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僕の聲を聞いてくれ  作者: 白井 滓太
上幕:向日 葵
2/10

「“輪廻りんね”って言葉を知ってる?」


 私はその時、特に言うつもりも無かった言葉を、自然に呟いていた。昼休み。学校。学生にとって、現実に存在する箱庭社会。その片隅に設置された『図書室』、更にその奥内に在る『司書室』でランチを食べている最中の事だ。クラスメイトであり、同じく図書委員である針山はりやま 茉莉まつりにそんな事を聞いたのは。それまでの会話はたしか、昨日見たテレビについてだったと思う。子ども騙しの、安い心霊ドキュメンタリーで、あれが仕込みぽかった、これが本物っぽくて怖かったとれたことを話していた。結局は、どれもくだらない三文芝居ハッタリだと結論付ける。そんな彼女を非難することはできない。私自身、特に信じている訳ではないのだから。それでもなお、私はその言葉を言っていた。もう誰かに言わなければ耐えられなかったのか。私はつい口を滑らせてしまった。狭い司書室、白かったであろう壁紙は経年劣化と共に茶色くなり、剥がれている。高く積まれた本に囲まれた私は、彼女の視線を受ける。長い黒髪。ほっそりとした頬に大人びた雰囲気を携えた針山さんは、内斜視をこちらに向け、昼休み前の準備時間に買った焼きそばパンを手で千切ること無く、豪快に口へ運び、咀嚼している。そして、喉を鳴らした。その数分の間は、先ほどの自分の発言を後悔するのに十分な時間だった。友達が出来た時はいつもこうだ。そろそろ何を話しても良い関係になっただろうか、というタイミングをいつも見誤る。いままで、何人友達を無くしただろうか。どれだけ、変な子だと噂されただろうか。時間が経つにつれて、熱気ほとぼりが冷める。人は、やはり忘れてしまう生き物だ。恐らく聞こえていた筈の友人は、まだ何も答えない。どうやら、パンを飲み込んだ際に、返事も一緒に飲み込んでしまったらしく、彼女は再び焼きそばパンに噛み付く。噛む。飲み込む。それから「何の話?」とやや遅めの返事を寄こしてくれた。そのまま飲み込んでくれてもよかったのに。「ごめん、やっぱり何でもないよ」そう答えて、机の上に広げた昼食の後を片付けはじめる。こちらとしては、話をそこで終わらせたはずだった。でも、向こうはそれで終わったつもりはないらしい。元々、恬淡てんたんとした性格の彼女だ。私と一緒にここでランチを食べている理由も彼女にしてみれば、クラスメイトとの交友を面倒に感じてのことだろう。思考に耽っている間に、焼きそばパンを食べ終えた彼女は、いちご牛乳のパックにストローを刺して、吸い上げる。クラスでの立ち位置は、良く言えば八面玲瓏はちめんれいろう。悪く言えば八方美人。自覚はあるらしく、二人の時には、クラスでの接し方はあまり見せない。彼女の中にも、多分外用と内用の顔があって、それを器用に使い分けているのだろう。彼女程人付き合いが上手くない私からしてみれば、純粋に羨ましい話だ。でも、そうした事もあって、クラスの人からは彼女が、どこか憐れみを持って、私に接してくれていると思われているように感じる。実際、そうなのかもしれない。それは、針山さんだけが知ることだ。私の心境など知らず、ランチを早々に終わらせた彼女は、手を合わせ、丁寧な礼をした。入学当初から変わらない、腰まである艶やかな黒髪がふわりと揺れる。私とは違う、良い匂いのするシャンプーを使っているのだろう。鼻腔をくすぐる甘い香りに、複雑な気持ちが芽生えた。「変なの」針山さんは返事をして「そんな事言われると、余計に気になっちゃうよ」言葉を続ける。発言に興味を持ってくれるのは、ありがたいことだ。針山さんは、私の言葉にあまり興味を示さない。大抵はスマホを見ながら生返事をしている。それが、どういう風の吹き回しなのかと言えば、単純にイタズラゴコロとしか思えない。言葉に詰まる私の隣で、悪戯っ子みたく口角を吊り上げる彼女の表情が、それを雄弁に物語っていた。異性が見れば、心をトキメかせてしまいそうな仕草。整った顔立ちに、どこか気怠げな横顔が一際映える。美人は何をしても絵になる、とは良く言ったものだ。だけど、彼女も彼女なりの苦労があり、悩みはあったのだと思う。そう思いはじめたのは、いつも長袖しか着ない彼女の左腕に、包帯が巻かれているのを見てしまった、去年の夏だった。すぐには聞けなかった私は、その年の冬に、たまたまその下にある“傷痕”を見てしまった。何気ない放課後、司書室で本の整理を頼まれていた時のこと。“Trip”という形に盛り上がった皮膚は、消えない歪な文字を残す。もうあいまいな笑顔しか思い出せないけれど『これは、内緒だよ』と。見つめ合っているのに、私じゃない、どこか遠くを見ているようなでそう呟いた。

 Trip? トリップ? DROP? ドロップ? キャンディ? ジェリービーンズ? ハニーパイ? ワイルドハニーパイ? ビートルズ? ブライアンエブスタイン? ジョンレノン? マークDチャプマン? バニシェフスキー? アウト? ドロップアウト? アウトサイダー? コリンウィルソン? コリンデクスター? デクスターズラボ? ウィノナライダー? ワインライダーフォエバー?

 私は、言葉の意味を必死に探していた。

「リンネ、だっけ。車輪の“りん”に、えんにょうでまわるって書くの。あれでしょ? 命が巡ってく、みたいな意味。それがどうしたの? まさか、あおいもああいうの信じてる? 止めた方がいい、とは言わないけどさ。でもさ、あんまり傾倒しない方がいいよ。葵は、ただでさえ暗く見られるんだし。これ以上暗く見られると、その内見えなくなっちゃうよ」

 ……聞こえてたんじゃないか。

 現実に引き戻すような、よく通る声。一気にまくしたてる針山さんの言葉を聞いて、その後に続く言葉が出てこない。代わりに、開け放たれた換気用の窓から、柔らかな四月の風が送られた。鳥の鳴き声と僅かに混じる生徒の声が、辛うじて間を取り持っている。机に置かれた水筒のコップに手を伸ばす。中に入っているのはただの麦茶。家から淹れてきたものだ。

「……まさか。信じてるわけじゃないよ。でも現実に、そういう人もどこかにはいるんじゃない? っていう話」

 自分のことを言おうとして躊躇ってまた言おうとして、結局誤魔化した。つまらなそうに「ふーん」と頷いた針山さんは、スカートのポケットからスマホを取り出して弄りはじめる。私は、弁当箱の入った保冷バックを鞄に仕舞って、蓋を閉めておこうと水筒に手を伸ばす。

「『輪廻……人が何度も転生し、また動物なども含めた生類に生まれ変わること、また、そう考える思想のこと』だって。やっぱりわたしには解らない話だよ。仮に“魂”が存在していて、それが上手く循環しているんだとしたら、わたし達の体は何? ただの容器いれものに進化をさせて、繁栄をさせてきたの? ってなっちゃう」

 蓋を閉めた水筒を鞄に戻す。彼女の話よりも、わざわざ調べてくれていたことに多少の感動を覚えた。

「私も、そんな空想科学オカルトを信じてるわけじゃないよ。存在自体は面白いと思うけどね。針山さんの言うように、“魂”がそうやってうまく循環してるなら、なにかの大きな存在に動かされてるんだと思うよ。RPG……ゲームってする? 例えるなら、私たちがマリオで、その大きな存在はプレイヤーだよ。私が失敗したり成功したりするのも、どこかでそれを操ってて、一喜一憂してる存在がいる。そう考えると生きるのが気楽に思えるけど、反面怖いよね」

 操作を止めていた針山さんは、真っ黒になった画面のスマホをそのままポケットに仕舞った。短く息を吐いて、いちご牛乳を一気に飲み干す。空気を一緒に取り込む、ズズズッ、と音が鳴った。

「止めよう。いくら考えたって、結局生きるのはキツくて辛くて、ほんの少し楽しいよ。今はそうやって誤魔化すので精一杯」

 どのみちこんな場所で議論することじゃない、とでも言うように、針山さんは、席を立ち上がる。

「そろそろチャイム鳴るよ。戻ろう」

 彼女の言葉に促されるまま、帰り支度を終えていた私も立ち上がる。どうやら最初に言おうとしてたことは、誤魔化せたみたいだ。この時間に話していた内容より、そのことで胸を撫で下ろす。針山さんも、昼食の残骸を掌でくしゃくしゃに丸めて、二人、司書室を出る。図書室の受付に座っていた司書の先生が、私たちの姿を見つけて「もうそんな時間?」と時計を見上げていた。本来なら、この部屋は飲食不可になっているみたいだ。だけど、先生の優しさに甘えて使わせてもらっていた。話を聞くと、毎年私たちのように司書室を我が物顔で使う図書委員はいるらしい。最初に聞いた時は、居場所の無い生徒はいつの時代もいるんだな、と思った。針山さんが、愛想の良い笑顔を振りまいて、図書室を出る。その後ろ姿は颯爽としていて、同じ空間にいる私が申し訳ないように感じた。図書室の扉を閉めて、タイミング良く予鈴が鳴る。校舎内に、その重い音色を響かせたまま、私たちは次の授業が何かを話して、いつものように「面倒くさいね」と言い合った。


 ✽


 然程さほど自分のことを語るのは得意ではない。だけど、客観的な目線を持って自分自身――向日ひまり あおい――を語るとするなら、集合写真で友達の後ろに隠れたまま映り、何十年後に写真を見返してふと気づかれる。恐らくそんな地味な印象しか持たれていないのだろう。そして、その時一緒に思い出されるのは、十中八九“針山さん”だ。外面……もとい、人当たりも顔も良い彼女の強い印象のオマケとして付いてくるのが私だ。自己紹介をしても言葉に詰まる。私は、どんな人間なのか、自分自身でもあまり良く分かっていない。そんな人間が、どうしてクラスでも、華のある人物と交流しているのか。それも残念ながら、良く分からない。でも、机の上に座って話しているクラスメイトたちも、どうしてそんな風に交流しているのか、分かっていないんだと思う。一定の距離を保つ人付き合いは、得てして気楽なものだ。だから、私と針山さんの関係もそれで良いのだと思う。互いに踏み込まないから怖くない。心の内側を見せるのが怖いから、表面を触れ合わせるぐらいが心地よい。ただ、私は別に他者を煙たがってる訳ではない。寧ろ、クラスメイト同士の交流を見るのは好きだ。そこには、何かしらの他意は無いのだけれど、他者を観察するのは――人間観察とも言うのだろうか――ある種、習慣クセのようなものだ。一人でいる時間が多いから、つい人の姿を目で追ってしまう。本当は関わりたいけれど、踏み込むのが怖いから近づけない。こんな風になってしまったのを「私は悪くない」とは言わないけど、やはり“見えていたもの”が、一因を担っている気はする。

 私は“前世の自分”が見える。これは嘘でも、十四歳時期に一次創作の影響を受けて発症するイタイやまいでもなく、物心ついた頃から私だけに見えているものだ。……改めて言うと自分がイタイ子に見えて少し恥ずかしい。けど、おおむね間違っていないと思っている。“過去の自分が見える”、それは自分の身に起きた過去ではなく“私が私として産まれる前の自分”だということであり、死んだ人の魂が、別の誰かとしてこの世界に生まれ変わるシステム、所謂“輪廻転生りんねてんしょう”の存在を肯定している証明になっているということだ。……そう言われても信じない人がほとんどだと思う。こういう概念的な存在は『幽霊は信じるか?』の問いと同じで、大半は最初ハナから信じていない。信じている人でさえ、それは希望的観測に過ぎない。ともあれ、顔も知らない“誰か”の視界が、自身の視界を通して映し出される。そんな得体の知れない記憶と一緒に育ってきた。その記憶の持ち主がどこの誰なのか。知る術はない。視界を通じて分かったことと言えば、体つきや着ていたものから考えて男の子だった、ということぐらいだ。最近になり、私はその存在に“カレ”と呼び名を付けた。

 斯様かように、私は突然何もない空間に手を振ったり、話しかける変な子どもとして、友達から避けられ、小学校高学年に上がる頃には、立派に孤立していた。今思えば、幼い目にも、私のそうした行動に恐怖を感じていたんだと思う。振り返って考えると、自分でも恐ろしい。だから、中学生になった時は自身の行動を学習して、なるべく変な発言はしないように心がけてきたが、努力も虚しく同じ小学校だった人たちの口から、私の行動が伝わり、小学生時代と同じてつを踏むしかなかった。

 その頃になると、自分の視界に映る他者の視界を無視することができていたけど、自分の視界ながら、鮮明に映るその映像は、年齢を重ねる毎に現実味を帯びはじめ、見分けるのが困難になっていた。さすがに心配になり、中学生になった頃一度だけ、母親に話したことがある。だけど、現実主義な母親は『そんな事があるわけないわ。それは、新しい環境、変化についていけない不安からくる一種の幻覚症状よ。今日はゆっくり休みなさい』そう言って、一日学校を休ませてもらっただけで話は終わった。

 小、中学校での経験を活かす為、知り合いのいない、比較的、偏差値ランクの高めな高校を受験した。幸か不幸か、勉強をするのが苦ではなく、友人もいない為に時間も有り余っていたので、無事に合格することができた。人生は得てしてどこからでもリセットが効くものだと思う。学校名は『花海ヶ丘学園はなみがおかがくえん』。私立の女子高で、外装ディティールに力の入った、才女の通う箱庭がくえんだ。学園でのこれからの生活を想像して、柄にもなく心躍らせていた。また、その頃になると音楽を聴くことに傾倒しはじめた。漫画やゲーム等の娯楽を禁止されていたわけじゃないけど、ハマると抜け出せなくなりそうだったし、私の家は母子家庭だったので素直に「買って」と言い出せなかった。だから、高校入学祝いに登下校の安全の為、という名目で買ってもらったスマートフォンの動画投稿サイトから音楽を沢山聴いた。だが、それで友達が出来るはずもなく、小、中と会話の少ない生活を送っていた私は、入学後三ヶ月経っても、友人はおろか誰ともまともに会話すらできていなかった。教室で過ごすのも居心地が悪かったので、休み時間の度、教室の外に出て音楽を聴いていたそんな時だった。針山さんに声をかけられたのは。『何を聴いてるの?』とか。確か、他愛もないことだったと思う。笑みを絶やさず話しかける彼女に、最初自分が声をかけられたとは思わず無視を決め込んだ。二度、三度。話しかけてくれた彼女にようやく気づいた私は、やはり驚いて言葉にならず、彼女の問いかけに肯定か否定しかできなかった。

 針山さんは、自分の趣向を良く話した。音楽も良く聴くそうで、それまで邦楽……それも、ランキングに載っているような有名な曲ぐらいしか聴いてなかった私は、その時初めて“UKロック”という存在を教えてもらった。同じ趣味を共有する相手もできて、音楽の世界が広がったように感じた。将来は、音楽関係の仕事に就くのもいいな。高校二年に上がり、進路希望を聞かれた際には、密かにそう思った。けど、母親はそれを許してはくれなかった。

 母親は、県内の大学病院に医師として勤務している。将来的には紹介してあげると常日頃言っており「今は勉強をしっかり頑張りなさい」と話が出るたびに言われてきた。私も、そうなることが正しいと思い込み、勉強にのめり込んだ。母は、一度離婚している。母親の不注意で、私の兄に当たる子どもを、死なせてしまった為だ。もしかしたら、母親の期待を裏切らないよう、過度に張り切っているのかもしれない。

 心のどこかが鬱屈したような気持ちのまま、無事進級した、同じく高校二年の春。針山さんに誘われて、私は“図書委員”になった。彼女に比べて、特別本を好きというわけではなかったが、せっかくの誘いを無下にすることはできなかったし、密かに、内申点を少しでも良くする為、という強かな気持ちもあった。なにより……。

「……」

 唐突に、目が覚める。橙の、一際眩しい西日が窓から差し込み、体全体を照らしていた。

「あ、やっと起きた」

 針山さんの声が聞こえて姿を探す。場所は図書室。彼女は隣に座っていた。

「ほっぺ、髪の跡が付いてる」

 指摘され、慌てて掌で右頬を覆った。

「逆だよ」

 からかうように笑みを零す。彼女は、立ち上がって「暗くなるし、帰ろう」と言ってきた。やや遅れて、放課後に図書室の片付けをしていたことを思い出した。休憩と椅子に座ったばかりに、眠ってしまったみたいだ。

「……ごめん」

「いいよ。でも、今度“プレミアムいちご牛乳”ね」

 購買の自販機にある、飲み物としては比較的高めなプレミアムいちご牛乳。申し訳ない気持ちでいた私は、それを快く了承した。


 ✽


 桜の花びらがひらひらと流れ、通学路を柔らかな薄桃色ペールピンクに彩る。学生にとっても忙しかった、四月はもう終わりを迎えようとしている。学校でも、耳に入る話題の大半はゴールデンウィークの予定が占めていた。

 下校途中、針山さんが「本屋に寄っていい?」と訊ねてきたので頷く。バスを降りて、少し歩いた所にある書店に入った。彼女はそのまま、活字本の並ぶコーナーに直行している。取り残された私は、音楽情報誌のコーナーに向かい、たまに購入している一冊を手に取った。目次のページから、どのグループが出ているかを確認して、ページを捲った時、視界がごく自然に切り替わった。前世の記憶である“カレ”の記憶の断片が、映像としてロードムービーのように流れた。知らない歩道の、知らない商店街。それはどこかで見たようで、懐かしくもある。悔しくなり、寂しくなる。もうやめて。話しかけないで。それでも、言葉は伝わらず、向こうからの声すら聞こえないというのに。紺色のスカートが、首元に括り付けられた藍色のリボンが、風に乗ってふわりと揺れるような感触があった。軽く跳ねたやや癖のある髪の先をくすぐる。暑くも寒くもなく、暖かい。今日も、そういえばこんな陽気だった。春という季節は、過ごしやすく、眠たくなる。家に帰ったら少し寝てしまうことも考えたが、四月に入り後期中等教育の末期に入ってしまった身としては、勉強もしておかないといけない。受験に“万全”という状態はない。まして、進学校だ。成績はさして悪くないとは言え、私より頭の良い人なんていくらでもいる。流れに付いていけない人間は、ただ溺れて淘汰されていくのみだ。流れというのは良い方向にしか道を作らない。それに従うのは円滑で凪のような人生を送る為の定石でもある。それはまるで操り人形のようだけど。

「それ買うの?」

 いつの間にか隣に立っていた針山さん。手には、文庫サイズの活字本を持っていた。

「いや、買わないよ。暇つぶしに読んでただけ」

「あ。この人達、アルバム出すんだ。何か、久しぶりに見た気がする」

 偶然開いていたページに視線を落とす。載っていたのは、とある洋楽グループのインタビュー。針山さんの言う通り、アルバム発売に向けての意気込みがびっしりと書かれていた。

「ふ~ん……これを書くライターさんも大変だね。葵も、こんな仕事に就きたいんでしょ? 合ってそうだけど、何か似合わない」

 以前話が盛り上がった時、うっかり口を滑らせてしまったことがある。音楽関係の仕事、音楽を聴く仕事というのは非常に限られている。エンジニア、クラフトマン、音響効果……その中で、少しだけ惹かれたのは“音楽ライター”という職業だ。簡単に言えば、音楽を聴いてその感想を文章にする。私にしてみれば、まさに夢のような仕事だ。しかし、現実は甘いものではなく、実際に就けたとしても、決して安定した職業というわけではない。それに、そんな職業を母親は許してくれないだろう。

「いや……就きたいわけじゃないよ。あくまで夢。ナントカ戦隊になりたいとか正義の味方になりたいとか。遠くて儚い妄想だよ」

「そんなに離れてないじゃない。現実に、それでお金を貰っている人もいるわけだし。趣味を仕事にするのは、辛いけどそれ以上にきっと楽しいよ?」

「そうだね……」曖昧に笑ってはぐらかす。彼女の言いたいことも分かる。分かっている。でも、レールの敷かれた人生とはいえ、そのレールを必死の思いで敷いたのは母親だ。なら、娘の私には、その上を通らせてもらう以上の親孝行は思いつかなかった。

 納得のいかない表情の針山さんは、それ以上は追求せずレジに向かう。支払いを済ませ再び外に出ると「お腹空かない?」針山さんが訊ねてきた。

 下校途中、どこかに寄っていくことは良くある。もちろん、校則では禁止されているけど、見つからなければオーケー、という暗黙の了解があった。母親は、今日も遅い。普段は私が学校帰りに買い物をして夕飯を作るようにしているが、たまに簡単な物にしても怒られたことはない。母親は、食にあまり関心がないらしい。

「どこかに寄る? 私はいいよ。今日はお母さん遅いし」

「うん。何か食べたいのある?」

「……ラーメン?」

「また?」針山さんが、呆れたような表情で訴えてくる。

「たまにはさ、クレープとか、アイスとか。女子高生らしいものにしようよ。ラーメンなんて、男子高校生の定番だよ。下校途中の女子が食べるものじゃないよ」

 隣で“女子高生の買い食いとはどういうものなのか?”を長々と説いている中、足は近くのラーメン店に向かって歩き出していた。


 ✽


 店内に入ると威勢の良い声が響く。空っぽの胃袋を刺激する匂いと、床に染み付いた油の感触が靴底を通してまとわりついた。地元の小さなラーメン店。未だに渋っている彼女を宥めつつ、空いている席を探す。夕方の、まだ客足の少ない時間帯のカウンターは空いており、楽に座ることができた。メニュー表を見るまでもなく、ラーメンを二つ、彼女が注文した。「麺の硬さはどうされますか?」と聞かれ「普通と柔麺で」と針山さんが私に確認することもなく返す。私がいつも柔麺を頼んでいることを知っているので有難い。

 伝票に記入した店員は、たった今取った注文を奥に呼びかけて離れていった。その間、セルフサービスの水を二人分汲んできて、片方を針山さんに渡す。

「ありがとう」お礼を言いながら受け取って、やはり油っぽい机に置いた。私は少し口を付ける。冷たい水が、喉を通った。メニューを見ていた彼女は、思い出したように話しかけてくる。

「そういえば、柔麺は邪道らしいよ。テレビで言ってた。通は硬麺なんだって」

「それ、おじさんとかおじいさんが言ってたでしょ? 硬麺食べる人は頭も硬いんだよ。麺ぐらい、好きな食べ方で食べさせてよ」

「いいよ」

 何故か許してくれた彼女に適当なお礼を言った。会話にも退屈したのか、スカートのポケットからスマートフォンを取り出して、弄りはじめる。私もそれに倣って、自身のスマホで適当にネットを流し見ようと思った時、目の前に違う光景が流れた。

 ……あぁ、“また”だ。

 脳内に渦巻く郷愁ノスタルジィ。自分と違う誰かの記憶。カレは厨房を見ている。湯気立つゆで麺機から麺の入った湯切りを取り出し大きく上下する。それを丼の中に入れると店員がこちらへ運んでくる。

『おまたせしました』

 声が、ステレオフォニック再生みたいに聞こえた。

「葵?」

 ふと我に返ると、目の前には既に湯気をまとわせた丼が置かれていた。こちらを見る針山さんの顔と去っていく店員の背中を見て、自分が心此処にあらずであったことに気づく。

「どうしたの?」

「……ううん、何でもない。食べよう」

 気を取り直して、目の前の箸立てからプラスチック箸を一膳取った。そのまま手の平を合わせて静かに頭を下げる。礼節を重んじる校風が染み付いているせいか、例え郊外であってもこういった挨拶は欠かさない。

 まずは麺から。乳白色の表面から、数本の麺を持ち上げる。表面に溶ける油の層が麺に絡まり、光沢を放っていた。濃く香る豚骨スープが、空いた胃袋を刺激する。受け皿に乗せられたレンゲで麺の末端を持ち上げ、一気に麺を啜った。喉ごしの良い麺が小さな口の中に収まり、そこにすかさずスープを流し込む。熱が、喉を通り、胃の中へ落ちていった。……美味しい。普通のラーメンではなく大盛りにしておけばよかった、と思ったけど性別が邪魔をした。体型の割には良く食べる、というのは隣で黙々と麺を啜っている友人の弁である。しかし、地元のファストフード店でアイスやクレープを食べている同年代を見ると、学校帰りにラーメンを食べているのは、さすがに無いのかもしれない。針山さんの言うように、もう少し“女子高生らしさ”も考えるべきだというのは自覚しているが、何故か毎回ラーメン屋に寄ってしまう。単純に麺類が好きなのもあるけど、時々、私の嗜好なのか、それともカレの嗜好なのか、分からなくなる時がある。カレも、ラーメンが好きらしい。私がこの店や別のラーメン店に入った時、視界を共有することが多い。そんな時、決まってカレは隣にいる。厨房の奥を覗き込んでいた。

 箸で持ち上げた、湯気の立つ麺に吐息を吹きかけ啜る。表面に見えていた麺は、徐々にスープの底に沈んで見えなくなった。……こうしてラーメンを食べていると、映像が鮮明に蘇る。多分、私たちは似た者同士なんだ。似た者同士で、近いはずなのに限りなく遠い。手を伸ばせば届く距離に見えるのに、お互いのことは何も知らない。近づく為に、何が足りないのか。きっと、何もかも足りないんだ。個体の絶対数が。

 最後の麺を啜り、やや物足りない気持ちはスープで補う。少し胸焼けをしてきたところで、飲むのを止めて手を合わせた。

 隣は既に食べ終えていて、汲んできた水を一気に飲み干している。食べ終わったなら店を出ようかと、声をかけてラーメン一杯分の料金を彼女に渡し、レジで一緒に支払ってもらった。店を出る。ラーメンで火照った体に、建物の隙間から現れた春風が、私たちを擽った。

「外の風、気持ちいいね」

「そうだね」

 空は、橙から瑠璃色へ。陽は落ちていく。春の宵に空洞のような静謐せいひつ。夏よりも早く、冬よりも遅い。

「今日はスーパー行くの? また付いていってあげよっか?」

「良いけど、惣菜買うだけだよ?」

 彼女はそれを了承して、少し歩いた先にあるスーパーに向かった。

 自動ドアが開き、買い物カゴを取る。お菓子コーナーで立ち止まった針山さんを放っておいて、惣菜コーナーへ。この時間は随時補充されているらしく、まだまだ惣菜は残っていて、選び放題だった。そこから、袋に入ったサラダとコロッケを選ぶ。白米と汁物は、家にあるもので何とかすることにした。

「決めた?」

 お菓子コーナーにいた彼女が向こうから歩いてくる。私が頷くと、カゴの中に持っていたお菓子を入れられた。

「今日の仕事負担分。いちご牛乳じゃなくて、こっちがいいや」

 入っているのは、チョコレートのお菓子だった。私としてはどちらでも良いので、甘んじてそれを受け入れる。混雑するレジに並んだ。支払いを済ませて、店を出る。そこで彼女とは別れた。

「また明日。これ、ありがとうね」

「うん、またね」

 お菓子を持った手を掲げる。女子の別れ際としては淡白だけど、いつもこんな感じだ。

 そこから家までは歩いて十分前後。歩き慣れていない私でも、余裕の徒歩圏内だ。薄暗くなった夜道を、街頭が照らす。多少の怖さを紛らわせる為、スマートフォンにイヤホンを繋ぎ、音楽を流した。

 三曲目のサビが流れ始めた頃、約十二時間ぶりに帰宅する。住宅街に並ぶ、二階建ての一軒家。鍵を開けて中に入ると、玄関先で“弟”と鉢合った。

「ただいま。夕飯は?」

 弟はこちらを見た後、何も言わず二階へ上がっていく。返事くらいしなさい、と姉らしく言いたいけど、弟も反抗期の最中だ。ちょうど姉や家族の存在を疎ましく思う年頃なのだろう。どうせいつもご飯いるのかどうか聞いても、首を横に振っているので、帰りにどこかで食べてきているんだと思う。靴を脱いで、食卓の机にスーパーの袋を置く。制服のまま、先ほど買ってきたサラダとコロッケを取り出し、お皿に盛り付けた。お米を研いで、炊飯器のスイッチを入れる。冷蔵庫からインスタントの味噌汁を出した。

 夕食の準備も簡単に済ませ、残っていた朝食の洗い物を片付ける。それも終わると何もすることが無くなったので、二階に上がって机に向かった。勉強……をしようかと思っていたけど、気づいたら趣味で時々書いている“ノート”に手を伸ばしていた。そのノートには、特に気に入った音楽の感想を書いている。最初は雑な文章だったのが、最近、自分で読んでも面白いと思えるようになってきた。針山さんから勧められた活字本を読んでいるおかげだろうか。適当にページを捲って読み返した後、また机の棚に戻す。その隣には、気になっているアーティストのインタビュー記事を切り抜いて、ファイリングして取っていた。教科書の間に巧妙に隠して、ようやく勉強をはじめる。教科書とノートを広げ、背伸びをすると、トラバーチン模様の天井が広く包み込むように、私を見下ろしていた。……こうしている時が、一番孤独を感じる。天体望遠鏡で覗き込んだ星のように、限りなく広い世界で、一人ぼっち。そんな気持ちを紛らわせるように、今日の授業の復習から手を付ける。勉強は反復だ。どんなに頑張って知識を詰め込んでも忘れる時は忘れる。でも、何度も繰り返し覚えた記憶は忘れにくい。

 ……四時間程集中して机に向かい、時計を見れば、もう遅い時間になっていたのでお風呂に入る。歯磨きをして、居間のソファーに座る。スマホを手に取り、ブラウザ内に流れているニュース欄を流し読みした。世相も一応知っておかないと、受験に出るかもしれない。

 一通り社会の動きを確認した所で、画面を閉じてポケットに仕舞う。時間がどれくらい経ったのかは分からないけど、母親が帰ってくる気配はない。元々、私が起きている時間に帰ってくることは稀なので、待っていたわけではないのだが。

 ソファーから立ち上がる。電気を落として二階に上がった。ふと、階下を振り返る。そこには、誰もいるはずがなく、暗い玄関をただ見つめていた。



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