降りしきる
頭を垂れた葉を雨粒が打つ。その雨垂れが山林の景色を煙らせていた。水を含んだ腐葉土はぬかるみ、ぶよぶよになっていた。
楢の木の下で、一人の少女が膝を抱えて座っていた。擦り切れた傷が目立つワンピースは泥の色が染み込んでおり、そこから伸びる手足は痩せこけていた。靴すら履いておらず、土気色をした素足は、虫に食い荒らされたように皮膚が削げ、白く変色した肉の繊維や骨をさらけ出していた。
右腕はとくに腐食が進んでおり、ほとんど肩口から骸骨のそれとなっていた。まだ肉が残っている左手と骨だけになった右手が、膝頭の上で退屈そうに指を絡めている。
全身が濡れそぼつ少女の容姿は、まだ十に届くかどうかというところだった。針金を束ねたような長い黒髪はたくさんの水を吸って、華奢な肢体にべっとりと絡みついていた。顔にかかった前髪の隙間から、白く濁った右の瞳が虚空を見つめている。
雨が降りしきる木立のあいだから、濡れた足音が聞こえた。初めは雨音にかき消されそうだった靴の音が、ひどく歩きにくそうな調子で近づいてくるのがわかった。
目の前に人の気配が立つ気配がし、少女の頭上に大きな影が差す。彼女は緩慢な動作で顔を上げた。左の顔半分を攫っていた長い髪が肩口に落ちた。
生前の面影を残した顔立ちだった。しかし左半分の顔は、肉片がこびりついた頬骨を晒していた。奇麗に整った歯並びが奥歯まで見て取れる。眼球が抜け落ちた眼窩は昏々と闇を湛え、眼前の人物を見上げていた。
愛くるしい容貌を断片的に残しているだけに、腐り落ちた肉の繊維と骨をあらわにした部分はより際立ち、おぞましい。もはや人ならざる少女に見つめられた人物は、しかし悲鳴を上げることはなく、にっこりと笑った。
「やあ、やっと見つけたよ。迷子になっているのはきみだね」
およそ二十代前半の青年だった。平均より抜きん出て背が高く、樫製のトグルで留められた灰色のダッフルコートを着ていた。同じ色をしたカーゴパンツ、紐で編み上げられたブーツが泥にまみれていた。
彼が片手に差しのべていたのは、暗色の大きな雨傘だった。頭上に差した影の正体はこれらしい。氷雨を受け止める傘布ができそこないのドラムロールのごとく鼓膜を打つ。
少女は半ば削げ落ちた口を開いた。
「だれ……?」
その問いに、青年は微笑みを湛えて答えた。
「ぼくの名前は引屋というんだ」
「ひきや……?」
ダッフルコートの青年に手を引かれて、少女は首を傾げた。長い毛髪が数本ほど抜け落ち、泥の水たまりの上に浮かんだ。
骸骨になった手を握り締めた青年は、もう片方の手で傘を掲げ、山林の傾斜を頼りなげに下っていた。幾度か踏みしめた枯れ葉の絨毯に足を取られそうになった。
「そう、安直だけれどね。ぼくの名前であり、職業でもある。きみのような、あの世にもこの世にも行けなくて迷子になっている人たちの手を引いていく生業をしているんだ」
「なりわい?」
「お仕事のことだよ」
山林を覆う雨は降り止むことを知らなかった。楢やブナといった木々が佇む景色は霞み、二つの寄りそう人影を浮かび上がらせていた。灰色に濁った空は朝とも日暮れともつかない色合いをしており、時間さえよくわからない。枝葉が絶えず水を弾く音、雨水を受け止める腐葉土が泡立つ音に混じり、ブーツの硬質な音と裸足で踏みしめる柔らかな音が重なり合っていた。
引屋と名乗った青年は上背のわりには痩身だった。夕暮れの長く伸びる人影を連想させる。ぼさぼさとした髪をしており、瞼を閉じているのではないかというぐらいに目が細い。口元に浮かべる笑みは飄々としていて、何を考えているのかさっぱり得体が知れない。
だが少女の手を握った掌はどの大人よりも大きく、不思議な温もりを帯びていた。母親と手をつないで歩いた日々を思い起こし、ふと懐かしさが胸を満たした。
彼の手の感触をたしかめながら、少女は引屋を見上げた。
「でも、知らないひとについていっちゃだめって、おかあさん言ってた」
舌足らずな言葉に、ダッフルコートの青年は苦笑いした。
「それは、全くそうだね。でもぼくは誓って怪しい人ではありません……我ながら、あまり説得力はないんだけどね」
引屋は肩をすくめる。
「でもまあ、信じてもらえないかな。高瀬まゆちゃん……だったね」
「まゆのこと、知ってるの?」
「ああ、そうだよ。どうしてきみがあんな場所にいたかも、ね」
しばらく斜面を下ると、唐突に木立が途切れた。アスファルトの道路が現れ、山林の逆側はガードレールになっている。どうやらその向こう側は崖らしい。篠突く雨が舗装された路面を絶えず逆立たせていた。やれやれ、と青年は呟く。
「ようやく道らしい道に出れた」
ぼやく彼の衣類には飛沫のごとく泥水が飛び散っていた。少女は久しぶりの平らな地面の感触を思い出すように、裸足でぴちゃぴちゃと足踏みをしていた。そのたびに雨水が跳ねる。
引屋は傘を掲げ直し、まゆという名の少女に言った。
「さて、行こうか。もうすぐだよ」
「どこに行くの?」
「この先にトンネルがあるんだ。いわゆる霊道というやつでね……そこを通り抜ければ、きみはあるべき場所に行ける」
二人は山の木々とガードレールが果てしなくつづく道路の先を見た。雨で霞み、芒洋とした景色があるばかりだった。
「あるべき場所……?」
「天国、ようなものかな」
青年は柔和な笑みを口元に浮かべる。
「きみを送り届ければ、ぼくの仕事はそれで終わりさ」
鼻歌でも混じりそうな調子で言って、まゆの手を引いて足を踏み出そうとする。しかし思わぬ抵抗にあって立ち止まらざるを得なかった。彼は訝しげに振り返る。
俯いた少女は、その場から動こうとはしなかった。
「まゆちゃん?」
「いや」
「え?」
「まだそこにはいきたくない」
こわばった髪の隙間から上目遣いに引屋を睨んでいた。白濁した瞳に、底光りする意志の強固さを垣間見た。
青年は困り果てて眉を寄せる。
「行きたくないって、急にどうしたんだい。きみだって、ずっとあんなところにとどまっているわけにはいかないだろ?」
まゆは強く頭を振った。振り乱れた髪の毛がアスファルトに散らばり、首の皮がねじ切れていやな音を立てる。その動きがぴたりと止まった。
「これでおわかれなら」
震えるような、か細い声音だった。青年を見上げる幼い顔には、懇願の色があった。
「おかあさんに会いたいよう」
引屋は複雑そうな面持ちをした。背を屈めて少女の頭に優しく手を置く。ごわついた髪を撫で、できるかぎり穏やかに語りかける。
「気持ちはわかるけどさ……やっぱりだめだよ。きみの町はここからずいぶんかかるし、それにさ、理由はきみにだってわかるはずだろう?」
彼はあらためて、少女の容姿を眺めた。ところどころ髪が抜け落ち、頭皮が覗く。肉片がこびりついた、黒い眼窩。泥の色が染み込んだワンピースはぼろぼろで、腐乱した皮膚の色と、何より骸骨の手が目を引いた。
「お願いだから、聞き分けてくれないかな」
頭に置いた掌から震えが伝わってくる。引屋は彼女が落ち着くのを待った。全身の震えが少しずつおさまり、やがて止まる。ほっと息をついたのも束の間、向こう脛に激しい痛みが走った。彼は傘の柄を思わず手放す。
青年の脛をまゆが思いっ切り蹴飛ばしたのだった。その衝撃で足の親指がもげたが、彼女はまるで気にとめていなかった。
「つれていってくれないなら」
地の底から響いてくるような、おどろおどろしい声だった。
「ぜったい、ここからうごかないんだから」
予想だにしなかった攻撃に、脛をおさえてしゃがむ。青年は些か呆然として、まゆを見上げた。
雨に濡れて佇む少女の顔には、いくつもの水の筋が流れていた。ぽっかりと空いた眼窩に流れ込んでいく。穴から溢れ返り、顎を伝って滴り落ちた。
引屋はため息をついた。立ち上がり、横たわった傘を拾う。ダッフルコートが濡れて、濡れ鼠色の染みを散らしていた。
少女の頭上に傘を傾けて、彼は言った。
「やれやれ……だいぶ歩くよ」
雨の音が静寂を紡ぐ。ガードレールに沿って山腹に伸びた道路はゆるやかに湾曲している。その長い道のりを、二つの影が並んで雨傘の下におさまり、ゆっくりと歩を進めていた。
「車、ぜんぜんとおらないね」
骸骨の手を引かれながら、まゆは言った。片足の指が減ったおかげで、引屋は彼女が転んでしまわないように歩調を合わせる必要があった。
「それはそうだよ。だってここは幽世だからね」
「かくりよ……?」
また難しい言葉が出てきた、と言わんばかりに少女は顔をしかめる。楢の木の下で出会ったばかりのころと比べて、見違えるほどに表情豊かになっていた。きっと本来は活発な性格なのだろう。
空疎な道を歩きながら、引屋はまゆに説明を施す。
「そう。あの世とこの世の挟間にある、どっちつかずの世界のことだよ。本当なら生きている人間も死んでいる人間もここにいちゃいけないんだ」
苦笑いする。
「まあ、だからこそぼくのような存在もいるんだけどね」
よくわかんない、と少女は憮然としていた。視界を覆う雨の中で、耳朶を打つのは自分たちの足音だけだった。
「ほんとに、こっちにいったらまゆのおうちにつくの?」
「ああ、間違いなくね。……また蹴飛ばされたらかなわない」
最後は小声になった。
「なに?」
「いや、何でもないよ」
他愛のないやり取りを交わしながら、雨足の衰えない空の下を二つの影が寄り添って歩く。そのさまは、年の離れた兄妹のようでもあった。
長い道中、ぽつぽつと話をした。
「おにいさんは、しにがみなの」
「難しい言葉を知っているね。でも、ちがうよ。ただの案内人さ」
「どうしてこんなお仕事をしてるの?」
「さてね。それがぼくの役割だから、かな。少なくとも同業者にお目にかかったことがないね」
子供ながらの質問攻めに、引屋はとぼけた答えを返す。その繰り返しだった。
「じゃあ、どこからきたの?」
「それこそ難しい質問だね。上手に答えるのは、とても難しい……」
「お母さんのこと、まだ好きなのかい?」
引屋が問い返すと、まゆは躊躇いなく頷いた。
「うん。まゆのおかあさんね、とってもやさしかったんだよ。夜のお仕事いそがしいのに、まゆのお弁当を毎日つくってくれたんだ。お買いものにもたくさんつれていってくれたの」
はにかんだ笑みを作る。
「おかあさん、今どうしてるかな。また泣いたりしてないかな。あいたいなあ……」
懐かしげに語る少女を、ダッフルコートの青年は静かに見下ろす。名状し難い感情が顔をかすめ、すぐに微笑みを取り戻した。
「そうだね。きっと、会えたらいい……」
そうして二時間ほど歩いただろうか。ガードレールを隔て、切り立った崖の向こうに霞みがかった町並みが望めた。まゆはガードレールの縁に駆け寄って上半身を乗り出した。
「みて、まゆの町だ」
「どうだい、ちゃんと着いただろう。危ないから離れよう、ね」
指差して叫ぶ少女の身体をガードレールから引き剥がした。
そこから先は、まゆが先行する形となった。青年の手を引っ張る少女はいくら宥めても、浮き足立ってじっとすることがなかった。
町に向かう下り坂の途中で、まゆは何度か転倒した。アスファルトの路面に肉片と皮が貼りつく。おでこを擦り剥いて頭蓋骨の白い部分があらわになっても、彼女は無邪気に笑っていた。泥水にまみれた顔を、ダッフルコートのポケットから取り出したハンカチで拭ってやる。まゆはくすぐったそうにしていた。
肉体の欠損から目を背ければ、どこにでもいる普通の子供だった。
山の麓にあるガソリンスタンドは無人だった。給油機のホースは垂れ下がり、停車している車は一台もない。営業所はがらんとしていた。その傍らを、二つの人影が通り過ぎていく。
閑散とした町だった。雨に濡れた信号機の灯火は消え、どんな色も映してはいない。灰色の空に林立するビルは、あるいは墓碑にも見えた。車はおろか通行人でさえ見当たらず、まだ高い建物が少ない道路は実際より広く感じる。
ずっとはしゃいでいた少女は空虚な町並みを見渡し、虚をつかれたようにしばらく放心していた。
「だれもいない……」
ダッフルコートの青年はこともなげに言った。
「だから言っただろ。ここは、幽世なんだ」
コンビニエンスストアの前を通り過ぎる。ガラス張りに透ける店内は雑誌棚や陳列棚があるばかりで、店員も客も一人としていない。
交差点を渡った。その先は小さな商店街だった。至るところに乗り手がいない自転車が駐車され、鮮魚店や青果店、コロッケなどの揚げ物を扱う店などがあった。少女はいきなり走り出した。
引屋があわてて追いつくと、古びた感のある写真屋の前にいた。そのウインドウには七五三の晴れ着を着た子供やウエディングドレスをまとった花嫁の写真が飾られていた。
「ぜんぜんかわってないや」
変わり果てた自分の顔が映るガラスを撫でる。
「ここにはおかあさんとよく来たんだよ。いつも飴玉かってもらったんだ」
青年は何も言わず、まゆの頭を撫でてやった。
ひとしきり商店街を眺めてから、反対側の通りに出た。マンションとビルが混在する町並みを二人きりで歩く。
鉄橋を渡った。欄干から見下ろす川は水かさが増しており、激しい濁流だった。荒れ狂う川の流れは轟音を生み出し、耳の鼓膜を痺れさせた。
土手沿いに進むと、侘しげな住宅地が見えてきた。古い木造の住宅とアパートが混然と散らばっている。とある軒先には錆びたスコップとおもちゃのスコップが置き捨てられていた。
「まゆのおうちは、こっちだよ」
急ぎ足になる少女に手を引かれて、狭い路地を通り抜ける。下水溝には濁った水が溢れていた。
やがてブロック塀に囲われた、二階建ての木造アパートの前に辿り着いた。敷地内は土が剥き出しになっていて、あちらこちらに水たまりができている。各階のドアのすぐそばには洗濯機が置かれ、庭には物干し台がぽつんと据えられていた。
降りしきる雨が背景にあるためか、年季の入ったアパートは輪郭がかすれていた。灰暗色に塗り込められ、建物そのものが影に見えた。
暗がりに溶ける蝙蝠傘の下に、二つの人影が佇んでいた。
「ここだね」
「うん……」
こっくりと頷く少女は、緊張した面持ちだった。骨を剥き出しにした指が、青年の手にきつく食い込んでいる。
「おにいさん」
「うん?」
「ほんとうに、おかあさんにあえるの」
まゆは彼の顔を凝視した。白く濁った瞳と眼球のない昏い眼窩。頬骨があらわになった口の片方で、奥歯を食い縛っているのが窺える。
引屋は唇を薄く歪めた。
「ああ、穴を空けたからね。ほんの短いあいだだけど、今このアパートは現世とつながっている」
やんわりと手を離した。
「行ってごらん。お母さんに会えるよ」
少女の表情に喜色が浮かんだ。うん、と力いっぱいに頷くと駆け出した。泥濘に足を踏み入れると泥水が跳ねる。ブロック塀を背にした青年の耳に、アパートの階段を上る足音が聞こえてきた。どうやら二階に母親の部屋があるらしい。
次いで、ドアが重く軋んで開く音。わずかな静寂が訪れて、雨の音を凄まじい絶叫が引き裂いた。
「まゆ、まゆ。ここに、どうして」
くぐもった女の金切り声が、敷地の外にいても耳朶を打った。
「埋めたはずなのに!」
にわかに雨の勢いが強まった。引屋は傘の下から空を仰ぐ。とうに色彩を失くした白い虚無が広がっていた。
「来ないで、化け物」
ひときわ甲高い悲鳴が尾を引いた。あたりにこだまする絶叫は、やがて不意に途切れた。雨傘を打つ冷たい雨の音が鼓膜に満ちる。
階段を下りてくる気配がする。青年が肩越しに振り返ると、死人の少女が戻ってくるところだった。骸骨の手の中に、飴玉を転がすようにして何かを握り締めていた。
とても嬉しそうに笑んでいる。
「もういいのかい」
「うんっ」
弾んだ声が返ってくる。息を切らす様子もなく駆け寄ってくる彼女の右手は、赤く粘ついた液体で塗れていた。
「何を持っているのかな」
「これはねえ……」
まゆは含み笑いをした。勿体をつけるように面を伏せて、両手で何かを押し込む仕草をしていた。
あどけない顔を上げる。何もなかったはずの眼窩に、ぎょろりとした眼球が埋め込まれていた。明らかに大きさが不揃いのその目は、血だまりから引き上げられたように真紅に染まっていた。溢れ出る鮮血が、頬骨を伝って落ちていく。
「まゆのはなくしたから、かわりにおかあさんのをもらってきたの」
お気に入りのアクセサリーを見せびらかすかのように、にんまりと笑う。
「にあう?」
引屋はとてもあいまいに頷いた。
「ああ、よく似合っているよ」
そう答えなければ、また蹴飛ばされる予感がした。
相変わらず雨は降り止まなかった。ふと少女が空を仰ぐ。母親の血で濡れた骸骨の手が洗い流されていくのを見て、名残惜しそうな声を漏らした。
「ねえ」
「何だい」
「どうしてずっと雨がふってるの」
ああ、と引屋は首を傾けて笑う。
「落ち着くだろ?」
虚空に降りそそぐ雨粒を受け止めるように、片手の掌を伸ばす。
「奇麗なものも、そうでないものも、全てあいまいにしてくれる」
少女は無邪気に言った。
「でも、ぬれちゃうよ?」
青年は、きょとんとした。
そして苦笑いをした。
「そうだね」
少女に手を差しのべた。
「じゃあ行こうか」
骸骨の手を引いて、ダッフルコートの青年は少女を連れていく。傘の下で手をつなぐ二人の影は、絶え間ない雨の中に溶けて消えた。
雨の音だけが降りしきっていた。