色づく世界の中心で
闇の領域の中枢、虚無。
それが巨大な人面の陰影を形作り、襲いかかってきた。口を開け、俺を飲み込もうと迫ってくる。
『タスケテ……クルシイ……ニクイ』
頭の中に響いてくる声は、まるで憎悪と慟哭が渾然一体となった呪詛のようだった。
「く……!」
俺は怯まず引き金を引く。
パン! と乾いた銃声が響いた。
ニューナンブ・カスタムから放たれた特殊魔弾は、目の前に迫っていた灰色の顔を正確に射抜いた。
外す距離ではない。
狙い通り、額の部分に穴がぽっかりと開いた。
『……アァ……』
「……あぁ?」
だが、それだけだった。
顔の動きは止まったが、灰色の霧はダメージなど皆無とでも言いたげに、傷口はすぐにかき消えた。
「おい……マジか」
思わず手にした銃に視線を向ける。
中に装填されているのは、最後までとっておいた切り札。アイザック・オールドトーン・ギュギュリオス卿から託された、特殊魔弾で間違いない。
この弾丸を叩き込むために、大勢の犠牲を払いながらここにたどり着いたはずだった。
――効かない……だと?
絶望が再び忍び寄る。死神に首根っこを掴まれた気がした。ミケのおかげで動き出した心臓が、ぎゅうっと締め付けられる。
『……クライ、イタイ、サミシイ……クルシイ』
冷たい感情と、絶望的な苦しみ、嘆き。
闇の中枢に巣食う『虚無』は、人のネガティブな感情を全て煮詰めたような波動を、より強く撒き散らしはじめた。
焼け火箸を四方八方から刺されたような激痛が全身を貫く。
「うがあっ……ぐッうっ!」
まるで憎悪と絶望の濃縮液だ。強い酸のように浴びただけで全身に苦痛が襲いかかり、このままでは命を失いかねない。
ガクンと足の力が抜け、俺は片膝をつく。
波動は毒性の液体のように周囲をジワジワと侵しはじめた。靴のつま先が虚無の液体に触れ、ジュッと煙をあげて消滅する。
「くそ……!」
気力を振り絞って立ち上がり、なんとか後ずさる。
すぐ後にはキャミリアやミケ、魔女が横たわったままだ。ここで退くわけにもいかないし、逃げる道もない。
俺をここに送り届けるために、散っていった仲間たち、王都警察のみんなの顔が浮かぶ。
なんとしても、生きる道を切り開くしかない。
「ちっくしょう……!」
奥歯を噛み締めながら、苦痛に耐え再び銃を構える。
震える腕で狙いを定める。
残弾は4発。
既に一発放ったが、まるで効果はなかった。
切り札ではなかったのか? 恨み節も言いたくなるが、この特殊魔弾は、もしかすると放つだけでは効果が得られないのかもしれない。
だとしたら一体何だ? 何かを忘れていないか……?
――君の決意、つまり思念波を弾丸にリンクして再構築した。
ギュギュリオス卿の言葉が脳裏をよぎった。
思わずハッとする。
あの男は「効果を発揮するには、頭脳と想像力が必要」と言っていた事を思い出す。
「相手を理解しようとする心、揺るがぬ決意、そして強い信念」
それこそがヨドミーに対する最大の武器になる、とも。
――相手を理解する心……?
『ニクイ、サムイ、イヤダ……ツライ……クルシイ』
相手の声に耳を傾けると、虚無は激しい憎しみと同時に苦痛を訴えていた。
すべてを飲み込む絶望の感情に混じり、辛い……苦しいと言っている。
「……もしかして、お前」
相手を理解することは警察官には必要なことだ。
今まで闇の領域に挑んだ者たち――王国の軍隊は、敵を殲滅する意思を持った者たちだ。
彼らは相手を理解などする必要はない。力で圧倒し殲滅すればいいのだから。
しかし、どんなに強力な攻撃でも、闇の中枢に巣食う「虚無」を倒せなかった。
何故か。
それは「同じ」だからだ。
憎しみ、悲しみ、苦しみ。
暴力行為そのものが、心の闇や憎しみを、より深く、暗い憎悪へと変えるからだ。
強い力をぶつければ、暗く冷たい憎悪が増幅する。だから結果的に『暗黒侵食領域』を膨らませてしまったのではないか?
ならば、俺が送り込まれた理由は何だ?
別の世界から来て、世界に対する理解と、元々の住人たちとは違う広い見識を持っている。
単に相手を力でねじ伏せるなら、俺でなくても良いのだ。
ギュギュリオス卿なり、強力な魔法使いたちが戦えばいい。
だがことごとくが失敗した。
『暗黒侵食領域』を広げるだけの結果を残して。
特殊魔弾の残弾は4発、どのみち後はない。
ならば俺は、俺のやりかたでいく。
警官なのだから、説得するのだ。馬鹿げているかもしれないが。
「お前……苦しいのか?」
『……ツライ……ニクイ……イタイ』
「助けて欲しいんだろう? 違うか?」
『……イタイ……サムイ……イヤダ』
灰色の陰影のような顔が歪む。
「助けて欲しいんだろ!?」
『……アァ……ウゥ……サムイ……クライ』
「だとしたら、憎い人間や世界を食っても、お前は救われないぞ」
『……イヤダ……イヤ……ダァア』
あぁ、そうか。
ようやく理解した。
虚無は「何者にもなれなかった者たち」の魂の欠片。
苦しみと憎しみと、やり場のない怒りの集合体。
泣いているのだ。
世界を破滅させる憎悪で練り上げた爆弾を抱えたまま、闇の底に立て籠もった子供みたいに。
そう思うと力が肩の力が抜けた。
虚無を倒さねばならない、という思考そのものを止める。
代わりに諭すように、静かに語りかける。
「なぁ、世界を見てみたくないか?」
呪詛のような憎しみの波動が和らいだ。
強い力にはより強い反発で、憎しみを返していたのではないか?
『…………セ……カイ』
虚無の中の陰影が、はじめて言葉を反芻した。
「そうだ。本来、お前達が行くはずだった世界だよ! わかるか?」
『……セカイ……』
「すごく広くて、綺麗で、明るくて……いろんなものがある! 何もなくて冷たい、こんな所とは違う、光の溢れる良いところだ」
『……ヒカリ……』
俺は銃口を上に向けた。
青い空のイメージを思い浮かべる。すると弾丸に、想像したイメージが吸い込まれるようにリンクしていくのが伝わってきた。
静かに、引き金を引く。
タァン……!
まるで運動会のスタートの合図のように、乾いた銃声が響いた。
白い霧を切り裂き、青い空が広がった。
――あぁ、こういう事か。
俺は空を見上げ、つぶやいていた。
特殊魔弾は、記憶とイメージを実体化させる魔法なのだ。
『…………ソ……ラ……』
青い空の下で、灰色だった虚無の影が凝縮し、人の形を成し始めた。
無数の魂の成れの果て。断片が集まり影になっていたのか。
灰色の陰影は、頭をかかえるような仕草で、苦しそうに身を捩る。やがて細く小さな、人間のような姿のより明確な影となる。
「どうだ? 思い出したか? 他にもあるぜ。世界は沢山の色にあふれている。森と海と空と、それに、いろんな建物や、街や人だ」
記憶の引き出しからありったけの記憶を弾丸にリンクさせる。
霧を薙ぎ払うように、真横に向けて放つ。
パァンと弾ける音とともに、鮮やかな世界が描かれてゆく。広大な森、向こうには横たわる山脈と、果てしなく広がる海洋だ。
あちこちに人間の暮らす村や街が見える。
『……コレが……せかい……?』
「あぁそうだ! これが世界だ。綺麗だろう? 本当は、ここに行きたかったはずだ」
幾つもの魂の破片が無数に集まってくる。
無残な成り損ねの欠片が集まり、細胞のように練り固まりながら実体を得てゆく。
影の色合いはそのままだが、細部がより人間らしく変わってゆく。
『……いき……たい……』
「あぁ、行けるさ。そのためには自分を変えるんだ。世界は変わらないが、自分なら変えられるはずだ」
真下の地面に向けて弾丸を放った。
波紋が広がるように、街の風景が再現されてゆく。石畳に、広場と噴水。食べ物や雑貨を売る屋台。そして赤い屋根瓦を載せた白い漆喰の建物。王都の街並みが舞台背景のように広がってゆく。
白い鳥が舞い、大勢の人々が行き交う。
『……いき……たい、生きたい……』
少女のような背丈に変わった黒い影は、静かに囁いた。
まるで祈るように、心から「生きたい」と。
弾丸は残り一発。
静かに狙いをつける。
「生きよう。俺が助けてやる」
世界で生きる姿をイメージする。
咄嗟に思い浮かぶのは交番勤務の日常だった。
そこにはミケとキャミリアがいて、沢山の近所の人たちがいる。ありふれた光景だ。
『……生きたい……』
「出来るさ」
色づく世界の中心で、黒い影を撃ち抜いた。
次の瞬間。
黒い影がまるでガラス細工のように砕けた。
音のない破砕と同時に、内側からまばゆい光が溢れ出した。
光は広がり、周囲の空間を吹き飛ばした。そして闇を内側から照らし、世界を鮮やかな色彩で満たしてゆく。
『ありが……とう』
◇
<つづく>
次回、決着




