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僕の聲を聞いてくれ  作者: 白井 滓太
序幕:ニューロシス
1/10

 うつつには

 逢ふよしもなし


 夢にだに

 間なく見え君



 恋ひに死ぬべし



                         万葉集 第十一巻 正述心緒 より


 空から夜が奪われると、街はにわかに動きはじめる。雀のさえずりが聞こえきて、白んだ空に浮かぶ雲が、ゆっくり滑りはじめる頃。私は、荷物を詰め込んだ大きなリュックサックとショルダーバッグを背負った。両肩に、自分の罪悪感がのしかかったみたく、重みを感じる。決意をするように息を吐いて、大きく息を吸った。それから出る間際、自室を振り返る。同年代から見ると、娯楽の少ない殺風景な部屋だった。でも、そこには愛着もあれば、情もある。何も失わずに逃げ出すことは、今の私には難しかった。こみ上げてきたものを飲みこむように上を向いて、部屋を出た。母親の居ない寝室を確認して。戸締りや火の元を確認して。いつもの登校と何ら変わりないように玄関へと向かった。

 この旅立ちには「バイバイ」も「グッドラック」も似合わない。だから、楽しくて堪らなかったあの“日常”に、せめて「クソッタレ」とだけ残しておこう。

 玄関に並べられた愛用の靴――白いコンバース・オールスター――の靴ひもをギュッと、結びつける。沈黙が「サヨナラ」を柔らかく包んだ。見送る人はいない。母親は昨日の夜遅く、仕事場から呼び出しがかかり出てしまった。そしてこの家の、もう一人の住人は……。

 不意に、後ろから視線を感じる。僅かに首を動かして視線の先を辿ると、弟が何も言わず側に立っていた。「なに?」とか。「起こしちゃった?」とか。そんな言葉を発する前に、驚きと戸惑いで、私の口は半開きのまま強張る。玄関に座る私を見下ろしたまま。

『どこかへ行くの?』

 そう聞こえた気がして、目を背ける。言葉を押し込めて、感情を押し込めた。いろんな思考をどこか隅へ追いやった。

『……いってらっしゃい。気をつけてね』

 何も言わず、弟は私の背中を見送ってくれた。首を傾けることもしない。何かを伝えることもできない。何もできずに立ち上がった私は、玄関の扉を開ける。自分の家の筈なのに、他人の家を出るような錯覚に陥った。

 薄暗さを残した空と、活動をはじめた街の音が、視覚と聴覚に吸い込まれる。五月も間近だというのに、思ったよりも外の風は、まだ少し肌寒かった。

 開きっぱなしの玄関を一瞥する。かけられる言葉は見つからない。お互いに、何も言わないまま……私はその顔も見ずに、静かに玄関を閉めた。

 だって、ほら。言葉は有機物だ。

 簡単に人を生かすこともできれば、簡単に人を殺すこともできる。私たちが扱うには、余りにも難解なシロモノで、思考を言葉として吐き出して“哀しい”とか“嬉しい”とか表現するのは、とてもとうとい行為に感じられた。

 例えば、全ての人類の“思考”というものが一つの思念体によって統一されていて、人と人との擦れ違いや仲違いがそれらの気まぐれに付き合わされたただの思考遊戯だとしたら。そんな時、私は他人が何か別の、感情を持たない操り人形のように見える時がある。“会話”というものが全て薄っぺらい上辺だけに見えて、“交友”という行いが焼けただれた皮膚のようにグズグズと剥がれていく。……でも、人は言葉を、声を発することでしか、他者との繋がりを保てないから、多分私はこんなに悔しいんだろうな。言葉を失いたい。いっその事、私は数字にでも生まれたかった。

 春の風にあおられて、歩道に立つ木々がざわめく。熱くなった私の頭を、スゥッと冷まして、通り過ぎていった。

 くしゃくしゃになった髪の毛を撫で付けて、見慣れた家の前の歩道に目を向ける。

 自分でも驚いたのは、涙が出なかったことだ。初めから私は、心の一部がどこか病んでいたのかもしれない。生まれ育った町――花海町はなみちょう――にはもう帰ってこないかもしれないのに。今はただ、弟の姿を反芻はんすうしていた。

 私は、何かを言うのが正解だったのか。信じていた弟のことも、心のどこかで疑っていたのだろうか。重さを増していく感情に押しつぶされそうで、目を閉じた。街の静けさに溶け込むように、歩き出す。

 犬は生き延びて、狼は絶滅した。ただ人に尻尾を振ったか否か、それだけの差違で。それが世界の縮図なのだとしたら、あまりにもやる瀬無い。

 自分という存在が、他者に埋もれやすくなった世界で、そうして私は“カレ”を探す旅に出る。

 目で追うな。耳を塞げ。何も感じるな。

 だから、こんなに現実を悲観して、自身を正当化する言い訳をのたまっているんだろう?

 だって、逃げるのは、いつだって弱者と決まっているから。

 できれば、淑女らしく笑っていたかったけど。

 何か言ってあげたかったけど。

 でも、できるだけ早く……


 さよならだ。


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