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僕の聲を聞いてくれ  作者: 白井 滓太
上幕:向日 葵
3/10

 言うまでもなく、時間は有限だ。けど、こうして登校と下校をただ繰り返していると、時々、時間を持て余しているように思う時がある。退屈な毎日だ、とは思わない。そう言えるほどの年月は生きていないし、そこまで人生を卑下しているわけではないから。出来るだけポジティブにいようと思う。本質的な部分はきっと、誰だってそうなんだと信じて。結局、どのような人生を歩んできたか。どんな人と関わってきたか。誰に影響を受けたか。そういった経験で着飾っていく内に、性根の部分……ポジティブな部分は隠れて、ネガティブになってしまうのだと思う。

『学校よりも、3分間のレコードから多くのことを学んだ』と言ったのは、たしかスプリングスティーンだったか。

 時間は、満ち溢れた日時計のように滑り落ちる。だから、ふと歩みを止めた時、虚脱感に苛まれる。登校。下校。登校。下校。大人になれば、通勤。退勤。まるで、イタチごっこだ。繰り返していく日々の中で、気づいたら死んでしまうんだろうか。そんなことを考えながら歩く。バスに揺られる。また歩く。繰り返す。

 朝陽が照りつける。その日は、少し変だと思った。妙に、視界がぼやける。まだ脳が活動していないのだろうか、と疑うほど。やがて、視界に同校の制服を来た人たちが見えて、静かに暗転した。


 ✽


 目を開くと、天井が見えた。焦点ピントのズレた視界が鮮明になっていくと同時に思考もいくらかハッキリとしてくる。上体を起こすと、肩にかかっていた毛布が下腹部までズレた。痛む側頭部を手で抑えて、状況を整理する。私は今、ベッドの上にいる。見えているのは、四方を真白いカーテンに覆われた光景。……見覚えのある仕切りに「またか」と自己嫌悪を覚えた。

「目、覚めた?」

 女性の……いや、保健室の先生が、私が起きたことを察して、カーテン越しに声を掛けてくれる。その直後、カーテンが一気に開いた。強い午後の陽光が眼球を刺激する。白衣に身を包んだ、女医の姿がそこにあった。保健室には、不本意ながらたまに連れてこられていた。元々貧血気味の私は、倒れてしまうことが稀にある。

 見慣れたその姿に少し安堵した。先生がいるということは、ここが学校であることは間違いない。何故ここで寝ているのかも、何となく察した。恐らく登校途中に倒れたのだろう。先生は私がここにいる理由を話してくれる。案の定、推測した通りの説明だった。

 季節の変わり目は、体調を崩しやすい。気をつけていたのに、昨日は結局遅くまで起きていた。それが原因なのだろう。

 先生が、制服の胸元を緩める。そこに手を入れて、体温計を挟んだ。鎖骨に当たる手の感触が少しこそばゆい。

 間もなく音が鳴り、体温計を取り出して液晶部分に視線を移す。

「七度六分かぁ。少し高いね」

 私の平均体温を知っている先生は、すぐに気づく。椅子に座り、机の上に散らばった書類を一まとめにした。

「私は今から少し外に出なきゃいけないんだけど、向日さんはまだ少し寝ていく?」

「……戻ります。受験生なので」

「そう……。無理はしないようにね。昨日は寝不足だった?」

「どうしてですか?」

「目の下にクマ出来てる」

 先生は、涙袋の辺りを人差し指で指しながら、そう言った。

「あぁ……。ちょっと勉強に身が入っちゃって」

「勉強するのは良い事だけど、程々にね。じゃないと、体の方がついていけないよ」

「はい……気をつけます」

 一まとめにした書類をファイルに挟み、バッグの中に仕舞う。白衣を脱ぐ様子が妙にあでやかで、同性であるにも関わらず見蕩れてしまった。

 教室に戻る為、ベッドから出る。着崩れた制服を正し、少し皺が付いてしまったシャツやスカートを、クセがつかないように伸ばす。誰かが用意してくれていた上靴を履くと、足に力が入らず、少しふらついてしまった。側頭部に手をやると、やはりコブが出来ていて、横に倒れてしまったことに気づく。

 膨れた箇所を指先で触り、ある疑問が生まれた。

「先生、私を運んでくれた人って、どんな人だったか分かりますか?」

 既に出かける準備を終えていた先生は、足を止める。

「向日さんを良く連れてきてくれる人だよ。えぇと、針山さん、だっけ?」

 彼女が、あの場に居合わせていたことに驚く。通学路で会うこともあるけど、基本的に時間が合わず、一緒になったことは数えるほどしかない。

「……ありがとうございます」

 教室に戻ったら、また「貧弱すぎる」とか「もっと体鍛えようよ」とか言われそうだ。

「うん」先生は頷いて、鞄を持った。

「また帰ってくるから鍵は開けといていいよ。不在の書き置きはしておいたから」

「わかりました」

「それじゃあ。あんまり無茶な事したらダメだよ?」

 言い残し、保健室を出て行く。扉が閉まる音を最後に、室内から音が無くなる。在るのは、薬品の残り香と開けた窓から吹く残春の風だけ。その香りを肺一杯に取り込む。変な趣向かもしれないが、保健室の匂いは結構好きだ。通い慣れた場所だからなのか。以前、針山さんにその事を話したら、少し引かれてしまったけど。

 部屋を見渡す。白い部屋に佇むカレの映像が視界に映る。一人窓の外を覗く背中は寂しげで、どこか達観しているようだ。

 その映像のカレに並ぶように、一歩、二歩。前に踏み出す。同じく、窓の外へと視線を向けて、葉桜がさざめく中庭を見つめる。今年は、桜の散るのが遅かったが、さすがにもう花弁は付いていなかった。

 カレの視界を覗いているだけで、私はその気持ちなど考えたこともない。理由はやっぱり知る術が無いから。

 ……今はそれが少しだけ、悔しかった。


 ✽


 チャイムが鳴った。今日一日の終了を告げるには、安い電子音だ。

 机の中身をさらい、鞄へ詰め込む。同じく、帰宅準備をしていた針山さんに声を掛けに行った。

「あの、針山さん?」

「……」

 無言で振り返る。少し空気が重たいのを感じた。

 午後の授業途中で教室に戻った後、授業の合間に、針山さんに朝運んでもらったお礼を伝えた。その時に、少し機嫌が悪いな、と思ったけど、クラスメイトとはいつも通り接していたので、特に気にしてはいなかった。

「カフェオレ……」

「……え?」

「バス停前の喫茶店のカフェオレ。奢りね」

 有無を言わさない視線を向けたまま、彼女はそう言った。その声には、まだ僅かに怒りが込められているように感じる。

 機嫌を直すためにも、また、昨日今日と続けて迷惑をかけたお詫びの意味も込めて、昨日と同じくそれを了承した。


 ✽


 学園から場所を移し、徒歩で二十分程歩く。女性が、緑の丸から覗いているようなマークが印象的な喫茶店が見えた。慣れた様子で店内に入り、レジ前の列に並ぶ彼女。余りこういう店には入らない私は、その後ろで物珍しげに辺りを見回す。

「同じのでいい?」

 聞かれても、良く分からないので頷いた。カフェオレなら、飲めないことは無いだろう。続いてサイズを聞かれて、二人とも普通のサイズを頼んだ。針山さんは何かトッピングをしていたようだけど、レジで会計だけを済ませた。

 ……程なくして、店員さんがカフェオレを二つ手渡してくれる。それは想像していたよりも大きくて、少し戸惑った。

「普通のサイズじゃないの?」

「それが普通のサイズだよ」

 俄かに信じ難かったが、今更「こんなに飲めない」というわけにもいかない。

 湯気とともにコーヒーの良い薫りを立てて、店内に空いている席を取る。向かい合う形で、私もそこに座った。彼女は、更にシロップとミルクを三つずつ、注文したカフェオレに入れる。

「……それ、甘すぎるよ。絶対」

「これがアメリカンスタイルだよ?」

 前から思っていたけど、彼女の甘党は割と深刻なのかもしれない。

 お互いに、容器に口を付ける。賑やかな店内が二人の沈黙を紛らわせた。ひと呼吸置いて、私は彼女に「何で怒ってたの?」と問いかける。視線だけを投げかけて、彼女は口付けていた容器を、テーブルの上に置いた。

「解らない?」

 彼女に訪ねられて頷く。

「あ。あんな場所で倒れて迷惑だったから?」

「そんな事じゃないよ。どこで倒れたって、仕方ないじゃない? わたしが怒ってるのは、もっとこう……抜本的な、……なんて言えばいいだろ」

 言葉が上手く出てこない様子だ。初めてそんな彼女を見てしまい、僅かに動揺した。

「とにかく、もっと自分の体をいたわってよ。急に倒れたりさ。偶々わたしが見てたからよかったけど、あんまり心配させないで」

「心配?」

 彼女は、心配してくれていたのか? 誰を? 私を?

「運ばせたのは、申し訳なかったけど。針山さんは、あんまり他人のことを心配しない人だと思ってた」

 そう言って、容器を持ち上げる。彼女が『失礼な』と言って、そこから笑い話になればいいな、と特に良く考えないままの発言だったけど、私はまだ彼女の様子に気づいていなかった。

「……葵じゃなければ、こんな事言わないよ」

「……」

 会話が止まる。そこで彼女の態度の違和感を覚えた。彼女の顔を見て、次に続く言葉が出てこない。

「わたしはさ……葵の事好きだよ。入学した時からずっと」

 会話の仕方を忘れてしまったように固まった。おかしい。私達は、どんなことを話していたんだろう? それは友達同士の、何気ない会話だったはずだ。

 話さない私の代わりに、針山さんが続ける。

「気づいてた? なんて、気づくわけないよ。普通じゃないもの、こんな感情」

 ふいに覗かせた笑みは、どこか哀愁を感じさせられた。「コーヒー、冷めるよ」彼女の言葉に、まだ残っているカフェオレを飲む。味は分からなかった。何も、分からなかった。それから彼女は、いろんなことを話してくれた。私に対する感情のこと。手首の“傷”のこと。父親が小さな会社の社長をしていたこと。父親の会社が倒産してしまったこと。彼女を残して両親が蒸発してしまったこと。親戚中をたらい回しにされ、叔父夫婦に拾われたこと。その叔父に乱暴されたこと。口封じの為に半年間監禁されたこと。追い詰められた叔父が目の前で自害してしまったこと。その死体が朽ちていく様を見続けたこと。……手首の傷は、その時自分で付けた、と話してくれた。

“Trip”

 針山さんは「そのままの意味だよ」と言ったけど、そこに何が込められていたのかまでは教えてくれなかった。

「死体ってさ。思ったより早く腐っていくの。1日経ったくらいかな。体のあちこちに紫色の痣が出てきて、段々増え続けてく。それから突然動き始めるの。痙攣したみたいに。一番最初に崩れたのは、お腹だった。色が変わって、触ってもいないのに破けたの。締め切ってる筈なのに、虫が湧いて、臭いも強くなって。アイスが溶けていくみたいに、どす黒い血が床に広がってった。ドロドロの内蔵が零れてきて、ゆっくり体は崩れていった。時間が経つにつれて、叔父だったモノはただの肉の塊に見えてきて……でも、不思議と怖くなかったな。私もあんな風になるんだって。皆死んだらあんな風になるんだって。どこか冷静に見てる自分がいたから。……今はさ、良い人たちに拾ってもらって普通に普通の生活をさせてもらってるけど。やっぱりお魚とかお肉とか、ただの死体に見えちゃうんだよね」

 何でもないことのように、針山さんは話した。まるでその店に、二人だけしかいないと思える程、彼女の台詞は能辯のうべんだった。

「受験させてもらって、高校にも通わせてもらって、入学式の時に葵を見かけた時、なんでかよく解んなかったんだけど、見蕩れたんだよ。変なこと言うけど、クラスの中にいて、同じ空間にいないような……多分、その時好きになったのかな。もしくは、日を追うごとに好きになったのかな。やっぱりよく解んないや」

「……なにそれ」

 ようやく口を開いて、出てきた言葉はそれだけだった。でも、彼女にはそれで十分だったのか、笑顔を向ける。

「ねぇ。葵は、わたしのこと好き? あぁ、『付き合ってどうしたいの?』とか、無粋なこと言わないでね。恋人同士が最終的に行き着く行為なんて、一つしかないでしょ?」

 彼女の質問に、少しの間を挟んで口を開いた。

「……ごめん」

 それは、到底聞きたい答えではなかったと思う。でも、彼女は表情を崩さないまま「やっぱり」と返した。

「葵、好きな人いるでしょ? 気づくわけ無いと思ってるかもしれないけど、やっぱり見てたら解るものなんだよ、そういうのって。わたし、何で好きになったのかな、ってさ。ずっと考えてたんだよね。そしたら、多分そんな“誰かに恋焦がれる葵”に惹かれたんだって気づいたから……感情って、複雑だね。わたしには、扱いきれないや。あぁ、それにしても悔しいな。悔しいよ。葵に好かれてる誰かが、めちゃくちゃ羨ましいよ」

 冷たくなったカフェオレを飲み干す。私たちは、中途半端に大人になってしまったから。心にしこりを残したままでも、平気なフリをしてしまう。やがて、残したことまで忘れて、生きていく。それでも、彼女の告白を全て受け止めるには、私はまだ幼すぎた。

「そろそろ出ようか」

 彼女の口から発した言葉で、ようやく店を出る。コーヒーの香りに染まっていない空気が、嫌に美味しく感じた。夕陽も沈んで、店に入る前の明るさは既に失われている。

「ごちそうさま」

「ううん」

「明日からも今までどおり接してね、って。言おうと思ったんだけど、やっぱり辛いや、失恋って。だから、距離を取るね」

「ん……」

 私たちはもう、同じ時間を共有することは出来ないかもしれない。それでも、明日も明後日も、変わらず顔を会わせることになる。

 だから、またねは言わない。

「さよなら。元気でね」

 また明日も会えるように。

「うん。さよなら」

 機械みたいな声で。



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