樹
樹は、夜よりも深夜と言う言葉がよく似合うような時間に、家に帰った。自動で点灯する玄関のLEDに出迎えられて、ぼそっと「ただいま」と呟く。妻も娘も、もう寝ているだろう、と思った。当然だ。靴を脱ごうと体を動かすと、先ほどまで一緒にいた女の香水の匂いが移っていたのがわかった。なんだか落ち着かない匂いだった。
樹は、昔から香水のにおいを好まなかった。一番好きな匂いは、本の優しい匂い。特に古い本だ。学生の頃は図書室に通い詰めていたから、貸出カードはほとんど「山下樹」で並んでいた。
そんな樹が「吉田千佳」の名前を初めて知ったのも、貸出カードだった。どうやら同じクラスらしい、と知ってからは話したくってならなかった。休み時間に、ぴんと背筋を伸ばして、彼女は本を読む。その姿が綺麗で、気づけば、樹は彼女を目で追っていた。
『吉田さん、てさ。ファンタジー小説好きなの?』
初めて声をかけたのは、高校2年生の夏。出来るだけさりげなく聞こえるように、言い訳がわりに彼女の名前が書いてある貸出カードが入っていた本を持って、樹は彼女に話しかけた。
その本の名前は、アモス・ダラゴン。本好きの性で好きな本のことは誰かと話したい、と樹は思っていた。彼女もおそらくそうだ。樹は、彼女が友達に本を勧めているのを、何度か見かけたことがある。
『うん、大好き。だけど、そのほかのジャンルもなんでもよむよ』
彼女はそう答えた。まだ新品同然だったセーラー服が風に揺れた。少し赤みを帯びた顔に、どうやらさりげなく聞くのは失敗したらしい、と樹は思った。
『おすすめ、とかある……?』
『そう、だなぁ……』
彼女は、机の中から一冊の本を出した。アイスクリームのようなブックカバーがつけられていた。彼女は慎重にブックカバーを取り、その本を樹に見せた。
『塩狩峠、読んでよかったって思うと思う。私はキリスト教徒ではないけれど、残るものがあったよ』
今でも、その本を読んだ衝撃を覚えている。
(もう俺は、あの本を読めない)
自分の命を犠牲にして大勢の命を救った青年の生涯の物語は自分で思っている以上に、樹の記憶に、心に、残っているようだった。
(その、資格がない)
父は、よく家で仕事の話をした。樹は、父の話を聞くのが好きだった。何を作っている、とか、これは自分のアイディアなんだ、とか、カッコいいと思っていた。
仕事ができない部下の話も、頼りない上司の話も、父はよくしていた。樹は、それは少し怖かった。何でか、自分が責められている気がしたのだ。
社会人になり、10年以上の月日が経って、樹は父が言っていたような仕事のできない人間が自分であると気づいた。同時に怖くなった。周りの人間は、そんなふうに自分のことを見ているだろうと思った。
企画書を見せたときに上司が吐くため息も、乱暴に置かれる書類も、責めるような言葉も、どんどん怖くなった。だけど逃げられない、と思った。娘の学費もある。学資保険で積み立てては来たけれど、一人暮らしをするならもっと、私立ならさらにかかるのだ。
トランペットを吹けなくなった娘が荒れ出したのも、この頃だった。樹は、自分が何のために頑張っているのか、わからなくなっていった。気遣うような妻の目もなんだか辛かった。妻は何も聞かない。何も言わない。話してほしい、と思っているのは、ちゃんとわかっていた。プライドが許さなかっただけで。
娘の不機嫌さも、妻の気遣いも、全てが痛かった。痛くて痛くて、樹は逃げた。友人と麻雀をしたり、飲んだりして、毎晩2人が寝た後に帰ろうとした。
ある、冬の寒い日のことだ。妻は樹の存在に気づかなかった。背中が震えている。泣いているのだ、と樹は思った。
『真に自分がかわいいとは、おのれのみにくさを憎むこと』
ぽそ、と震える声で妻は言った。塩狩峠の一節だった。樹は立っていられなかった。恥ずかしかった。
『あら、おかえり』
妻は涙を引っ込めて、樹を迎え入れた。樹は、自分が震えているのは寒さのせいだと思うことにした。そうしないと、泣いてしまいそうだった。
『ああ、ただいま』
その時とは違って、今はもう随分と暖かい。半年も経ったのだと気づいた。あれから半年。今日は女性もいる飲み会だった。香水の匂い。酒の匂い。タバコの匂い。樹は泣きたくなった。本当に泣きたいのは、妻だろうけれど。
真っ暗なリビングの電気をつけると、2冊の本と、手紙がそこにあった。
「野菊の墓と、おおきな木……」
忘れるわけがない。妻がまだクラスメイトだった頃、樹は、野菊の墓を踏まえて、彼女に告白したんだから。
『俺、本が大好きなんだ』
2人でこの小説を読み終わった後、樹は言った。
『俺はあんまり話すのが得意じゃないから、たくさんの友達がいるタイプじゃない。そんなときに、一人にはさせない、というように本がいつもそばにある』
どんな時でも自分のそばを離れないでいてくれるような、例え樹が本を手に取らないときがきても、必要な時には必ず、樹に寄り添ってくれるような、
『俺は自分は孤独だと思ったときに本を読む。孤独じゃないって知るために読むんだよ。優しくて、面白くて、それでいてとっても勇敢で、憧れる存在なんだ』
大好きで、大切で、失うことが考えられないような、
『吉田さんは、本みたいな人だね』
妻は、そういう存在なのだった。ずっと、今だって。
(忘れていた……なんで、忘れてたんだろう)
おおきな木、この本も、大事な本だった。娘が小さな手でこの本を自分の元へ運び、膝の上へ嬉しそうに乗る。あたたかい、この小さな生き物は、樹の声に嬉しそうに目を細めるのだった。
おおきな木、は木と一人の男の物語だ。男が小さな時からずっと、木は自分のすべてを与えて男を見守る。木は、それがとても幸せだったのだ。
(まるで、自分のことのようで)
樹は、娘の小さな手を、顔を思い出す。妻の優しい瞳と、顔も、思い出した。
(木は、きっと、男が幸せにしているのが、幸せだったのだろうから)
樹の幸せも、妻と娘が幸せであることだったから。
樹は、二つの手紙を手に取った。にじむ視界を手でリセットして、手紙を開く。
『お父さんへ
お仕事お疲れ様。それと、ごめんなさい。私、ずっと、お父さんとお母さんに当たっていました。大好きなトランペットが吹けなくなったのが悲しくて、今までの自分が崩れたみたいで怖くて、私は逃げたの。現実から。お父さんとお母さんは、何をやっても、私を嫌わないって思って。
ねぇ、お父さん。私も変わるから、家にいてよ。ごめんなさい、まだ間に合うなら、私、前みたいに、今日見た花がきれいだったとか、帰り道に猫がすり寄ってきたとか、今日読んだ本の話とか、電車に乗ってる不思議な人の話とか、お弁当の美味しかった具のこととか、話したい。まだ、トランペットは引けないままだけど、前を向こうって、思ったの』
樹は、そっと手紙を置いた。
『この世界に、背負うものなんてないのよ』
結婚式で、妻の親友がこれからの二人へと言った言葉。
『ひとの子が背負うものだと思っているものはたいてい、抱きしめるべきものなのよ』
記憶が、別の記憶を呼び起こす。思い起こしてみれば、こんなにも、樹の記憶は暖かいもので満ちていた。足に重しをつけられて遠い海面を見ているように、生きていると思っていたけれど。きれいなものなんて、久しく見ていないと思っていたけれど。
お守りのようにポケットに入れていた金平糖が机にぶつかって音を立てた。木の栓で蓋をされているその透明な瓶は金平糖がぎっしりと詰まっていた。星が閉じ込められているみたいよね、と妻はそういって笑っていたけれど、それもあながち間違いではないのかもしれない。世界には、優しい魔法使いもいるのだから。
例えば、雨上がりの水滴を残す葉っぱがその裏にまた別の美しい緑を隠しているように、窓ガラスに反射した世界の隅に満面の笑みを浮かべる誰かが映っているように、きっと、人間が気づいていないだけで、世界はもっと美しく、やさしいのだ。
そう考えて、樹は本の表紙をなでた。幼いころは確かに知っていた、当たり前のことだった。なんで忘れていたのだろう、と思う。だけどいいのだ。思い出せたのだから。何度忘れてもきっと思い出すのだから。樹は、慎重に、壊れ物を触るように妻からの手紙を手に取った。
『樹へ』
この美しい文字も、樹は好きだった。丁寧に一文字一文字を大事に書く。性格が如実に表れている。
『お願いがあります』
急いで、樹は文字を追った。読むのは早い方だ。伊達に本をたくさん読んできたわけじゃない。妻の願いは、樹を動かすのに十分だった。
(お願い、なんて何年ぶりだろう)
付き合っているときも、「お願い」なんてされなかった。だから、もしかすると初めてのお願いかもしれない。彼女は欲がなく、自分のことよりも他人のことを優先する性質だったから。それを揶揄すると決まって彼女は、
『違うよ、私は欲深だから、自分のことをだいじにしてくれた大事な人たちのことも自分の一部として考えてるの』
そういって笑うのだった。
『つまり、超わがままなの』
おとなしそうな、守られるべきお姫様のような見た目なのに、彼女の中身はまるで魔法使いのようだった。大切な人が近くにいたら、魔法の杖を捨ててでも抱きしめてくれるような人。丁寧に毎日を生きて、気づけば周りに笑顔を運ぶような、そんな魔法をよく使う。本人は、自分のことを魔法使いの親友だというけれど。
(……大事なものはみんな大事だよなぁ、一番なんて選べない)
その言葉通り、今回も、彼女は彼女のために、彼女の周りの人を助けようとしているのだろう。樹は、ペンを手に取った。
「間違えないよ」
樹はそっとつぶやいた。逃げる場所は間違えない。ここが、自分の居場所だ。
樹は、妻からの手紙の追伸を思いだしてついつい笑みをこぼした。
『追伸
図書室みたいなあなたが好きです』
ペンの走る音が、リビングに響く。その音に、迷いはなかった。