山田翔太の場合
「松下さんって可愛いよね」
その一言を聞いた時、俺はエプロン姿が驚くほど似合っている友人の正気を疑った。この言い方をすると俺が松下さんのことをけなしているように思われるかも知れないが、至ってそのつもりはない。俺が正気を疑った理由はそうではない。確かに松下さんは派手ではないが、整った顔立ちをしているし、清らかな雰囲気がある。十分に可愛いと形容できるだろう。しかしこの友人が異性に対し「可愛い」と言う、むしろ「可愛い」と思う日が来るとは思わなかったのだ。
「橋本、お前バイトのし過ぎでどうかしたのか? そんなこと言うキャラじゃなかっただろ」
そう言われた友人の表情は憮然としていて、仕方のない奴だとでも言いたげだった。
「別に、これまで可愛いと思う相手がいなかっただけだよ。松下さんは特別」
さらりとした答えは、聞いている側が照れるほどだった。松下さんのことを素直に可愛いと言ってのける橋本の姿は、俺でも格好良いと思ってしまうくらいだ。そこまで言うくらい好きなら、松下さんと橋本がうまくいけば良いなと思った。俺も好きな相手に、橋本くらい素直な態度がとれればうまくいくのだろうか。
俺の好きな相手は可愛い。惚れた欲目ではなく、文句なしに美少女なのだ。学部で一番と噂されているが、俺にしてみれば学年で一番可愛いと思う。しかし幼馴染と言う立場上、今更素直な思いを告げるのも恥ずかしかった。小学校の頃からの付き合いだ。もし俺が「お前って可愛いよな」と告げたとして、突然そんなことを言われれば相手は確実に戸惑うだろう。
だからそんな彼女が、読んでいる本の次巻を返却している姿を見た時、心底驚いた。彼女は図書館の匂いが嫌いという、至極単純な理由で滅多にここへは足を運ばない。まして古典に興味など持っていなかったはずだ。俺の中に疑問が浮かんだが、その後本棚に戻された本を開いて、その理由が分かった。本の間に、ルーズリーフが一枚挟まれていたからだ。手紙の最後には「K・M」と書かれている。彼女と同じイニシャルだった。文章を考えるのは苦手だったが、好きな相手との文通は、何より魅力的に感じた。
手紙のやり取りをする中で感じたのは、俺が彼女のことを何も分かっていなかったということだった。好きな食べ物、好きな音楽、好きな授業。ちょっとした話をしていても、自分のイメージと随分違っていた。何より、絵を描くのがうまいとは知らなかった。俺が絵を描いたからか、彼女からの返事の手紙にも犬の絵が描かれていた。ちょこんと座っている柴犬の絵は、少しデフォルメ化されていて随分と可愛いものだった。
文通を繰り返すうちに、抑えきれなくなり自分の思いを少しだけ吐露した。
しかしその後、彼女の態度に変化が訪れることはなく、焦る気持ちが浮かんだ。やはり彼女にとって自分は幼馴染でしかなかったのだろうか。
「・・・京、この前フランス語で分からない文法あるって言ってたよな」
「言ったけど、もしかして翔太君が教えてくれるの? ちょっと待って、教科書出すから」
そう言って彼女が鞄をあさりだしたので、俺もテキストを机の上に出す。この時の俺は、これまで交換していた手紙が破れないようテキストの間に挟んでおいたのを忘れていた。
「翔太君、・・・このルーズリーフ」
彼女の声は明らかに動揺していた。
「ああ・・・最近ちょっと手紙のやりとりしてて」
「翔太君文章考えるの嫌いだったでしょ」
「確かにそうだけど・・・これは別なんだ」
優しくルーズリーフを撫でる。この手紙の中でなら、俺は彼女に対して素直になれた。何せ俺は手紙の相手を知らないということになってるし。好きなことも嫌いなことも、彼女に対する思いさえも吐き出すことができた。言葉では伝えられないことを彼女に伝えることができたのだ。
「その手紙の相手が・・・特別なの?」
「そうだね・・・特別、かな」
少しでも自分本気が伝われば良いと思い、俺はそう答えた。
しかしその後、どれだけ待っても手紙の返事が本に挟まれていることはなかった。