひどく耳障りだった。
だから、殺した。
甲冑ごと、アバラをオレの右手で貫く。
そのまま、オレは骨の手に抱きしめられていた。
温度も柔らかさも無い、ただ異形の両手が背中に回されている感触。
不気味だった。気持ち悪かった。――そう感じたくないのに。
抱きしめられたまま、オレは首の力を抜いて、空を見上げる。……雲に遮られて、星明りも、月光も、届かない、オレを照らさない。
(ツクヨミと共に在るはずなのに)
孤独を感じているうちに、抱き着いてきた骨は足元に転がっていた。
「ねぇ、ツクヨミ。これからも――」
居てくれるか、と続きを言うことは、能わなかった。
「く、つっ、ふふっ、くふふ」
ツクヨミが笑う。
「ふふふふっ」
ツクヨミは笑う。
「ははっ、ははははは」
ツクヨミが、嗤う。
「はっはっはっ!」
オレの心象など露も知らない様子で笑うツクヨミ。
――何の予兆も無く、オレの右目が飛び出した。
「!?!?」
痛い。
「っぁあ、ぁっはっ」
居てほしかった。
「ぐ、があ、あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"!!!」
脳髄に直接叩き込まれたその痛みに、オレは、無い右目を押さえて、のたうち回る、絶叫する。
残った左目で、涙と血液で滲む視界で、オレはどうにか辺りを見る。
オレの足首に縋っていたのは――
動かなくなった人骨ではなく、胸に惨たらしい穴を空けた父上だった。
オレのものでなくなった右目は、どんどん膨れ上がって卵となり、そしてそこから孵ったものは――
両の目に金色の月光を宿した、オレと瓜二つの存在だった。
「お前が集めてくれた魂で、私は肉体を手に入れた。感謝するよ」
そう言って、月黄泉は満ち足りた笑みを浮かべる。
「これでお前ともお別れだ。お前は、何よりも私の“役に立ってくれた”よ」
悪魔は、皮肉すら感じさせない純然たる感謝の声色でそう言い残し、ふわりと浮き上がって何処かへ飛び去って行った。
そう、憑読は悪魔だ。
自分の目的のために、空白を抱えたオレを誘う形で拐かし、偽りの世界を見せ、オレの“承認”を満たしてまで、オレを利用した。
それが、オレのここまでの放浪の真実なのだろう。
オレは、何を手にしたのだろう?
人々も家族もすべて殺し尽くした事実からくる、“殺戮者の肩書”だろうか?
悪魔の役に立てたという事実からくる、満ち足りた“承認”だろうか?
でも、失ったものが多すぎる。
右目も、家族も、ツクヨミも、他者を信じる心も、命も失くしてしまった。
(オレは何が欲しかったんだろう?)
「……おしえ、て……くれ」
月は、あの時と変わらず無言を貫いた。