一
黄色いぶつぶつのタイルを見ると、昔から踏んでみたくなる。靴底を通してその感触を一通り楽しんでからその内側に下がると、強い風を纏って一番乗り場に電車が到着した。髪が風に煽られ、頬にあたる。アナウンスの後に開いた扉から、まばらに降りる人の後に、私を含めた人の波が一斉に乗り込んだ。電車内の人口密度は一気に上がり、大勢の人を乗せて暗い地下トンネルを進みだす。地下鉄構内を窓から見送りながら、殺風景な景色と歩いていく人々に胸の内ですみやかにさよならを送る。ここには、多分もう帰らない。これを若気の至りというのか、まだ年を重ねないと分からないけれど。これから、私の人生はどうなっていくのだろうか。不安と焦りとほんの少しの縁に、今はただ縋るしかなかった。それでも私は、カレに会いたい。会って、ほっぺを叩いて、今まで私の視界を通して散々困らせてくれたことを謝らせて、それでも足りなくて、まだ謝らせて、それで……話を、してほしかった。私の声を聞いて欲しかった。学校にも、家にも、どこにいても聞いてもらえなかった私の声を、聞いて欲しかった。それだけの為に家を出るなんて、我ながら馬鹿げていると思う。自分自身でも、自分の行動力に驚いていた。
窓に映る、自分の顔を見つめる。あぁ、なんて、情けない顔をしているんだろう。
肩に掛かる、リュックサックが嫌に重い。
車内に、次の駅を知らせるアナウンスが流れた。
✽
地下鉄から降りたら、そのまま構内を歩いて新幹線に乗り換える。女子トイレで、持ってきたキャスケットを被って、後ろ髪をその中に仕舞った。いつもと少し違う自分の姿が、鏡に映る。似合っているのか、似合っていないのか、イマイチわからない。前髪を少し分けてみたり、また被り直したりしてみたが、やがて空しくなり、さっさと外に出た。
早朝とは言え、ゴールデンウィーク初日の構内は、やはり人が多い。なるべく混まないような時間を選んだつもりだったけど、考えていることはみんな一緒だということか。一方向に向かう人の流れに従って、購入した切符を改札に入れると、少し胸が苦しくなった。……もう、そんな事を考えるのは止めようと思ったのに、私はまだ引きずっている。情けないったらない。この先、いくら考えてもキリがないのに、目を背けたくても、今は強く、前を向くしかない。それがカレに逢うことに繋がると、信じて。
歩廊へ続く階段を上がる。そこには、すでにたくさんの列ができていた。適当な一列に並んで、時間つぶしにスマホを弄る。“東海道・山陽新幹線”は、もう目の前に着ているのに、まだ中には入れないらしい。乗車口前に立っている駅員さん達がそれを物語っていた。
アナウンスが鳴り、車両内へ一斉に乗り込む。背中から、人の流れに押されて、私も同じように車両内に入った。ある程度の覚悟はしていたけど、想像以上の混雑具合に早速気が滅入る。連休のこの時期に、自由席でも取れただけマシだと、必死に自分に言い聞かせた。あまりの人の多さに座ることを諦めた私は、デッキに向かった。目的地までは一時間弱……頑張って立っているしかない。デッキの端側に陣取り、ショルダーバッグに入れていたメモ帳に切符を挟んだ。順路は大体覚えているけど、知らない場所に行くのだから、何が起きるか分からない。確認は、怠らないようにしなければ。昨日の内に、詳細に書き直したメモ帳を読み返す。行き先と、時間。乗る新幹線、降りる駅。それと、プリンターで印刷した地図。マジックで進む方向に線を引いている。順路を軽く確認した後、またショルダーバッグに仕舞った。
後から流れて来る人達で、徐々に窮屈になり始めたデッキ。背中のリュックが人にぶつかる度に謝った。さらに端の方に追いやられて、窓際の隅に背中があたる。何度目かのアナウンスの後に、車両はゆっくりと動き出す。窓から僅かに見える景色が、人の少なくなった構内を見送って、今朝歩いた道に切り替わった。次の目的地に着くまでの間、車窓から見えるロードムービーを楽しむ。スマホにイヤホンを付けて耳に装着し、液晶に映る洋楽のフォルダからシャッフル機能で適当に選ぶと“Do You Believe In Love”という曲が流れだした。これは、もう何回も聴いた曲だ。新しい曲を入れておきたかったけど、CDもスマホ内の音楽も針山さんに入れてもらっていた私には、新しい曲を手に入れる手段がない。
無意識に選んだ曲は、今の気分で聴くには少し明るい曲調だった。けど、逆にそれが良かったのかもしれない。三分弱で曲が終わった後、巻き戻して、もう一度頭から聴きはじめる。結局、二回程同じ曲を聴いてしまった。再び、シャッフル機能で曲を適当に流す。下を向いていると、すぐに酔ってしまうので、なるべく窓の外を見た。
音楽を聴きながら、無心に景色を眺めていると、早くも到着のアナウンスがイヤホン越しに聞こえた。デッキにいる乗客が動くのを見て、私も降りる準備をはじめる。
車両が構内に収まり、自動ドアが開くと、乗客は一斉に降りはじめた。その中に紛れて、流されるように私も降り、構内を歩いて改札を通った。
見知らぬ駅に降りて辺りを見回す。来てしまった、と。徐々に実感が湧いて、脈が早くなる。
“広島駅北口”
大きく覗くロータリーには、タクシーやバスが客を待ち構えていた。
見慣れない景色にまるで異世界に来たような感慨を覚える。こんなにも簡単に、知らない世界に行けるんだなと。あっけなくて、少しだけおかしくなる。イヤホンを外すと、ブルーシートの向こう側から、工事の音が響いた。ここも、どうやら改装しているらしい。地元の駅にも大きなビルが建てられていたのを思い出した。都市化が進み便利になっていくのは、私は良いことだと思うけれど、昔、小学校近くにあった駄菓子屋が無くなっていた時は寂しくなった。だから、昔を知る人にとって、昔からあるものを失ってしまうのはそういうことなんだろう。カレも……そうやって変わっていく景色を見てきたのだろうか。それを、どういう心境で見ていたのだろうか。
思考を巡らせていると、お腹が控えめに鳴った。時刻は午前の八時なろうとしている。朝食を食べる時間は無かったので、さすがに、お腹が空いた。
広島には、直通の新幹線が取れなかった為、乗り換えの目的で降りた。なので、特に目的があったわけではないけれど、次の便を待つ間に、何か食べておくことにしよう。
駅内に設置された案内見取り図を確認して、一番近い飲食店を選ぶ。全国チェーンの喫茶店に入って、一番安かったモーニングを注文した。バターデニッシュとコーヒーが付いてくる、セットメニューらしい。喫茶店にはあまり入った事がなく、くわえて、知らない土地の店内に内心では戦々恐々しながらも、平静を装う私の前に、店員さんがモーニングセットを運んできた。湯気の立つコーヒーにミルクと砂糖を一つずつ入れて、バターデニッシュをかじる。カリカリになったアーモンドの香ばしさにほのかに甘い生地、バターの香りが口いっぱいに広がった。あわせてコーヒーを飲む。甘さが消えて、コーヒーの苦味が際立っているように感じる。当たり前だけど、スーパーやコンビニで買うものよりは遥かにおいしい。デニッシュとコーヒーを交互に食べていく内に、皿は空になっていた。やや物足りない気がしたけど、今日の夜は少し贅沢をするつもりなので、考えて使わないといけない。
スマホを弄って時間を潰した後、残ったコーヒーを飲み干し、店を出る。液晶に映った時計を見れば、新幹線のくる時間が少しずつ迫ってきていた。今度は早めに行って、席に座るつもりだ。
その前に、何か食べるものを買っておこうか。お土産屋さんを物色しつつ、二階の新幹線改札前に向かっていた時、軽い既視感に見舞われた。
カレの記憶だろうか? 考えた後、そういえば修学旅行で広島に一度来ていた事を思い出す。なら、これは私の記憶だろう。確か、小学生の時だ。
そんな事を忘れていたなんて、あの頃の私は、よほど辛かったのだろうか。正直、どんな所に行ったのかさえ、よくは思い出せない。けど、懐かしい。あの頃に戻りたい。不意にそう思ったのは、今が辛いからなんだろうか。それとも、辛いことを知ってしまったからなんだろうか。
嫌な考えを払拭するように、スマホに繋げたイヤホンを耳に付ける。再生ボタンを押したら、新幹線の中で再生途中だった“Across the universe”が流れてきた。別の曲に飛ばそうかと思ったけど、何となくこのまま聴くことにした。
途中、改札横の液晶パネルに映っていた、紅葉の形をした生菓子を見て購入。時間が来るまで、改札前で過ごす。
「どこに行こうか」
「何をしようか」
「食べたいものある?」
「楽しみだなぁ」
歩いていく人達を眺めていると、会話が、感情が、次々と流れてくるように感じる。
その人達の瞳は、きらきらきらきらとは言わないけど。でも、少しでも今を楽しもうとしているように見えた。
思わず、顔を伏せてしまう。
「早く、こないかなぁ……」
そっと呟く。
✽
定刻通り、新幹線は次の目的地に向けて出発した。再び人の波に混じり、片道二時間弱の道程を揺られる。今回も座るスペースは取れなかったので、デッキの隅で過ごした。座ることは基本的に諦めたほうがいいのかもしれない。
さっき広島駅で買った新しい銘菓――もみじの形をした生菓子――の封を開ける。行儀が悪いとは思いながらも、誘惑に勝てず、個包装された内の一つを食べてみた。周りの目に晒されているのが、少し恥ずかしかったけど、どうせ会うことの無い人たちだ、と思えばいくらか紛れた。
スマホに繋いだイヤホンから音楽が流れ、デッキの窓から外を眺めていると『京都』の駅名標が見えた。車両が止まり、通路を塞いでいる人が少なくなるまで待ってから、最後の方に降車した。改札を抜け、中央口を潜る。見慣れない駅の構内を、設置された案内図を頼りに進んでいく。駅の中を一通り歩いて思ったのは、知らない場所でも慣れれば歩けるものだということだ。
奈良線に乗る為、お土産屋さんの立ち並ぶ通路を横切り、階段を降りる。九番乗り場で列車が来るのを待った後、到着した列車に乗り込み、下京区から伏見区へ移動した。
その後、稲荷駅で降りた私は、出てすぐ左にあるコンビニに立ち寄り、フレーバーウォーターを買った。目の前に冓える赤い、巨大な鳥居を潜る。
伏見区の名所“伏見稲荷大社”は、到着前に想定していた通り、大勢の観光客で賑わっている。今からこの中を歩かないといけないのは気が滅入るけど、今日予定していた場所に無事着けた事をまずは安堵するべきだろう。
カレがここに居る、なんて。そんなことはない。ここに来た理由は、ただの“神頼み”をするためだ。
最終的に“北海道”を目指しているこの旅は、切符が取れなかった都合上、本来寄らなくても良い、いくつかの都市を経由しなければならない。
今日は広島と京都。明日は横浜と東京。そこから、北海道に向かうつもりだ。
最初はどこにも寄らず、まっすぐに行くつもりだったけど、ネット上で見つけた“ある記事”を見て、私は“京都”と“東京で”少し寄り道をすることに決めた。
参道を歩き、楼門から本殿へ。途中、手水舎で手を洗い――隣の人は口も濯いでいたが、それはさすがに躊躇ってしまった――参拝客の列に並んだ。もっとも、本当の目的は本殿ではないのだけど、かと言って素通りするのもバツが悪い。ネットで調べた拝礼の仕方をそのまま行い、さらに先へ。
有名な千本鳥居に圧倒され、案内板の示す通りに竹藪の中をひたすら歩く。……休憩を挟んで、再び歩く。
額にうっすらと流れる汗が、五月の生ぬるい風に浚われて、そこでちょっとおかしいと感じはじめた。ネットで調べた時には、近いと思っていたのに、実際に歩くとかなり遠い。上り坂が多いせいか、単に私の体力が足りないのか。
イヤホンから流れる音楽とコンビニで買った飲み物だけが私を励ましてくれた。険しい参道を進むと、鳥居や祠が無秩序に並ぶ場所に出る。後から来た人たちに追い越されながら細い階段を登りきると、ようやく目的地である“新池”が一望できた。
新池――谺ケ池ともいうらしい――は、“熊鷹社”という拝所の近くにある。ここでは、人探しのご利益があり、特に失跡者などの尋ね人がある人は、新池の畔で手を打つと反響があった方角に手がかりを得られる……らしい。
こんな所まで来ておいて未だに半信半疑なのも失礼な話だが、何か気休めの一つでも得られれば、という淡い期待を込めて。
池の畔、狭い参道沿いにある拝所で参拝を済ませる。それから、赤い柵に囲まれた池全体を見渡せる位置に陣取り、力強く手を打った。
(どうか……どうか、カレと会えますように)
強く、祈りに近い願望を込めて。
打った手の音は、池を囲む森へ反響し、木霊となって返ってきたけれど、方角まではよく分からなかった。
何分間か、目を瞑って礼拝を捧げたのち、顔を上げる。変化は……もちろん無い。
願掛けに、もう一度手を打つ。
得られるものは……いや、少なくとも、私自身の気は済んだから、それで良しとしよう。
振り返り、参道を降り始める。
あれほど日常に溶け込んでいた筈なのに、今日はまだ一度もカレの姿を見ていない。それが愁事として僅かな痼を残す。
もしかしたら……もう私は、カレを見ることが出来ないのではないだろうか。母親から言われた言葉が、頭を過ぎる。
帰りの足取りは、来た時よりもずっと重く感じた。
✽
稲荷山を降りて、再び奈良線に乗り京都駅まで戻る。そこから徒歩で二十分弱歩いた場所に今日予約を入れていたホテルがあった。
初日でもあり、女子の一人旅なので、安全を考慮しての選択だったが、実際に着いてみたら、少し贅沢すぎたかな? と気が引けてしまった。
高級感を醸し出す白塗りの建物は薄く陽が沈んだ空の下でライトアップされており、高校生の女子が一人で泊まるにはやや厳かに思える。
入り口の前。縦に模様の入った自動ドアを前に一度深く息を吸って、吐きだす。不安そうにしていたら、逆に怪しまれる。ここは堂々といかなければ。
落ち着いて、フロントに向かった。受験の下見、という名目で予約をしていたけど、フロントでは、特に怪しまれることもなく、すんなりと通してくれた。内心、止められて色々質問されたりしないか、ヒヤヒヤしていたのだけど、思っていたよりも寛容だった。
鍵を借りたホテルの一室で一息つく。
「……疲れた」
味気のない真っ白なベッドに倒れると、思ったより柔らかかった。掛け布団の中に体が沈む。手入れが行き届いているのか、良い匂いがした。そのまま瞼を閉じて眠れたら、幸せだけど。
(お風呂……入らなきゃ……)
女子として、また、エチケットとして、そこは外したくない。今日は特に、歩きっぱなしで汗をかいている。
重い体を無理やり起こして、備え付けのシャワーを手早く浴びる。大浴場もあるらしいが、そこまで行く気力は無かった。
新しい下着の上から寝間着用に持ってきたトレーナーとジャージに着替えて、浴室から出る。ドライヤーで髪を乾かしたら、少しだけ目が冴えた。スマホで時間を確認すると、まだ十九時にもなっていない。さすがにまだ、寝るには早すぎる。途中、京都駅で買った銘菓――米粉を薄くのばして、餡を正方形の生地に包み三角に折った物――を夕食がわりに四枚程食べて、何があるのか、ホテルの見取り図を見る。一階にコインランドリーがあるみたいなので、さっき脱いだものを、銘菓の入っていた袋に入れて、その場所に向かった。締め出されないように鍵と財布を持って、部屋を出る。
廊下は静かだった。誰もいないのか、みんな部屋でくつろいでいるのか、人気すらも感じられない。洗濯物の入った袋を胸に抱えて、エレベーターで降りる。
フロントに話して洗剤を購入し、洗濯物と一緒に放り込む。スタートボタンを押した。終わるまでは1時間程掛かるらしいので、待つことも考えたけど、やはり部屋に戻ることにした。
部屋の鍵を開けて、室内に入る。残っていたフレーバーウォーターを一気に飲んだ。行き先を書いたメモ帳をショルダーバッグから引っ張り出し、備え付けの机の上に広げる。メモ帳に書いている、今日の行った場所を、横線で消していった。
暇つぶしにスマホで、今日の移動距離を調べてみる。……振り返ってみて、こんなに移動してきたのか、と驚いた。
今頃家にいたら、音楽を聴いて、勉強をして、ご飯を作って、勉強して……。
母親は、今日も遅いらしい。遅くに帰ってきた母親は、私がいないことに気づくだろうか。それとも、そのまま寝てしまうだろうか。
スマホを覗く。連絡が入った通知は今のところ無い。
寂しいのだろうか? 自分の気持ちなのに、良く分からない。
スマホで音楽を流す。イヤホンは外していたため、部屋中に響いた。
“She Does It Right”
イギリスのロックバンドの曲。私は、何となくこのバンド名の語感が好きだ。
布団に寝そべる。
(洗濯物……まだ、かな……)
目を閉じる。
やがて意識が朦朧として、現実と夢の境目が曖昧になった頃。音楽が途切れて、スマホの着信音が鳴るのを聞いた。