第九十四話
ナディアとフェルナンの書斎に入ると、既にイザーク達が荷物を持って待っていた。
しかも、エドワードとブラドだけではなく、クルトとそのパーティの面子も揃っていた。
物々しい雰囲気に包まれた書斎に志希は、ますます嫌な感覚が強くなる。
そんな彼女を促し、ミリアはカズヤ達が固まっているところに空いている椅子に座る。
志希も慌ててそれに続き、イザークの隣の椅子に座る。
フェルナンとナディアは書斎を見回し、全員が落ち着いたのを見計らってからフェルナンが口を開く。
「今日、ミシェイレイラ神聖国に属する境界線より大量の人間が現れた」
大量の人間、という言葉に志希は思わず首を傾げる。
ミシェイレイラ神聖国は宗教国家だが、軍人は存在する。
彼らが攻め入ってきたのであれば軍隊が現れた、と言うはずだ。
人間という言い方に引っかかった志希は、フェルナンの言葉の続きを待つ。
「彼らはわが村とも交流のある村人で、助けを求めてやってきたのだ」
「助け?」
訝しげな声音で呟いたのは、ライルだ。
眼鏡を人差し指で直しながら、問いかける。
「助けを求めるのであれば、ミシェイレイラ神聖国の方ではないのですか? 実際、このあたりには国境を定める砦があったはずです」
「その通りです。ですが、あちらの村の司祭が砦に行くのは危険すぎる為にこちらに助けを求めたと言うのです」
村を取り纏めるのは村長だが、この村の様に聖職者達が口を挟む事は多々ある。
しかし、今回の様に村長だけではなく、ミシェイレイラに属するであろう聖職者が他国の聖職者に助けを求めるなど滅多にない。
まして、国境を取り纏める兵士の多くはミシェイレイラの国教であるエルシル神の信徒だ。
慈悲深き大地の女神の信徒に助けを求められない事情など、本来ならあり得ない。
しかし、この話を聞いたクルトのパーティメンバーの盗賊であろう女性が口を開く。
「ここ半月ばかり、実はミシェイレイラがキナ臭いっていうのは冒険者の間では噂されていたわ」
「え?」
女性の言葉に思わず声を上げるミリア。
ミリアにとってはいずれ帰るべき生国であるのだから、その噂が耳に入らない事はないはずだ。
本来であれば、の話だが。
一月近くマリール村に留まっているのだから、噂を聞く事も出来ないのは仕方のない事だろう。
アリアも驚いた表情を浮かべ、クルトのパーティをじっと見つめている。
その視線を受けてか、ライルが口を開く。
「ミシェイレイラ神聖国では、何故か人の出入り自体が規制され始めたのです。と同時に、国境沿いの村で徐々に人が消えていく、という事態も起き始めた」
「それは、おかしいのでは?」
ナディア司祭の言葉に、頷いたのはベレントだ。
「さらにおかしいのは、ミシェイレイラの方から戦の風が吹いておる」
この言葉に、志希は思わず絶句してしまう。
ベレントは戦女神の神官だ。
戦場に現れ自身が正義と定めた者達と共に戦う神官は、どこに居ようとも大きな戦が近い場所へと集う。
戦女神の神官達は、その時に必ず周囲の人間に告げる単語がある。
それが、ベレントが今まさに言った“戦の風”だ。
「しかし、どうにも定まらん。戦の風は吹いておるが、その方向が分からんのだ。このようなことは初めてだ」
戦を仕掛けるとなると、相手が必要となる。
神官達はその方向、つまりミシェイレイラが敵と定めている国が分からないので困惑しているのだ。
「間違い……では、なさそうですね」
同じように困惑を滲ませ、アリアは呟く。
ミシェイレイラは王を頂点とした専制君主制ではあるが、宗教国家でもある。
国の主神と定めたエルシルはそもそも戦を良しとせず、平和であれと説いている神だ。エルシル神が積極的に敵対するのは不浄なる不死者達以外にない。
「ミシェイレイラが戦の準備をすると言っても……不死者達はどこに?」
アリアの呟きは、室内にいる全ての者が持つ疑問だ。
しかし、その答えを持つ者はいない。
「……詳しい話を、村長から聞くべきだ。ミシェイレイラの司祭が村長とともに村を捨てて逃げ出すなんて、異常だよ。きちんと確認しないとダメだ」
クルトはそう言い、村長代理となっているフェルナンを見る。
フェルナンはその視線に思案するようにしばし目を閉じてから、一つ頷く。
「その通りですな。では、呼びに行かせましょう」
そう言って、フェルナンは扉から出ていく。
志希はその背中を見送りながら、口を開く。
「ミリア、覚悟しておいた方がいいかもしれない」
「どうしたの? シキ」
唐突な言葉に、ミリアは問い返す。
その彼女に、志希は躊躇いを振り切るように口を開く。
「時間切れを、覚悟した方が良い」
「時間切れって……」
ミリアは戸惑っていたが、直ぐに表情を強張らせる。
それを見て取ったカズヤはしばし考えた後、直ぐに青ざめ問いかける。
「……フェイリアスのアレが繋がってるって事か?」
志希は頷き、唇を噛む。
「でも、あの時には倒したじゃねぇか」
カズヤの反論に、志希は険しい表情のまま問いかける。
「私はきちんと確認してないから何とも言えないけど、もし何らかの手段で相手が情報を手に入れていたら?」
「それはあり得ない、と言いたい所だが……」
カズヤは何とも言えない表情で言葉を詰まらせ、思案し始める。
基本的に、死んでしまえば情報を伝える事は出来ない。
情報を残していた可能性もあるが、あの時のレッドウルフの変異種は絶対的優位を確信した表情を浮かべたまま自分が倒された事も気づかず死んでいたらしい。
順当に考えれば情報を送ろうともしなかったであろうと推測できる。だがしかし、どう考えても符号が合い過ぎるのだ。
ソラヤのヴァンパイア化にしても、偶然にしては出来過ぎている。彼女がイザークと同郷である事は、ソラヤが大いに喧伝して歩いていた。
冒険者ギルドに居座ったり、わざわざ図書館まで探しに来てイザークに甘えた姿を見せていたのだから、間違いない。
ヴァンパイアの下僕と化している人間がもし情報収集をしていたとすれば、ソラヤが目を付けられる可能性も高かっただろう。
「確かに、可能性としてはあるな」
しばしの間の後、イザークが静かな声音で頷く。
「あり得ないと切って捨てる事は簡単だが、その可能性を考慮に入れて動かなければまずい事になるだろう。アリアもミリアも、そして俺達も覚悟を決めていかねばならん」
静かなイザークの言葉に、ミリアは青ざめながらも目を炯々と光らせて口を開く。
「ミシェイレイラの戦に、便乗するという事になるのかしら?」
「なる、と言いたいが……」
アリアの問いに、珍しくイザークが口ごもる。
確証のない推測を口にしようとして、躊躇ったかのようだ。
否、実際そうなのだろう。
口元を押さえ、イザークは思案の表情を浮かべている。
そしてその躊躇いは、ミリアとアリアを不安にさせる。
「何か、良くない事でも……」
「おぬしら小声で話をしているが、何か心当たりでもあるのかの?」
アリアの問いかけを遮り、エドワードが訝しげな表情で問いかける。
ミシェイレイラの話が出てから、仲間達で内緒話をしているのだから当然だろう。
志希は事情を話そうと口を開きかけ、やめる。
ミリア個人の事情と言う事もあるが、それ以上に魔神に近い存在であるヴァンパイアロードの事を軽々しく口に出す事などできない。
この場にいる人間達を信用していないわけではないが確証と言えるものは無く、志希の勘としか言いようがない。
志希はなんと言うべきかと困っていると、カズヤが口を開く。
「ある、かも知れねぇけど確証がもてねぇ」
ミリアの事もあるので、カズヤは曖昧な返事をする。
エドワードはカズヤの返答に訝しげな表情を浮かべ更に問いかけようとするが、それより早くフェルナンが戻ってきた。
その後ろには見知らぬ司祭と、疲れた様な表情を浮かべた初老の男性が続いて入ってきた。
司祭は若干憔悴したような表情を浮かべていたが、ミリアを見て目を見開く。
ミリアもまた、司祭を見て思わず腰を浮かせている。
「エステル司教様!?」
思わずそう呼びかけたミリアに、エステルと言う司祭は顔を歪ませミリアの前に駆け寄り跪く。
「ミリエリア様! ご無事で、いらっしゃったのですね!」
ミリアの手を取り、感涙に咽び泣くエステル司祭にミリアもまた目を潤ませる。
「ええ、エステル様がくださった聖印が私を守ってくださりました」
「それは、ようございました」
嗚咽を零し、ミリアの手を額に当てて泣くエステルの姿にナディアが前に進み出てそっとエステルの背中を撫でる。
「こちらはミリア神官です、エステル司祭」
ナディアの言葉にエステルは目を見開き、そしてぼろぼろと更に涙を零しながら口を開く。
「いいえ、このお方はミシェイレイラ神聖国の聖女。神聖大公一の姫であらせられる、ミリエリア姫です」
エステルはナディアにそう告げ、ミリアをひたと見据える。
「姫、どうぞこのままミシェイレイラを捨てどこぞへとお逃げください。ミシェイレイラは、もう終わりです」
エステルの確信を持った言葉に、全員が息を飲む。
何せ、彼女の言葉も行動も何もかもが唐突だ。
だというのに、エステルは自身の言っている言葉に絶対の自信を持っている。
正気の沙汰とは思えない言葉の内容に、しかしミリアは取り乱す事もなく深呼吸を一つして口を開く。
「エステル司教様、何が起きているのかを順序立ててお話しくださいませんか? それに、ナディア司祭がおっしゃるように、わたしは今は一介の冒険者です。神聖大公は取り潰され、わたしは聖女の身分を剥奪されております」
この場にいる全員に身分がばれてしまった事に対する怒りも何もなく、ただただ穏やかなその声音と表情にエステルは感極まる。
先ほど以上の声を上げ、おいおいと号泣し始めてしまったエステル。
何があったのかを問い質したくても、興奮してしまっている以上無理だろう。
その最中、初老の男性がおずおずと手を上げ口を開く。
「あの……わたしも呼ばれましたが、申し訳ありません。我々はエステル司祭様のお言葉を信じてこちらまで逃げた次第でありまして」
申し訳なさそうな初老の男性の言葉に、一同は泣きじゃくるエステルを見て困った表情を浮かべる。
早く事態を聞きたいというのが本音だが、法術で無理やり落ち着かせても興奮すれば元の木阿弥になる。
「では、落ち着くまで待つとするかの」
この場の全員の総意をエドワードが口にし、深い溜息を吐くのであった。