莉乃
莉乃が家に帰ると、いつになく母は必至で作業をしていた。声をかけることはできそうにもなかった。昨日、梨乃はひどいことをした自覚があったからだ。母の親友と言うその人を守るように寄り添っていた黒猫が、自分をにらんでいたことも、覚えていた。
「みぃ」
リュックをおろしてすぐ、その黒猫は莉乃の足にまとわりついた。そうして、進んでは、莉乃の方を振り向く。まるで、ついてこいと言わんばかりに。
「おかえり」
黒猫についていくと、案の定、彼女が居た。わかっていたけれど、それでも莉乃がついていったのは、なぜなのか自分でもよくわからない。
「そこにかけてくれる?ごめんね、わたし、今体を動かせなくて」
気が弱く、本が好きな、母。その友達だというその人は、ぼろぼろの体でどうにかこうにか笑顔を作った。まだ莉乃が小さなころに母から聞いた姿と彼女が重なる。
『魔法使いって、いるのかなぁ』
ハリー・ポッターも、タラ・ダンガンも、ダレンシャンも、エラゴンも、指輪物語も、ナルニア国物語も大好きだった。ファンタジー小説がたくさんそろっていた家だから、当然と言えば当然のこと。
『いるよ』
莉乃の問いに、決まって母はそう答えた。
『優しくて、人間のことが大好きな魔法使いは、いつの時代もいる』
そうして莉乃の頭をなでた。暖かい手だった。大きな、大きな手。
『だけど、魔法を使うと、代償を払わなければいけないから。魔法使いが辛い思いをしないで良いように、私たちは頑張らなくてはいけないの』
『お母さんは、魔法使いにあったことがあるの?』
『ええ、親友よ』
そういって、母は金平糖を莉乃の手のひらに乗せた。先ほどまで何も持っていなかったから、莉乃は魔法だと目をぱちくりさせたものだ。今では、それが単なるマジックだとわかってはいるけれど。
「私、魔法使いなの」
目の前の大けがを負った人は、そういった。
「だから、あなたがトランペットを弾けるように、あなたの心の傷を、治せるわ」
莉乃は驚いて口を開けた。嘘だ、と思った。嘘に違いない、と。だって、それならなぜ、今なのか。辛くて泣きたかったあの日に、来てくれなかったのか。
物語の中の魔法使いは、いつだって危機に陥った人の前に颯爽と現れるのに。巨大な迷路をさまよっているような今、ようやく現れるなんて、遅すぎると思った。
「嘘」
「ほんとだぜ」
黒猫が莉乃の膝に乗って言った。猫が話したことに驚いてめまいがした。
「治せるってのも、ほんとだ。こいつは、魔法使いだから」
魔法使いは満足そうに目を細めた。その顔は、どこか猫に似ていた。
「……代償は」
「ああ、千佳から聞いたのね」
こくん、と頷く。
「あなたが払う代償はないわ」
魔法使いはおかしくてたまらないというように、笑った。
「魔法の代償は、魔法使いが払うのよ」
莉乃は馬鹿じゃない。昨日、ニュースを見て急に外へ出かけた母と、魔法使いのけがを見て、魔法使いの言う代償が何なのかを察した。だから、余計、わからなくなった。
「なんで……?」
「なんで今になってって?私のやさしい親友は、私を頼らないから、知らなかったの」
母らしい、と思った。
自分のせいで、家が暗くなっているのは知っていた。母に当たっていた自覚もある。次第に父が家に帰らなくなったのも、自分のせいだと、うすうす勘づいていた。
それでも母は、毅然と今まで通りにふるまった。母は間合いを取るのがうまい。莉乃とは違って。だから、踏み込んでほしくないことは決して聞かないし、気遣いながらも放置してくれる。甘えていることなんて、痛いくらいにわかっていた。母はか弱く、守ってあげないといけないような、お姫様のような人に見えるけれど、本当は。
『お姫様……?ふふ、ありがとう、でも違うよ』
本当は。
『私はねぇ、魔法使いの親友なの』
本当は、魔法が使えないというだけで、魔法使いのような、人なのだった。
「なんで、魔法を使おうと思ったんですか……?」
「苦しんでる人に手を出すのに、理由が必要?」
魔法使いはコロコロと笑った。
「……考えさせてください」
「ええ、もちろんよ」
ドアを閉めて、魔法使いの元を後にする。まだ母は作業をしていた。遠くからだとよく見えないけれど、本を直しているようだった。何の本なのかはわからなかったけれど、母はいつになく真剣だった。
いつものように動画を見ようと莉乃はソファーに座り、携帯の画面をスクロールする。特に見たいものはなかった。いつもそうだ。見たいものはないけれど、何とはなしにどれかをタップする。時間つぶしだ。今日もそうしようと画面をスクロールしていたけれど、なんだか、気乗りしなかった。
(本、読もうかな)
莉乃は立ち上がり、本棚の前に立った。読みかけの本もたくさんある。中学生になるまでは、たくさんの本を読んでいたのに、今では読まなくなった。「楽隊のうさぎ」がなくなってからは、特に。母がいるからなんとなく寄り付きにくくて、図書室にもよらないから、本がこんなに並んでいるのを見るのは久しぶりだった。
その本を手に取ったのは、完全に彼女のせいだった。「西の魔女が死んだ」は、母が大好きだと言っていた本だった。母がこの本を薦めてきたのは莉乃がSF小説にはまりだしたころだったから、まだ読んでいなかった。厚い本ではないから、1時間もかからないだろうと踏んで、莉乃はほかにも数冊手に取った。読みかけの「夜のピクニック」と「カラフル」だ。内容がうろ覚えだから、初めから読むことになるだろう。時間はかかるけれど、今は考え事をしたくなかった。魔法使いの提案に決断を下すのを先延ばしにしているだけだとわかっていたけれど、いっぱいいっぱいだったのだ。
(感動する、ねぇ……?)
1時間後、莉乃の頬には涙が伝っていた。
「莉乃……?どうかした?ごめんお母さん気づかなくて」
「ううん、違うの」
莉乃は答えた。
「本を読んでたの」
作業が終わったのか、母はグイッと背伸びをして机から立ち上がり、いそいそと棚をあさっていた。本を読んだ余韻に浸りながら、クッションをぎゅっと抱きしめて、莉乃はその様子を見ていた。
「何してるの……?」
便箋を取り出し、母は満足そうに笑っていた。手紙でも書くのだろうか、と莉乃は思った。ラインで会話することがほとんどで、わざわざ時間のかかる手紙なんてそう書かない。莉乃の記憶では、小学校の時に書いたのが最後だ。
白い花があしらわれた紙に、母は真剣にペンを走らせている。ここからは内容が見えない。白い花があしらわれているとわかるのは、ずっと昔、母と父からもらった手紙と同じ紙だからだ。
「手紙を書くことにしたの、お父さんに」
母はそういって顔を上げた。強い、意志のこもった目だった。意味がないなんて口にすることこそ意味がないような、そんな目だった。
『なんの本がいい?』
父は、莉乃が寝る前、そういって図書館から借りてきた絵本を並べた。
『おおきなき、よんで!』
おおきな木という絵本は、莉乃の特別お気に入りの絵本だった。
『おぉ、いい本をえらんだなぁ、パパの膝においで』
『うん!』
『もう、2冊までよ?』
父も母も、読み聞かせがとても上手だった。父と母は、おおきな木と言う絵本を読んで、読んでいる自分たちが泣きながら、莉乃のことを抱き寄せたものだった。莉乃は、なんで二人がなくのかがよくわからなかったけれど、抱き寄せられるのがうれしくて、よくこの本を読んでとせがんだのだった。
小学校も中学年になると、読み聞かせをされている子はほとんどいない。莉乃も次第にされなくなった。ちょっぴり寂しかったけれど、もう大人に近づいているのだから、と莉乃は受け入れた。そのころから、父の仕事は忙しくなったらしい。莉乃にはよくわからなかった。
『お父さん、おすすめの本ある?』
『そうだなぁ……』
それでもまだ、そのころには会話はあったのだ。
「手紙って何を書くの?」
だけど今、会話は全くと言っていいほどにない。だから、母が何を手紙に書くのか気になった。
「いろいろよ」
母はそういって、一枚の紙を差し出した。
「莉乃も書く?」
返事ができなかった。母はそれをもわかっていたのか、そっとその紙を置いたままに、手紙を書き続けた。その横には、一冊の本があった。野菊の墓。莉乃はまだ読んだことがない。ずいぶんと古い本のようだった。その本は少しだけ焼けている。
「それは?」
「お父さんに、見せようと思って」
久しぶりに見る、母の何の気負いもない顔に莉乃はたじろいだ。思い出深い本なのだろうと思った。莉乃は、おおきな木、の本を取りに本棚へ向かった。
『悪魔を防ぐためにも、魔女になるためにも、いちばん大切なのは、意志の力。自分で決める力、自分で決めたことをやり遂げる力です』
自分でもなぜだかわからないくらいに、必死に莉乃は本棚を漁った。
(西の魔女が死んだ、を読んだせいだ)
母の目。あれは、何かを見限ろうとする前の目のような気がしてならなかった。吹奏楽部で、あの日、莉乃が向けられた目にどこか似ていた。
(お母さんは、お父さんを、試すのかな)
莉乃は「おおきな木」を探すために本を脇に積み重ねながら思う。
(お父さんもお母さんも、私がひどいことばかりするから、嫌いになったかな)
甘えすぎている自覚はあるのだ。本当に。失うのかもしれないと思うと、途端に怖かった。
「あった…………」
おおきな木。大事な、大事な、宝物。何か一冊、本を父に渡すなら、「おおきな木」を渡したいと思った。
ページを開く。途中から、莉乃はなぜか文字が読めなくなった。あのときどうして父と母が泣いていたのか、ようやく、莉乃はわかったのだ。
「お母さん」
莉乃は「おおきな木」をわきに抱えて、母が置いた紙を手に取った。
「私、手紙書くよ」
母は目を見開いた。だけど、何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。ただ、深く深く頷いて、「おおきな木」を受け取った。
「だからこの本も、お父さんに渡して」




