開戦
俺は27年間の人生をなんて無駄に過ごしてきたのだろう。世の中にはこんなにおいしい食べ物があったなんて知らなかった。
名古屋に着いて、謙信がひつまぶしの店に連れて来てくれた。お店は賑わっていて、皆食べることに夢中で、俺のことなど誰も気にしていない。
彼女という存在がいるだけでもありがたいことなのに、浮気をする男の気持ちがわからなかったが、今なら理解できる。好きな物はこうもあっけなく変わってしまうものなのか。少し寂しくなって、その分だけ気持ちが楽になった。
岐阜の奥にある村と違って、名古屋の街は7月上旬だというのに、セミの鳴き声が不足しているように思えるほどの暑さだった。女性達の露出は刺激的で、なんとしても去勢だけは避けなければいけないと決意した。
「一度、このお店来てみたかったのよ。ごちそうさま」
大盛りを完食した謙信がそう言う。
「えっ、謙信のおごりじゃないの?」
「はあ? 何を言っているの。光成ちゃんは、『信長の遺産』の相続者でしょ。これくらいケチケチしないで払ってよね」
「……」
俺は財布を確認してみるが、やはり小銭しか入っていない。
「……もしかして、持っていないの?」
謙信が初めて不安そうな顔を見せた。
「あのね、私は警官を撃つことには何の罪の意識も感じないけど、食い逃げは嫌だからね。どうすんのよ、まったく」
俺も慌てて完食すると、忙しく店内を駆けまわっている店員さんに、
「すみません、つけでお願いします」
と言った。
店員さんの動きは止まり、お客さんたちの箸もピタッと止まり、視線が俺に集まる。謙信はそそくさと店の外に出て行った。
10秒ほど間があって、全員がスマホを取り出した。店員さんもお客さんも全員だ。我先に電話やメールをし始めた。有力な情報を提供するだけで5千万円も貰えるのだから無理もない。先ほどまで仲良く食事した友人を邪魔する奴までいる。
俺が店を出ると、謙信が店の前に車をつけてくれていた。途中で覆面パトカーは乗り捨て、高級ホテルの地下駐車場で盗んだジャガーだった。
「痛ッ」
車に乗り込むと、謙信にビンタをされる。
「つけということにしたなら、必ず払いに来てよね。後味悪いわね、まったく」
「痛ッ」
もう一発ビンタをすると、謙信は車を勢いよく発進させた。そして、制限速度の40kmで走っている自動車練習場の車を容赦なくあおる。罪の意識は人それぞれだ。
風船が飛んで行った。
俺はドアを開けて、そのまま転げ落ちた。顔を打った。肘も膝も、体中打ったが、痛みなんて感じなかった。心以外は……。
俺は歩道に入ると、まだ小学生にもなっていない女の子を殴っていた男を、容赦なく殴った。顔面を何度も殴った。謙信が止めに来なければ、二度と立てないようにしてやれたのに……。仕方ないから、最後にその男の拳を踏みつけて、骨を砕いてその場を去ることにした。正義感は人それぞれだ。
女の子はずっと泣いていた。俺はそれに気付いていた……。
「エッ、エエーーッ」
鏡に映る男は、一つも間違えることなく俺と同じ動きをする。
「何よ、朝から騒がしいわね」
シーツをまとった謙信が洗面室に姿を現す。最高にセクシーだ。裸なのだろうか? いや、待て、今はそれどころではない。
あらためて鏡を見て確認する。俺はものすごいイケメンになっていた。
車から飛び降りてケガをした俺は、謙信の知り合いのこの病院に連れて来られて、駐車をされ……。
「ずいぶんとイケメンになったじゃない。感謝されても、恨まれる覚えはないわよ」
確かにもとの顔に未練はない。
「それにしても、この騒がしさは何?」
上空をヘリや戦闘機が無数に通過しているようだった。
「そっか、光成ちゃんは5日も寝ていたから、知らないんだったわね。米軍が、日本から出て行くのよ。明日までに、在日米軍がすべて撤退するの」
俺が窓を開けて、空を見上げてみると確かに、米軍のものと思われる軍用機が上空を通過していた。そういった知識も村の学校で習っていた。やっぱり学校で習ったことは役に立つのだな。
もう一度、生まれ変わった自分の顔を見てニタニタすると、
「そうだ。先生はどこに?」
こんなにイケメンにしてくれた恩人にお礼を言うことを思い出した。
謙信が指さす先には、鬼ころしの一升瓶を抱えてソファーで眠っている老人がいた。眠ったふりをしている。軍用機の音で分かりづらいが、いびきの音が不自然なほどリズミカルだった。そそのまま寝かしておくことにした。完全にこちらの味方という根拠はどこにもない。
すると、突然地響きが起こる。
「あら、今日だったんだ……」
謙信は何かを知っているようだった。
凄まじい揺れが起こったので、俺は慌てて眠ったふりをしているドクターを抱きかかえると、謙信の手をとって、病院から外に出る。
「エッ、エエーーッ」
衝撃のあまり、ドクターを道路に落としてしまった。
「こ、こんなこと……」
「いよいよ始まるのよ……」
20mを優に超える壁が、名古屋の街を囲むように地面から姿を現したのだ。