すてきなぬいぐるみ
冷たい。寒い。
――ああ、これが雨とかいうやつか。
ずっとあの家の中にいたから、実際に打たれるのは初めてだ。いや……家の外いに出ること自体、初めてだ。
わたしがあのお祖父さんに作られ、熊のぬいぐるみとして生まれた時から、わたしはずっと希望に包まれていた。ずっと、この女の子と一緒にいられると。ずっと、一緒に遊んでもらえると。
この楽しい日々は、永遠に続くのだと。
しばらくすると彼女は成長して、わたしと遊んでくれなくなってしまった。
真っ暗な、滅多に開かない物置に閉じ込められても、わたしはまだ、彼女はまた遊んでくれるようになるだろう、と期待していた。
しかし、その期待はいとも容易く裏切られた。
その結果が、これだ。
久しぶりに物置の扉が開かれたと思ったら、まるで汚いものでも触るかのようにつまみあげられ、近くのごみ置き場に放り投げられた。
そうしたのはまぎれもなく、大きくなったあの子だった。
しばらくショックで、思考が停止していた。
やがて、ぽつぽつと雨が降り始めて我に返り、そして気が付いた。
自分の体に、黴が生えて黒ずんで、まさに『汚いもの』だったということに。
子供はいつかは成長し、小さかった頃大好きだったものを嫌いになることがあるということに。
そして、わたしの期待は、裏切られる運命であったということに。
まあ、別にいいや。
頭に詰まった綿の一部が思念を知らせる。
だよね。わたしはおもちゃ。いつかは愛し愛された人によって捨てられる。それが運命。
しかし他の一部が待ったをかける。
でも、人間ってどうしてこんなに自分勝手なの? わたしを勝手に創って、勝手に売って。その後の主人は愛してくれたけれど、結局勝手に捨てられる。わたしにも意思はあるのに。悪いことは何一つしていないのに。
どちらも正論で、涙は出ないが泣きたくなる。
分かってるよ。どちらの事も。分かってるよ。
けれど今更考えて何になるの? 夜が明ければごみ収集の車が来て、ごみ処理場へと連れていくだろう。そしてわたしは、消滅する。
だったら哀しいことじゃなく、楽しかった思い出の事を考えようじゃないか。人間も死ぬ直前には走馬灯が走るとかなんとか言うし、ぬいぐるみのわたしがやってもいいだろう。
と、その時――。
真っ黒な人影が、ごみ置き場に立った。
『そこのぬいぐるみ。随分哀しそうじゃないか。どうしたんだい』
黒いキャップ、黒いジーンズ、黒いパーカー、黒い靴と、黒ずくめの男がわたしの前にしゃがみ込んだ。
おかしな人間だ。自分の持っているぬいぐるみならまだしも、捨てられたぬいぐるみに話しかけるなど。
『いや、俺は人間を超越した。だからどちらかと言うと神だ』
ますます怪しい。神を自称するなんて、阿呆のすることじゃないか。生まれて二十年も経っていないわたしですら分かるのに。
『全く、さっきから言わせておけば、神に向かって失礼な』
『ぬいぐるみと話せる生物はいくらでもいるじゃない。それに神は古いモノと自然にしか宿らない。人間が神になるなどもっての他。何かを騙したいのなら他を当たって頂戴。どうせわたしの先は短いし、思い出に浸らせてよ』
『今、先が短いと言ったが……俺なら長らえさせることができるぞ』
胡散臭すぎるし信用できない。
『どこかに行って。既にわたしに価値はない。価値のないわたしが生きていても、何にもならない』
だが待ってました、とばかりに男はにやりと笑う。
『それは違うさ。――君、復讐したくはないかい』
『何に』
『自分を捨てた、元持ち主に』
どくり、と心が波打つ。心臓はないはずなのに。綿しか詰まっていないはずなのに。
何故なら、その言葉には甘い響きがあったから。けれど同時に、嫌悪感も感じさせた。
その二面性がどうにも不気味で、どうにも魅力的で。
また頭部の一部と一部が主張をし合う。
復讐しようよ。わたしが傷ついたことに気がついて欲しいもの。
復讐はしたくない。今はどうであれ、あの子の事は今も大好きだもの。
『葛藤しているようだね。だが時間がない。さあ、早く決めるんだ。因みに俺は、復讐を勧めるよ。人間は同じ過ちを繰り返す業の深い生き物だから、君の他にも傷つくぬいぐるみが出てくるはずだしな』
『でも、あの子は少なからず、小さい頃はわたしの事を大好きだった』
『昔は、だろう。今となってはその思いは無くなっているはずさ』
『でも……』
『それに、もうきみの「良心」の居場所はないよ――ほら』
男がわたしに手をかざした。
その指に挟まれていた小さな鋏が、わたしの右目のビーズのすぐ横に突き刺さった。痛くはないが、何故こんなことをするのかが不思議でならない。
『何するの』
『何って、手術さ』
『わたしに悪い所なんかない。あるとしたらこの汚い外見だけよ』
『どうかな……』
男は鼻で笑う。そしてわたしに突き刺した鋏で、ちいさな穴を開ける。そこからいくらか、綿を取り除かれた。
『返してよ。わたしの一部を』
『必要になったらな』
どうにか自力で動けないかと手足に力を込めてみるが、動かない。そうしているうちに男は、わたしに開けた穴を針と糸でちくちくと縫い閉じて、聞く。
『ところで、復讐するかどうかは決まったのかい』
わたしは即答した。
『当り前じゃないの。あんな子、好きでいる価値もない』
さっきまでの躊躇いが消えた。今取られた綿がわたしの良心なのだろう。
だったら、別にいらないや。復讐には、邪魔なだけ。
男はまたにやりと笑う。
『じゃあ、決まりだな。お前を動けるようにしてやるから、復讐しに行って来い。やり方は任せる。必要な物があれば言ってくれ』
『人間を汚くするもの、何かある?』
『そうだな……金、権力、いくらでもあるが』
『その中であの子が一番傷つくのは、何?』
『決まってる』
男の顔は暗く輝く。
『――――人間の男さ。それも、信じていた奴に裏切られることが一番効くだろうな』
『あなたがやって。適任だわ』
『構わん。生娘の肉は美味い。シチューにするか、ステーキにするか、生で喰べるか……』
『そっちの意味で?』
『なんだ、別の意味で「喰べて」欲しいならそう言え。まあその後に普通に喰べるが』
『どっちでもいいわ』
『決まりだな』
復讐劇の幕開けだ、と男が冗談めかしした。
***
大学生になっていたあの子には恋人がいたようなので、男――メイルと呼ぶように言われたのでこれからはそう呼ぶ――は、あの子の友人として近付くことにした。警戒心を解くために、まずあの子の友達と付き合い、それからあの子に会う。
そして、チャンスは来た。
あの子が恋人と喧嘩し、自棄になってメイルが借りていることになっているアパートの空き部屋に来たのだ。最近引っ越した、ということにしているので家具がなくても布団さえあれば怪しまれない。
部屋の隅から見るに、成り行きは今のところ計画通り。わたしは静かに興奮していた。
やっと、あの子に復讐できる。
やがてあの子は正気に戻り、恋人の元へ行こうとした。
「ごめんなさい。でもやっぱり、あの人じゃないと駄目なのよ、わたしは」
「そうかい。それなら――」
一瞬顔を綻ばせるあの子。このまま恋人の元に行かせてもらえると思ったのだろう。しかしメイルの次の言葉に絶句した。
「俺の言うことを聞け」
メイルはあの子を押し戻し、一度着た服をもう一度脱がしにかかる。あの子は悲鳴を上げようとするが、メイルに塞がれる。
「おとなしくしろ。これは復讐だ」
もごもごと、あの子はメイルの手の下で口を動かす。
「ああ、お前が誰に何をしたのか、って? 誰に、というか……何に、かな。まあ彼女にも意思があるし、誰に、と言っても良いかもしれないがね」
訳が分からない、といった顔をするあの子。
「つまり、お前がむかぁし、大事にしていたぬいぐるみさ。あんなに大好きだったはずなのにあっさりと捨てられた、あの熊のぬいぐるみ。ほら、そこの隅っこにいるだろ。……まあそんなことなどどうでもいい。俺はお前を『喰べる』だけだ」
邪悪に目を見開き、舌舐めずりするメイル。
あの子がわたしを見つけたので、わたしは立ち上がって少し近づく。あの子は怯えた顔だ。――ああ、なんて楽しいんだろう!
そしてあの子は、汚れて絶望した。ついて行けない事態に対する混乱より、絶望の方が大きいようで、わたしがその辺りを歩き回っても何も反応しない。
だがメイルはこれで済ませない。
「さぁ、食事の時間だ。久々の人間の生娘の肉だし、やっぱり生で喰おう!」
感情を高ぶらせたメイルは下半身を露出させたまま、あの子の右腕にガブリと噛みつき、肉をちぎり、むしゃむしゃといかにも美味しそうに咀嚼した。返り血を拭うこともなく、ただただあの子を食べる。
あの子は悲鳴を上げることもままならず、痛みに身を悶えさせ、涙とその他にも色々な液体を垂れ流している。
わたしは邪魔をしないように、最初座っていた場所に戻った。
右腕の肉を食べ終わったメイルは、その骨をあの子の胴体から外し、左腕も同じように食べにかかった。
次は右足、左足。
あの子はもう、弱々しく緩慢に身をよじることくらいでしか抵抗できない。
そろそろ止めが刺されるだろう、とわたしが思っていたら、メイルはあの子の耳に齧り付いた。
こりこりと、軟骨を噛む音が聞こえてくる。
両耳の後は鼻。次は唇と舌。その次は頬肉や骨にこびり付く肉を、歯でがりがりと削って食べた。
目玉は抉りだして、その辺に放った。
「目ン玉は不味いからな」
メイルはこちらをむいて苦笑した。しかしすぐに元の爛々とした目つきで、獲物を見据える。
「さて、そろそろ内臓を食べるとしようかな」
わざわざそう呟いて、メイルは懐から長い包丁を取り出した。
「この肉包丁、よく切れるんだよ」
とその刃をあの子の乳房と乳房の間に振り下ろす。びしゃり、と血が噴き出してメイルの腕に跳ぶ。その皮を剥ぐと、あばら骨が見えた。それを躊躇わずにボキボキと折る。
「胃と腸は洗わないと不味いから残しておこう。他に美味そうな所は……肝臓があるな」
そう言って切り開かれた腹の奥から臓物を引きずり出し、そのまま齧る。
他の臓物も、次々とその部位の名を口にしながら喰らう。
ここまでされれば、あの子ももう生きていまい。
そう思ったがときどき、ひゅうひゅうと息の音がする。意外と人間は死なないものだ。
だがこの拷問も、もうそろそろ終わる。
残った臓物は、心臓と肺だけ。
「じゃあ、最後に心臓を頂くとしようか」
そう言ってメイルは、赤い赤い心臓をもぎ取り、口付けするように齧った。
***
あの子の骨と血液とすこしの肉片と、『不味いから』と残された目玉と胃腸と脳味噌の所に、わたしはぽてぽてと歩み寄る。このぬいぐるみの体はやはり不便だが、これでも慣れた方だ。
汚れと黴に黒ずんだポリエステル製の茶色い毛が、あの子の血液を吸い上げてますます汚い色に染まった。それにすらわたしは歓喜する。
わたしはメイルを見上げた。
「ありがとう。これでわたしの復讐は終わった。とても清々しい気分。本当にありがとう」
メイルは微笑む。良心があった頃のわたしが見れば、恐れをなして逃げ出していたろうが、今のわたしは違う。この男と同じような笑みを、わたしは返せるようになったのだから。
「よし、じゃあこれで共犯関係は終わりだ」
メイルはそう言い、しゃがみ込んでくる。
そしてわたしの右目のビーズの横の穴を塞ぐ糸を鋏で切り、綿を詰め込んできた。
「な、何したの!?」
「何って、良心をお返ししたのさ。それと動けない体に、正常な判断力も」
メイルは動けなくなったわたしの右目のビーズの横の穴を、針と糸でちくちくと塞ぐ。そして糸が結ばれた途端。
どっと、後悔が押し寄せてきた。
何したの、だなんて聞く必要すらない程、正常な思考能力をわたしは取り戻してしまったのだ。
ああ、ああ、わたしは何て事を……。
『初めからそのつもりだったのね』
『ああ、そうさ。命のない魂をも絶望させること、これが神の主権さ。そしてそれを楽しむのが、俺の趣味』
『神なんか存在しないわ。こんな低俗なことが出来るのは、人間だけよ。……それと、わたしのようなぬいぐるみだけ』
『それを神と言うのさ』
自分に酔ったように、わたしを見下すメイル。――いっそのこと、哀れだ。怒りと言う感情を向けるにも事足りない、ちっぽけな存在。
『神の威力を目の当たりにしておきながら、俺を否定するか。まあいい。どうせお前の魂は地獄に堕ちる。そのぬいぐるみという容器が滅びる前に、魂が分離するだろう。すでに死んだも同然だからな』
哄笑するメイル。
しかしわたしはもう気に掛けない。
――もし、もしも、地獄や天国や、神が存在するというのなら、こんな男を気にかける暇などない。あの子の……わたしの持ち主の魂が、救われることを祈らなければ。
それが、ぬいぐるみであるわたしに出来る、精一杯の償いだから。
……ごめんなさい。あなたをころしてしまって。ごめんなさい。あなたをさかうらみして。ごめんなさい。どうか、やすらかにねむってください。
ごめんなさい。
***
『臨時ニュースです。都内を騒がす連続殺人事件がまたも起きてしまいました。今回の遺留品は熊のぬいぐるみでした』
『前回はボール、前々回は古いゲーム機、その前は女の子の人形、でしたよね』
『ええ。被害者が生前、それも子供のころ使用していたものと似たものが残されている可能性が高いとのことです。今回と前回の被害者の身元は不明ですが、最初の二回でそう予測されたそうです』
『犯人にはどういう意図があるのでしょうか』
『さあ、分かりたくもないですね。殺人鬼の考えることなど』
鬘を被ったコメンテーターの言い草に満足し、俺はテレビを消した。
俺は殺人鬼ではなく神だが、人間に俺の事を理解するなどとうてい出来ないだろう。それを分かっているとは案外優秀なのかもしれない。
さァて、次の獲物はどうしようかな。
次の計画を、俺はスマホにメモし始めた。