二
目が覚めたのは深夜、一時を少し回った頃だった。
布団から起きて、少しの間呆然としていた私は、洗濯物の事を思い出し、慌てて取りに向かう。コインランドリー内に置かれたカゴの中に洗濯物は入れられていた。次に使った人が出しておいてくれたのだろう。自己解決したはいいものの、顔も知らない誰かに下着まで見られてしまったのは少し、いや、かなり恥ずかしく、寝てしまったことを改めて後悔した。
部屋に戻り、洗濯物を畳んで歯を磨く。部屋の電気を消して、また寝ようと思ったけど、一度寝てしまったせいで、目が冴えてしまったみたいだ。スマホを取り出して、眠気が来るまでニュースサイトを読むことにした。時間が空いた時によく見ている、音楽系の情報をまとめたニュースサイトなんだけれど、何日か見ていないだけで知らない情報が増えており、読んでいく内に外が明るくなりはじめてきたことに気づいた。
(何で無理矢理でも寝なかったんだろう……)
今更になって後悔しても、もう遅い。チェックアウトの時間を寝過ごすわけにはいかない。部屋の電気を点けて、活動する準備をはじめた。顔を洗い、歯を磨いて、着替えを済ませる。七時になると、レストランコーナーが空くらしいので、行ってみようと考えていた。
それまでは、音楽で時間を潰す為、スマホを手に取る。
いつものウォークマンアプリを開こうとした時、画面上部のお知らせが溜まっていたので、消しておこうと指でスクロールした。大半はニュースサイトの、どうでもいいものばかりなのだが、その中に、メールが何通か混じっていることに気がついた。
少し迷ったけど、タップしてそのメールを開く。
『本文:葵? どこにいるの?』
短い文面からはじまり、数十分置きに連続して送られていた。六通目の『これを読んだら返事をください。もし、返事が無かった場合は警察に捜索願を出します』という内容で、メールは途切れている。差出人は……全部母親からだった。
ベッドに座って、そのメールを何度か見返した後、結局、返信はせずにスマホをポケットに仕舞う。時計を見て、部屋を後にした。
エレベーターで一階にあるレストランに向かった。どんな料理があるんだろう? 顔には出さなかったけど、少しワクワクしていた。
エレベーターの扉が開く。
「……」
レストラン前を見た私は、意気消沈して、その前を通過した。
今日は日曜日。それも大型連休の。その事をすっかり失念していた。後ろ髪を引かれる思いで、長い列のできたレストラン前を一瞥した。時間に余裕があるのなら並びたいところだけど、この後もまた移動がある。さすがに、あの行列に並んでいる余裕はない。諦めて、外で何か買って食べること方向に。
外に出て、ホテルから続いている歩道を大通りに沿って歩いていく。少しすると、大手ハンバーガーチェーンのお店を見つけた。時間帯のせいか、そこも人は多かったが、待てないレベルじゃない。
レジに続く列に並んで、自分の番になると一番安いハンバーガーとぶどうジュースのSサイズをテイクアウトした。足早にホテルへ戻り、部屋のイスに座って食べた。……お腹が落ち着いて、少し冷静になった私は、せっかくここまで来たのにハンバーガーを選んでしまったことを軽く後悔する。
スマホを見ると、新幹線の時間まではまだ少しある。チェックアウトを済ませて、駅まで歩いたら、丁度いい時間になるだろう。
昨日洗濯した服をリュックに詰めて、荷物をまとめた。部屋を出る間際、一晩お世話になった部屋を振り返って何故か寂しくなる。幼稚園から小学生になった頃、祖母の家から母親の家へ引っ越した時に味わったような、なんとも言えない感覚だ。部屋の中心、誰もいない空間に向けて、頭を下げた。
エレベーターで一階まで降りる。受付でチェックアウトを済ませてホテルを出た。そのまま、まっすぐ駅まで戻る。ギリギリの時間になる、と思っていたけど、駅に着いてみれば、新幹線よりも幾分早く着いてしまった。
時間つぶしに、駅構内を見て回ろうかと考えたが、夢中になって乗り過ごしてしまっては目も当てられない。それに、使うお金も限られている。いよいよの時は、どこかでアルバイトでも探そうかと考えているけど、さすがに、この段階でアルバイトを探すのは早計だ。
駅に設置されたベンチに座って、スマホを弄る。もう少し、計画を練っておけばよかった。急な行動だったとはいえ、自分の浅い考えを改めた。
特にすることは無く、ブラウザ内のニュースサイトを眺める。何度か見たような記事を見つけて、世の中もあんまり動きがないな、と思った。平和なのは良いことだけど。
画面をスクロールして、記事を読んでいたら、スマホから音が鳴りはじめた。電話がきたみたいだ。画面が切り替わり、発信者を見れば、母親の名前がそこにあった。
画面を眺めて思案する、ここで電話をしてしまえば、きっと家に帰されてしまう。それでは、何の為にここまで来たのか分からない。私は、カレを探す為、自分がどこまで行けるのかを確認する為に、家を出たはずだ。
「……」
未だ鳴り続けるスマホの着信音量を下げて、ポケットに仕舞う。顔を伏せた。
……その直後に呟いた泣き言を、駅の雑踏の中に置いて。
✽
予約を入れていた切符を購入して、改札を抜ける。今日の乗り場もやはり混雑していた。行列の後ろに並んで少し待つと、新幹線が到着する。強い風を巻き上げて、飛びそうになったキャスケットを手で抑えた。扉が開き、乗客共々一斉に乗り込む。今回は最初から席に座るのは諦めて、デッキに向かった。徐々に人が増えてくるデッキの隅で、メモ帳を開く。
この新幹線は“横浜”に向かっている。降りた後は、快速電車に乗り換えるつもりだ。
ここまでの道順に間違いが無いかを確認して、メモ帳を閉じる。ショルダーバッグの中に入れて、キャスケットを目深に被りなおした。
スマホを取り出してみると、着信が二件に増えている。どちらも母親からだった。
警察に、捜索願を出しに行ったのだろうか。だとしたら、今頃大事になっているかもしれない。
大事にするつもりはなかったけど……もう遅い。連絡をしなかったのは私だし、そもそも覚悟はしている。だけど、母親がこんなに早く気づいたのは予想外だった。普段、顔を合わせることも少ないのに。
窓に映る自分の顔を見つめる。
過ぎていく景色を背景に、不安げな表情が映っていた。
この逃走劇の最終地点。そこにたどり着いた後、私はどうするんだろうか。カレを探して、また日本中を回るのか。それをするには、何もかも足りない。普通の……普通以下の人間にはあまりにも頼りない。
じゃあ……家に戻るのか。また、あの操り人形のような生活に戻るのか。
普通の人間の、普通の生活の、社会に応じた最低限度の生活を。
日頃から、社会とは、巨大な宗教みたいなものだと感じていた。
勝者と敗者の絶対的なバランスが支配している。
考えるのを止めて、愚者のように生きれたらどんなに楽か。
言葉が、思考が、お金が、すべてをダメにしている。
ショルダーバッグから、ペットボトルのお茶を出して飲んだ。
外の景色をぼんやりと眺めて、残りの時間は、浅い眠りについてしまった。
✽
さっきまでは晴れていたのに、横浜に着いたら雨が降っていた。駅から出ることを想定して、中央改札近くのコンビニで傘を買う。
今日はまだいくつか乗り換えを残しているけど、時間は残っている。昼食がてらに、散策してみる予定だった。
新幹線と電車に揺られて、凝り固まった体をウンと伸ばすと、背骨が凄い音を鳴らす。ビックリして、今の音が誰かに聞かれていないかと辺りを見渡した。しかし、それぐらいのことで気に留める人がいるはずもなく、足早に横切る人の中で立ち止まっていた私は、何か気恥ずかしくなった。
そういえば、都会の空気は汚い、と聞いたことがある。けど、私には地元との違いが分からなかった。私の感覚がおかしいのか、それとも地元の空気もすでに汚いのか。いずれにせよ、異次元に住んでいるわけではないのだから、どこも一緒だと思うけれど。しかし、日本でも山一つ超えれば、方言があり、喋る言葉も違ってくる。鈍感な私には分からないだけで敏感な人には何かしら感じ取れるのかもしれない。
息を吸って、歩き出す。
天井からぶら下げられた名標には“みなとみらい駅”と大きく書かれていた。
京都から横浜までが二時間弱。そこから、横浜線の快速に乗り換えて“菊名駅”までが数分。みなとみらい駅までが十分前後。
普段、公共の乗り物といえば、バスくらいしか乗らないので、さすがに疲れてしまった。次の乗り換えまで、どこか、ゆっくり休憩できる場所を見つけたい。
駅内を散策しようと案内板を見つけて、目を通す。近くに“クイーンズスクエア横浜”という大きな複合施設があるらしい。スマホで調べてみると、そこに様々な飲食店があるみたいだ。
時計を見て、一先ずはそこを目指す。地元の駅も改装が進んで広くなっているけれど、ここは更に広く、道が複雑な気がする。歩き慣れてないから、そう感じるだけかもしれないけど。
中華街方面の地下四階から、エスカレーターでクイーンズスクエア方面に出る為、地下二階の改札を抜ける。
白を基調にした構内はどこか近未来的で、単調な、お洒落さを演出していた。
都会だ。
当たり前だけど、語彙に乏しい感想だけど、そんな言葉しか出てこなかった。
先程から鳴るお腹の音が、薄っぺらい感動を台無しにしていた。
(……何食べよう)
歩き回っているせいか、いつもよりお腹の減るのが早い気がする。
さくら通りに直結した“クイーンズスクエア”瀟洒な名前の大きな複合施設は、立ち並ぶ“ランドマークタワー”“横浜赤レンガ倉庫”“ワールドポーターズ”“パシフィコ横浜”など、他のショッピング施設や展示場の中に紛れても何ら遜色ない、横浜の代表的な建物だ。
京都では、どこにでもあるハンバーガーを食べてしまったけど、せっかくここまで来たので、何か美味しい物を食べておきたい。
何を食べようか? そう思って、真っ先に頭に浮かんだのがラーメンだったことに、自分の女子力の無さを恨んだ。
彼女が言っていたように、私に足りないのは、そういう部分かも知れない。もっと、女子らしいものを食べよう。パスタとかミルフィーユとか食べよう。
食べるものも決まり、コーヒー店前を歩いて、駅前の三叉路を横断する。スマホでパスタのお店を検索して、クイーンズスクエアの一角である“アット!”の方に向かった。調べてみた限り、ここが一番お洒落そうな飲食店が多かったからだ。
通路を進んで、ガラス張りの建物の中に入る。アット!方面に移動して、二階のパスタ屋さん――良く見たら、スパゲティ専門店と書いていた――に着いた。
店先に置いてあるメニュー表をしばし物色した後、違う店も見てみる。レストラン、喫茶店、階を変えてビュッフェ、創作和食、韓国料理、ベーカリーショップ、焼肉、お蕎麦屋さん。その中でも一番惹かれたのが、お蕎麦屋さんというのに哀しくなる。
いくつかの店を行き来した後、結局、嫌いなものより好きなものを食べた方が後悔しないと考えて、お蕎麦屋さんに入ることに決めた。
高級感の漂う店内に入る。
「一名様でしょうか?」店員さんの言葉に返事をする。二人掛けの席に案内され、リュックサックとショルダーバッグを向かいの椅子に置いた。被っていたキャスケットを外す。頭を左右に振ると、ぺたんこになっていた髪がボサボサになった。
案内してくれた店員さんが、トレーに載せたお冷をテーブルに置く。
「注文決まりましたらお声掛けください」そう言い残して、別の仕事に戻っていった。
メニュー表を取って、どれを注文するかを決める。温かいもの、冷たいもの。月見、山菜、カレー、鴨南。ざる、納豆、せいろ、とろろ。
お腹が空いているせいか、どれも美味しそうに見えて目移りしてしまう。その中でも、入口の食品サンプルを見た時から気になっていたものを注文してみることにした。
“明太とろろ蕎麦”という、ありそうでなかった組み合わせ。この店のオススメとして上がっていた。
手前に居た店員さんを呼び止める。伝票を持って歩いてきた店員さんに、メニュー表に書かれた“明太とろろそば”を指さしながら「コレください」と伝えた。
丁寧な受け答えをしてくれた店員さんは、手早く書き込んだ紙を折りたたんで、伝票入れに差し込む。
「それでは、少々お待ちください」
厨房に戻っていく背中を見送る。運んでくれたお冷に口をつけた。雨天特有の蒸し暑い空気には嬉しい清涼感が、喉を通っていく。
テーブルの上に散らかったメニュー表を片付けて、元の位置に戻した。商品がくるまでは、まだ掛かりそうだったので、ショルダーバッグからスマホを取り出して、起動した。お知らせ欄を確認して、母親からの着信が無いことに、眉を顰める。それが良いことなのか、悪いことなのか。
あれから、連絡が何も無いということは、母親は捜索願を出しに行ったと考えていいだろう。誘拐か家出か。どちらの可能性も考慮して、今頃、部屋を徹底的に調べられているかもしれない。データは残さないように細心の注意を払ったつもりだけど、万が一消し忘れがあった場合、これからの行動は全て読まれてしまう。いっその事、道順を変えてしまうことも考えたが、金銭面的にそれは少し厳しい。そうなるともう、捜査の手が伸びてこないよう祈るしかない。
「お待たせしました。『明太とろろそば』になります」
お盆に載せて持ってきてくれた先ほどの店員さんが、私の前に丼を置く。反射的に、相手に届いたのか分からないぐらいの声量でお礼を言った。頭を下げて、また厨房に戻っていく。
考え事をしていた私は、一旦止めて、食事に集中することにした。お腹が減っていては、良い案も出てこない。それに、本当に捜索願を出されていては、私にはもうどうしようもできないことだ。せめて、気づかれないことを願うしかない。
箸を取って、丼の中を覗く。更科蕎麦特有の白っぽい麺が艶やかに濡れて、その上から桃色のとろろが乗せられていた。刻み海苔とカイワレ大根が周りに散りばめられてあり、中心にワサビが可愛らしくチョコンと乗っている。見た目的にも鮮やかな盛りつけになっていた。一緒に付いてきたツユをその上からかけて、箸で蕎麦を手繰る。つるつるとした麺を咀嚼した。
……正直、蕎麦粉の風味は少し弱い気がするけど、麺が柔らかくもコシがあって、何よりノド越しが良い。そこにとろろも合わさっているから尚更だ。また海苔、明太子の風味と微かなワサビの辛味も良いアクセントになっている。
お腹が空いていたことも手伝って、箸が進む。最後の一掴みを啜り、手を合わせて頭を下げた。
地元のラーメン屋さんには良く通っていたけど、たまには蕎麦も良いかもしれない。
……隣を見る。そのラーメン屋さんでは、カレの視界も良く見えていた。注文したラーメンを待ち遠しそうに眺める、その記憶が懐かしい。
家を出た日から、カレの視界は見ていない。たまたまそういう日が続いているだけなのか、もうカレの視界を見ることが出来なくなったのか。母親の言葉が、頭に浮かぶ。
前者であってほしい。勿論これはただの願望だ。カレが本当にいなくなったのなら、私がこうしている意味がないのだから……。
残ったお冷を一気に飲み干して席を立つ。机の上に乗った伝票を持って、お会計を済ませた。依然、不安は晴れないけど、お腹が満たされたことで、少し幸福な気持ちになっていたから、我ながら単純だ。
店を出る。手に持ったキャスケットを再び被った。
(会いたいな……)
自分の中で、想いが強くなっていくのがわかる。これは、少なからず視覚を共有することによって、その影響を受けているのか。または、自己の延長線上として認識した上での、自己愛の一種なのか。はたまた、“同類相憐れむ”式の共依存であるのか。
恋であっても愛であっても、どちらでなくても、カレに惹かれていることには違いなく、多分報われることはない。じゃあ、それで、だから、私は……。
足を止めた。
視界の隅に、いつか見たカレの背中が見えた気がしたから。
振り返る。辺りを見回して、その背中を追いかけた。追いついて、どうするのか? 考えている余裕はない。
混雑するモール内。談笑しながら歩いていく人、ショップを物色しながら歩いていく人の中で、一人追いかけるように走る私の姿は、不審に見えただろう。
久しぶりに走ったから、すぐに息が切れる。重い荷物が更に、体に負荷をかけた。頬に汗が流れて、表情が歪む。ただ、反射的にカレの背中だけを追って。
肩がぶつかる。怪訝に私を見るその人に謝って、見失わないように、すぐ視線を戻した。エスカレーターを降りる、カレの横顔が見える。
呼吸を整える為に胸を抑えて、その姿を見た私は、顔を伏せた。
知らない女性と、どこか、楽しげに話しているその姿は、私の知っている“カレ”ではない。
(そうだ、カレは……)
ゆっくりと、呼吸が落ち着いていく。
そのまま、元の道に引き返した。
✽
みなとみらい線から横浜駅に移動して、東海道本線に乗車する。片道で約二十分。何とか今日中に東京に着く事が出来た。すぐさま、中央線で高尾行の列車に乗り換える。
今日の最終目的地は、八王子にある“今熊神社”という場所だったが、途中道に迷ったせいで遅くなってしまった。時刻は二十時を回り、陽も落ちはじめている。
さすがにこの時間に知らない土地を出歩くのは危ない。このまま宿に行って、ゆっくり休もう……と言いたいけれど、現地で探そうと思っていたので、今日は宿の予約を入れていない。
スマホを取り出して、付近に泊まれる場所が無いか探す。できれば、またお洒落なホテルにでも泊まりたいが、そう何度も泊まれる程フトコロは暖かくない。
そうなると、カプセルホテルかネットカフェか……。
付近にある店を調べて、料金を比べた。やはり、ネットカフェの方が安い。
安全面を考えれば不安は残るけど、このまま野宿するよりは全然良い。
早速、そのネカフェに電話をかける。空きがあるかを確認したみたところ、一部屋だけ空きがあるらしく、そこに予約を入れる。駅からは少し遠いけど、明日は朝一で今熊神社の方に行くつもりなので、そこまで影響はない。むしろ、神社には近いので好都合だ。
そのまま電車で移動し、降りたら徒歩で予約をしたネットカフェに向かう。
あまり地元では聞きおぼえの無い店だったけど、ネットカフェは何度か利用したことがあるので、勝手はわかる……はずだ。
店先に着き、スマホを取り出す。店名が合っているかを確認した後、息を短く吐いて、店内に入った。
店員の挨拶に迎えられ、入口近くにある受付へ向かう。
前に行った店と同じように会員登録をしないと利用できないそうなので、登録用紙に必要事項を書いて出した。その際、未成年であることを隠すかどうかで迷ったけれど、結局身分証明書は見せないといけないのなら、どうせバレてしまう。ホテルと同じようにしたところで、成功する保証は薄いが、受験の下見という名目で、学生証を見せた。すると、拍子抜けするほどあっさり受理され、登録手続きは恙無く進む。世間は受験生に甘いのか。それとも、私が知らないだけで、良くあることなのか。
受付のお兄さんから伝票を受け取る。そこにはちゃんと“個室、十時間パック”と印字されていた。受け取った後、ふと思い出してシャワーもあるのかを聞いてみた。「ございますよ」というお兄さんに、シャワーの予約も頼んだ後、改めて個室に向かう。
これで、やっと休める。昨日に引き続き、今日も移動が多い日になってしまった。
個室に入って早々、リュックとショルダーバッグを乱暴に置く。被りっぱなしだったキャスケットを取って床に投げたら、倒れこむように寝そべった。
一日中帽子で押し付けられていた髪がゴワゴワする。すぐに洗いたいけど、シャワーを使うには順番があるらしく、店員さんに呼ばれるまでは待ってなければならない。このままの体勢でいると、また寝てしまいそうなので、無理矢理体を起こした。
散らかった荷物をそのままに、個室を出る。店外の喧騒とは切り離されたように、深閑とした空気。本のインクの香りと、おかわり自由のドリンクサーバーの音が時折聞こえてきた。理路整然と並べられた棚には、一通りの漫画と雑誌が並べられている。少し狭い事に目を瞑れば、ネットカフェに泊まるのは、存外正解なのかもしれない。
少女漫画の棚を物色してみる。漫画の類はあんまり読んだことがない。針山さんに勧められたものをたまに読んだことはあるけれど、基本的に私は、真剣な恋や愛といった経験がないので、あまり共感することが出来なかった。ではなぜ、少女漫画の棚を見ているのか。理由は……いやもう、なんとなく分かってる。ただ、私が気づかないようにしているだけだ。
“『付き合ってどうしたいの?』とか、無粋なこと言わないでね”
棚の本を手に取って、彼女の言葉を思い出す。彼女は、行き着く先が一つだなんて言っていたけど、私は多分、その行為も一つの通り道だと思う。愛情は、表現するのではなく伝えるものだ。声で。言葉で。体で。だから、カレがどうしようもなく好きでどうしようもなく嫌いだ。
自分の身勝手さが、腹立たしい。この何日の間、カレの姿を見れていないだけなのに、こんなにも苦しい。今すぐにでも会えないのが、凄くもどかしい。
受付から、私の苗字を呼ぶ声が聞こえた。まだあらすじしか読んでいない漫画を棚に戻して、受付に向かう。お兄さんからシャワールームの鍵を貰った。使用時間は一人十五分らしい。
個室に置いていたリュックから着替えとタオルを取って、早々にシャワールームへ向かった。