四
逃避とは、言うまでもなく防衛機制の一つだ。細分化すればキリは無いけど、大きく分けて、二種類の“逃避”が存在する。行為的な意味での“逃避”と、心理的な意味での“逃避”。前者は外に出され、後者は内に向かう。カレを追いかける、という目的はあるけれど、私が行うのはやはり逃避でしかなく、そういった意味では前者だ。この場所を離れて、行ける所まで行ってみる。どこまで行けるのか分からないから、多分、私は怖いんだと思う。いや、怖い。
新しい行動を起こす時。期待の中には、常に恐怖が付きまとう。
クラスを変えた時。入学式の時。テストを受ける時。暗い井戸を淵から覗くような気分だ。気を許せば、飲み込まれてしまいそうになる。
生活の中で、何度も味わう経験だ。飲まれ続けて、いずれ戻れないところまできてしまう。感覚が麻痺して、やがて、それが怖い事だと思わなくなるのが、一番怖い。これは“慣れ”というより最早“洗脳”だ。
だから、しっかりと準備を整えていた。
学校を、風邪と偽って休んだのには、多少の罪悪感を覚えたが。それも母親のノートパソコンをこっそり使って、ブラウザからどんなルートがあるかを確認している内に忘れてしまった。
JЯのホームページから、調べていた出発駅と到着駅を入力する。南より北の方が遠いから、北方面に行くことにした。だけど、さすがにゴールデンウィークはどこも混雑しているらしく、目的の場所への直行の便は取れなかった。遠回りになるが、いくつか乗り換えと宿泊を挟み、予定より三日程遅れた便で、ようやく空いているのを見つける。その過程で、いくつか気になる名所を見かけた私は、せっかくなので廻ってみることにした。それぞれの駅の発着時刻と料金を詳細に書いて、計画を立てる。ページを印刷して、細かい箇所は、手書きでメモに残した。最初の地下鉄は始発の時間に乗ることに決める。学校に行くのと変わらない時間にしようかと考えたが、あまり遅くなると混みそうだと思い直した。それから時間を考えて、新幹線と飛行機の予約を取っていった。ホームページを見ていくと、ネット予約という物があるらしく、会員登録をするのはめんどくさかったが、使っていくうちに便利だ、と思いはじめてきた。自由席かエコノミーしか取れなかったけど、贅沢は言ってられない。こんな時期に予約して取れたほうが、むしろ幸運だった。
詳細な道順は、現地の案内図を見ていけば分かると思う。少なくとも、ネットの案内図だけでは、どこをどう行けばいいかイマイチ分からなかった。とりあえずは、最初の五時五十分発。これに乗り遅れないようにしなければならない。
ブラウザの履歴から、閲覧していたページを削除して、ノートパソコンを寸分違わず元の位置に戻す。
気づけば、とっくに午前は過ぎていた。お腹の音が控えめになり、軽く何かお腹に入れておこうと、階段を降りてキッチンに向かう。食器棚の引き出しに入れてある買い置きの中から、レトルトカレーを取り出し、湯煎で温めてカレーライスを作った。冷蔵庫を漁ると、パックサラダの残りを見つけたので、小皿に移して付け合せにする。簡単な盛り付けを済ませた後は、キッチンのイスに座り、手を合わせた。
「いただきます」
普段、食事中には観ないのだけど、誰もいなかったので、テレビを点けてみた。しかし、昼間の番組は、殊更つまらない。ワイドショーの内容はくだらないし、ドラマは前回までを知らないので、話が読めない。
少なめに盛ったカレーライスの山を崩しながら、先割れスプーンで無心に口へ運ぶ。住宅街に居を構えているこの家は、お昼になるといつにもまして静かだ。スプーンが擦れる食器の音と、テレビ以外の音はない。母親も、この静かな雰囲気が気に入って購入したらしい。私も、この雰囲気は嫌いじゃない。女手一つでも、好きなことをしている母親を凄いと思っている。もう少し家庭にも目を向けて欲しい、という本音はあるけれど。
就学前まではここでは無く、ずっとお祖母ちゃんの家に預けられていた。母親代わりでいたお祖母ちゃんは、私が寂しい思いをしないようにと、預けられていた保育園の行事には積極的に参加してくれていた。運動会の途中で倒れた時に、家に帰るまでおんぶしてくれたことをふと思い出す。……そんなお祖母ちゃんも、お正月に帰省した時には、車イスで生活をしていた。降りるときに震えていた膝が、強く印象に残っている。
カレーライスとサラダを完食し、手を合わせて会釈をした。流し台でお皿を洗い、乾いた布巾で拭いた後、元あった場所に戻す。カレーライスとパックサラダの入っていた袋は、新聞紙に包んで捨てた。スマホに、母親から『今日は帰る』と連絡があったので、休んでいたことを悟られないようにする為だ。
お茶を淹れて、イスに座り直す。湯飲みに添えた手の平が、震えていることに気づいた。指先から血の気が引くような感覚。失敗してしまった時に何度か味わったものだ。胸の所がざわざわして、落ち着かない。一度、大きく息を吐いた。
全く頭に入ってこないワイドショーを観ながら、ぼんやりと考える。今頃、学校では午後の授業が始まっているのだろう。『こんなことをしていて良いんだろうか』徐々に沸き上がってくる罪悪感を、払拭するようにお茶を飲み干した。湯呑を軽く洗い、あった場所に戻す。
どうせ、もう行けるかわからないのだから。いつまでも、後ろ髪を引かれていてはダメだ。自分にそう言い聞かせた。
席を立つ。コメンテーターが世の治安について語りだしたワイドショーを消して、部屋に戻る。もう少ししたら夕飯の買い物にも行きたいので、それまでに荷造りを済ませておくことにした。
クローゼットから出した大きめのリュックサックに着替えを詰め込み、タオル、歯ブラシなど、最低限度の必需品を選別していく。もう一つのショルダーバッグには、財布やスマホ、メモ帳など、それ以外の小物を入れる。
ふいに「私は何をやっているんだろう?」と、漠然とした感情に襲われた。
✽
荷造りを済ませた後。夕飯と、改めて必要だと感じたものを買う為に外へ出た。その日の格好は、白のシャツとベージュの長スカートだったけど、その上からオレンジのカーディガンを一枚羽織る。橙色の夕陽を背に受けて鍵を閉めた。
家の裏から自転車を出そうとしていた時、スカートを履いていたのに気づいて、仕方なく歩いていくことにした。距離的に、そこまで離れているわけじゃないので、わざわざ着替えに戻るのもめんどくさい。
十分程歩いて、いつものスーパーではなく、近くのディスカウントストアに到着する。ポケットに入れたメモの切れ端を見ながら、まずは荷造りで足りなかった物をカゴに入れた。
歯磨き粉、化粧水、生理用品、雨具。そして、いるかどうか迷ったが、やはり無いと不安だったので、市販の鉄剤と痛み止めを買った。以前までは、ちゃんと薬局で処方されたものを買っていたけど、副作用がひどかったので止めた。
再度メモを確認して、カゴの中を見る。次に、生鮮コーナーに向かった。合い挽き肉、ぶなしめじ、玉ねぎ、ナツメグをカゴに入れて、会計を済ませる。
帰り際、店外に設置されたATMで『何があるか分からないから、将来の為に貯金しておきなさい』と、母親が勝手に作っていた口座から、これまでのお年玉、残った月のお小遣いをあるだけ引き出した。
財布がこれまで見たことの無い厚さになり、戦々恐々しながらも家路を辿る。十七時を過ぎて、小学校のスピーカーから『夕焼け小焼け』の音楽が町内に向けて鳴り響いた。
春も終わり、日の入りが遅くなり始めている。橙色に滲んだ斜陽が、地上と空の境目から微かな温もりを地上にそそぐ。薄目を開けた瞼の隙間に入りこんで、少し染みた。
……そういえば、初めて学校をズル休みした。
おだやかに締めくくりはじめた一日の終わりに、ようやく気づく。明日の今頃は……いや、もうよそう
止めていた足を動かす。感傷に浸っている場合じゃない。もう、決めたことだ。
早足で家に戻り、食卓の上に買ってきたものを置いていく。戸棚から、塩コショウ、牛乳、コンソメの素、麸、その他を出して、一緒に並べた。今日は“煮込みハンバーグ”を作る。最後の晩に、せめて手の込んだものを作ろうという、どうでもいい計らいだった。
作り方は、だいたい覚えている。以前、料理の本を立ち読みして覚えたから。
ポリ袋に麸を入れて入念に砕く。ボールに入れ、牛乳を染み込ませて、少しの間寝かせておく。その合間に、お米を二合炊いた。
母親は、家事をしたがらない。私が料理を作る前は出前かコンビニと、選択肢が限られていた。その為、手の込んだものを食べたいなら自分で作るしかなかった。
私が母親に教えられた事は少ない。遊びに連れて行ってもらった記憶もあまりない。勉強が分からない時は、家庭教師に来てもらった。
何かしらの葛藤が無かったのかといえば嘘になるが、そんな時期はもうとっくに過ぎている。良い学校に通わせてもらっているだけでありがたいことなんだと、自分に言い聞かせた。
牛乳の染み込んだ麸に、買ってきた合い挽き肉、刻んで炒めた玉ねぎ、ナツメグ、塩コショウを入れて、素手で混ぜる。手にまとわりつくような感触が、くすぐったいけれど気持ちいい。思わず、混ぜるのに夢中になってしまった。
出来上がったハンバーグのタネの形を整えて、油を敷いたフライパンで片面に焼き目をつける。十分に焼き色がついたところで、裏返して蓋を被せた。
次に煮込みソースを作る。玉ねぎを薄く切り、油を敷いた鍋でぶなしめじと一緒に炒める。玉ねぎが柔らかくなりはじめたら、ケチャップ、ウスターソース、買ってきたコンソメを入れて、調味料で味を整えた。……ほど良く煮詰まってきたら、ハンバーグを焼いているフライパンに流し入れて、弱火で二十分くらい煮込む。
普段なら、このまま盛り付けて、一人で食べるけど、今日は母親が帰るまで待つことにした。
良い香りを漂わせるフライパンの火を止める。お風呂にお湯をはって、二階に上がった。帰ってくる、とだけ言われても、時間が読めないのは悩みのタネだ。でも、いつも通りなら、そんなに早くは帰ってこないだろう。部屋に入り、さっき買ってきた物をレジ袋から出した。全部入るように、考えながらリュックに詰めて、荷造りの続きをはじめる。
丁寧に、ゆっくりと。
遺書を認めるように。
✽
「ただいま」という声が聞こえたのは、荷造りも終えて、メモした内容をまとめている時だった。慌ててメモ帳をとじる。
階段を下りる足音が二重に聞こえて、下りている途中に、上ってきた母親と鉢合わせた。
「あ、おかえり」
「ただいま」
疲れきった表情を隠さないまま、真横を通り過ぎる。自室へ荷物を置きに行くんだろう。その背中に、声をかけた。
「お母さん、晩ご飯は?」
「うん。食べるよ」
母親の返事を聞いて、一階に下りる。火を入れて、作っておいたハンバーグを温めた。遅れて、階段を下りてくる足音が聞こえる。
上着を脱いで、薄手のシャツにパーカーを羽織った母親はキッチンのイスに座るやいなや、深く息を吐いた。その目の前にコップ、フォーク、ナイフを二人分並べる。冷蔵庫からペットボトルのお茶を出した。湯気の立つフライパンから皿にハンバーグをよそう。副食に、パックサラダを小皿に移し、平皿にご飯をよそって、余った玉ねぎで作ったコンソメスープを茶碗に注いだ。後ろで、コップにお茶をそそぐ音が聞こえる。
「先に食べててよかったのに」
母親が声をかける。
「ううん。たまには一緒に食べようと思って」
できるだけ模範的な娘の回答を返す。美味しそうな匂いを立てるお皿を、母親の前に並べていった。
「料理、上手になったね」
煮込みソースをかけた時、シメジが良い感じにかかったので満足のいく盛り付けになった。
「そんなことないよ。誰でも、ちゃんと作り方を見ればある程度作れるから」
遅れて、私もテーブルに着く。二人で手を合わせると「いただきます」の声が重なった。母親と一緒に食事をするのは、二週間ぶりぐらいだ。前に食べたのは何だったか。確か、作る時間がなくて、母親が買ってきたお弁当とカップラーメンを食べた気がする。
静かな食卓に、お皿とナイフの擦れる音が聞こえていた。
「勉強は、ついていけてる?」
母親が口を開いた。昔から、会話はいつも学校の話題からはじまる。二人の間に共有するものがない以上、仕方ないのかもしれないけど、私にとって今、学校のことを思い出すのは苦痛でしかなかった。
「うん。大丈夫だよ。この前のテストも、クラスでは上の方だったし」
「そう……。具体的には、何位くらいだったの?」
具体性のない返事を、母親は好まない。この人が見ているのは、努力した過程ではなく結果だ。数字と順位が全てだ。それが伴ってなくては、何もしてないのと一緒だった。
「……四位くらい」
「四位かぁ。もう少し頑張らないとね」
ハンバーグを飲み込む。「そうだね」と呟いた。
「来年か、早ければ今年には、もう受験なんだから。もし勉強で難しい所があれば、お母さんに言いなさい。また家庭教師を呼んであげるから」
母親はそう言ってくれたが、家庭教師は好きじゃない。部屋に入ってこられるのが堪らなく嫌いだった。
「うん……頑張る」
話題を変えたかったけど、話すことが見つからない。私たちは、言葉を交わしてこなかったから。関係は、会話と比例して深まっていくものだ。だから、向かい合って話しているのに、こんなに遠く感じるのだろう。
早々に会話は途切れる。こんな時、普通の母娘はどんな会話をしているのか。学校での事? 会社での事? 季節の事? テレビの話題?
奥歯を噛み締める。どれも、私にはできないことばかりだ。湯気の消えた白米を口に運んだ。私に、ほんの少し社交性というものがあれば、母親との会話も少しは変わるのだろうか。
「……夏になったら、ご飯も出前を取りなさい。こんな風に、家事に時間を費やすくらいなら、勉強を少しでも進めてたほうがいいと思うの」
「でも、お母さんもちゃんと作った物、たまには食べないと……」
「口に入ってしまえば、みんな一緒よ。部屋でたまに聴いてる、音楽も勉強の効率を落とすわ。聴くなら歌詞の無い、静かな曲にしなさい」
「……でも洋楽なら。英語の勉強にもなると思って」
「だめよ。……もし、葵がどうしても聴いてしまうなら、お母さんが預かっていてあげるけど、それは嫌でしょう? なら、そうならないようにしなさい。音楽なんて、いつでも……それこそ、大人になってからでも聴けるでしょう?」
「……はい」
頷く。喉の奥に何か詰まっているようで、口に入れたハンバーグが上手く飲み込めない。
「ご馳走様」
手を合わせて、先に席を立ったのは母親だった。綺麗に平らげた皿を流しに運ぶ。洗い物をしようと思っているのか、袖捲くりをした母親に声をかけた。
「……洗い物は私がやるから。先にお風呂入ってきなよ」
「そう? でも」
「お母さんも疲れてるでしょ? 勉強は、ちゃんとしてるから」
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
脱衣所に向かう母の背中を見送って、私も「ごちそうさま」と手を合わせる。半分ほど残したハンバーグをゴミ箱に捨てて、お皿を流しに置いた。シャツの袖を捲くって、スポンジに泡をつける。油とソースに塗れた食器を洗いはじめた。指先に力を込めて、皿に残った油をなるだけ落とす。水で茶色くなった泡を濯いだ。
洗い物を済ませて、母親がお風呂から上がるのを待つ間、二階に上がった。母親を不安にさせないよう、勉強に手をつけようと思って、違和感に気づく。
『弟は、どこに行ったのだろうか?』
本来、決して忘れるものではない。けど、私はどうして、今まで思い出せなかったのだろう。二階に上がった私は、そのまま弟の姿を探してみたが、見当たらない。部屋にいるのだろうか? ……あれ? そもそも、弟の部屋は? どこにあるんだっけ?
……何かがおかしい。
一階に下りて弟を探していた時、お風呂から上がった母親が、着替えを済ませて出てきた。
「なに? バタバタして。何か、探し物?」
「お母さん、弟は? 弟がいないんだけど……」
私の言葉を聞いて、母親は顔を顰める。「またか」というような、面倒くさそうな、そんな顔だった。
おかしい。母親は、どうしてそんな顔をしているのだろう? 私は何か変なことを言ったのだろうか? そもそも母親は、どうしてそんなに淡々としていられるのか?
冷蔵庫から牛乳を取り出して、コップに注ぐ。それを一息に飲み干し、テーブルに勢いよく置いた。
その音に驚いて、体を震わせる。それから、母親はうんざりした調子で、口を開いた。
「葵。あなたに、弟はいないわ。家にはね、子どもは一人しかいないの」