第八十六話
「光と秩序を司るヴァルディル神よ、我らの前にある理を外れた哀れな亡者達に御身の怒りを与えたまえ」
「大地を司る豊穣神エルシルよ、御身の慈悲を死にながら生きる者達に与えたまえ」
周囲をアンデッド達に囲まれているのだが、気が付けばその外側にフェルナンとナディア、それにブラドとエドワードに数人の神官達が居た。
「いつの間に!? ダレン、避けなさい!」
ソラヤは驚くが、直ぐにダレンに指示を出す。
ダレンがソラヤの指示に従い直ぐに横へと飛び退いた直後、その場所に大きな雷が走る。
「勘の良い奴だ」
ブラドが舌打ちし、エドワードが苦笑する。
「仕方なかろう、生まれたてとはいえヴァンパイアじゃ。それに元はアールヴのようだしの」
エドワードの言葉に顔をしかめながら、ブラドは鼻を鳴らす。
そんな彼等にソラヤは舌打ちをして、ダレンが持ってきた己の腕と細突剣を受け取る。
「仕方ないわね。ダレン、イザークを捕まえなさい。捕まえたら即、撤退するわ。お前達は、人間達を足止めなさい。わたし達に近寄らせては駄目よ」
「はい、ソラヤ様」
ダレンは頷き、イザークの前へと躍り出る。
アンデッド達は言葉も無く、うめき声を上げながらソラヤの言葉に従い志希達だけではなくフェルナン達を襲いだす。
そんなアンデッドの群れを神官とブラド、エドワード達はフェルナンとナディアを護りながら戦う。
幾分か敵が減り、楽になったカズヤ達。
ナディアとフェルナンの司祭二人による鎮魂の祝詞で、アンデッド達の動きは鈍くなっている。
だがそれでも、数の暴力には抗う事は難しい。
イザークはダレンが加わった事でさらに責め立てられ、捌き切れずにグールの爪での攻撃を受けてしまう。
肩を覆う鎧のお陰で体まで届かなかったが、苦境なのは変わらない。
志希は精霊達に指示を出しながら、どうするかを悩む。
幾度か攻撃を受け、服を破かれ皮膚に血を滲ませるアリア。
カズヤもまた、頬に血を滲ませている。
ミリアは怒りに顔を歪ませ、大鎌を粗い太刀筋で振りリビングデッドを倒す。
エドワードやブラドもこちらに合流しようとしてか、アンデッド達に立ち向かっているが中々思うようにいかず、フェルナンとナディアの祈りはソラヤとダレンには何の痛痒も与えていない。
こちらが消耗するばかりで全くソラヤにダメージを与えられない状態に、志希は唇を噛みしめる。
「……仕方あるまい」
小さく、イザークが呟く声がナディアとフェルナンの祈りの声に混じって、志希には聞こえた。
イザークが何かを決断したと理解した瞬間、志希は叫ぶ。
「駄目、駄目だよ! それくらいなら私がどうにかする!」
イザークの決断は、魔剣の力を不完全ながらも解放する事なのであろうことは想像に難くない。
魔剣を使えばイザークの生命力は失われ、もし無茶な使い方をすれば死んでしまいかねない物なはずだ。
志希は自分が出し惜しみをしたせいで皆が傷ついているのは本当に正しいのか、疑問を感じていた。
出来る事があるのに何もせず、皆の血を流して生きて行くのは間違っているのではないか? そう自問自答していたのだ。
そして、イザークが魔剣を使おうとしている。
下手をすれば死んでしまう可能性がある危険な物を、自分が何もしないせいで使わせてしまうのは耐えられない。
だからこそ、志希は強く想う。
「私は絶対、諦めない!」
志希の言葉に、けたたましい哄笑を上げるソラヤ。
「諦めなかったから、どうなると言うの? わたしに殺される事は変わらない、誰もわたしを止めることなんてできないわ!」
優越感に浸った表情を浮かべ、ソラヤが傲然と言い放った瞬間。
志希の背後の空間に、亀裂が走る。
そこから溢れ出るのは魔力とも、法力ともつかない純粋な力だ。
唐突なその変化に、ソラヤの表情は凍る。
否、ソラヤだけではなくその場にいる全員の動きが止まった。
アンデット達は亀裂から漏れ出でる力に押されて動きが止まり、意思ある者は亀裂から目を逸らせずにいる。
亀裂の奥から力が凝った様な指が縁に手をかけ、ゆっくりと亀裂を広げて行く。
渦を巻く力がアンデッドのみならず生者達を打ちのめし、立っている事すら難しい状態だ。
その中を、志希だけが立っている。
あまりにも強い風故か、額の布が千切れ飛び志希の額にある宝珠がさらけ出される。
同時に、開き切った亀裂からゆっくりと畏怖と威圧を振り捲きながら何者かがその姿を現す。
それを見たエドワードが目を極限にまで見開き、震える声で呟く。
「精霊王……」
志希の背後に現れたそれは名状し難い美しさを持つ、男とも女とも取れる姿を持った透き通った人影であった。
更に、その人影につき従うように数多の下位精霊や上位精霊が亀裂から人の目に見える程の力を纏い現れる。
精霊王は志希に礼を取り、次いで周囲に集う精霊達に語りかける。
『さぁ、我が同胞よ。我らの愛すべき子の願いを叶えようではないか!』
人影の言葉に精霊達は歓喜の声を上げ、アンデッド達に襲いかかる。
アンデッド達の数は多いが、上級精霊の強力な力に抗う事も出来ず次々に燃やされ、凍らされ、切り刻まれ、岩に貫かれていく。
「な……んなの……!?」
虐殺としか言いようのないその光景に、ソラヤが震えながら呟く。
瞬く間に周囲のリビングデッドやグール、グワルがただの死体に戻っていく。
怨霊にされた者達は、光の精霊や闇の精霊により人に害を及ぼす事が出来ない程に弱らされ、周囲を漂っている。
そして、精霊王がゆらりと前に出る。
『残るはお前達だ』
頭に響く言葉に、ソラヤは小さく悲鳴を上げる。
視線を寄こされただけで魂が縮みあがる程の恐怖を覚え、絶対的な力の差を見せつけられたソラヤは数歩後じさる。
恐怖に震え、ソラヤの足元が覚束ない。
その彼女を守る位置にダレンが移動し、身構える。
自我が無い故に、相手がどれほど強くても主を護る行動をするのだ。
『我らが愛しむ子を害なす者よ、永劫の苦しみに彷徨うが良い』
厳かに告げ、ゆっくりと手をソラヤへ伸ばそうとする精霊王。
しかし。
「待って!」
志希が精霊王を止める。
精霊王は志希の方に向き直り、不思議そうに小首を傾げる。
『何故止めるのだ? 雛鳥よ』
「助力、感謝しています。でも、彼女達を倒すのは私達の役目です」
畏怖と威圧をまき散らす精霊王に、志希は凛とした眼差しと表情で告げる。
『……そうか、雛鳥よ。そなたはまだ卵から孵ったばかり故、同胞たちを制御できなんだか』
精霊王は納得したように頷き、苦笑の様な思惟を周囲に伝える。
『しかし、良いのか? 我が戻れば再び現界するには、瞬きの時間が必要になるぞ?』
問いかける精霊王の言葉に志希は一瞬考え、そして頷く。
「はい、構いません。貴方をこれ程長い時間人界に存在させる事こそが、危険です」
『雛鳥の為ならば、その辺りは構う事ではない。だが、雛が成長する為にはいた仕方ない事か。では瞬きの時間、有意義に過ごせよ愛し子よ』
精霊王が優しく志希に告げ、ふわりと彼女の額にある『神凪の鳥』の証しに触れる。
その直後、目に見える程となっていた精霊達と精霊王は、証しに吸い込まれるようにして消えていった。
嵐が過ぎ去ったあとの様な静寂が横たわり、誰もが呆然と志希を見つめている。
ただ一人、この事態を引き起こした志希だけは苦い表情を浮かべていた。
精霊王が召喚されたのは、志希の焦りを受け取った精霊達が為した事だからだ。
数の暴力にさらされ、精霊達に注意を払っていなかったが故に精霊達は暴走した。
志希の為に、この事態を収束できる存在を精霊界から喚び込んだのだ。
上位精霊なり、中位精霊なりを複数召喚したのであればなんとでも言い訳が利く。
だがしかし、精霊達は志希に傷一つ付けずに事態を収束させる為、複数の精霊ではなく精霊を統括する精霊王を選んでしまった。
精霊王は、自然その物を司る存在だ。
本来ならば召喚されたその瞬間に、今だ不安定な人界は揺れてしまう。
世界が動くと様々な災害が起こり、下手をすれば国が二つ三つ滅ぶほどだ。
だがしかし、『神凪の鳥』が存在している場合は違う。
人界は安定し、精霊王の強烈な力を取りこみ穏やかに放出するのだ。
しかしそれでも、精霊王が人界に顕現するには様々な弊害がある。
今回の様に精霊達が喚び出すと言うことは極めて稀で、尚且つ精霊王と世界に物凄い負担がかかってしまう。
その為、精霊王は以後数百年前後は人界に現れる事が出来ない。
しかし精霊王と精霊達にとって、その時間は瞬きの間としか感じられない。
だからこそ、精霊達は単純に一番強い精霊王を呼んでしまったのだ。
しっかりと精霊達を制御できなかった事を悔いていた志希だが、直ぐに気持ちを切り替える。
「反省は後!」
腹に力を入れて自分に言い聞かせ、長棍を構える志希。
その言葉に、いち早く正気に戻ったのは志希に睨まれているソラヤだ。
「は……あははははは! 何が反省は後、よ。わたしを殺す事が出来たチャンスを、わざわざ自分で潰すなんて馬鹿な餓鬼ね!」
哄笑を上げ、ソラヤは直ぐ側に控えているダレンを見る。
「さぁ、ダレン。わたしの為に、こいつらを皆殺しにして!」
「はい、ソラヤ様」
淡々と、感情のこもらない声でダレンは諾と答え駆け出す。
目指すはイザークではなく、カズヤだ。
不意をつかれたカズヤはしかし、突っ込んでくるだけのダレンの攻撃を素早く回避する。
その間に、ソラヤが小さく呪文の詠唱を始めていた。
志希はそれに気が付き、咄嗟にミリアに声をかける。
「ミリア、この場の浄化をして! ここの場に留まっている穢れた魂を浄化してしまえば、未熟な死霊術師のソラヤは何もできなくなる!」
ミリアは志希にかけられた言葉に反応せず、大鎌を構えてダレンへ接敵するなり斬撃を浴びせかける。
それを見た志希は驚くが、直ぐに前に駆けだす。
ソラヤが詠唱している呪文は、穢れに苦しみ悶える死霊達を更に苦しめ、操る為の呪文だ。
志希はそれを邪魔する為に前に出て、ソラヤに攻撃を仕掛けるつもりなのだ。
それを見たソラヤは呪文を唱えながら口角を上げ、無用な物となった自身の腕から細突剣をもぎ取り構える。
ソラヤは余裕の表情で志希を迎え撃とうとした瞬間、彼女の直ぐ横に黒い外套が翻っていた。
「油断は禁物だと教えられなかったか?」
低い、恐ろしい程冷徹な声音がソラヤの間近で聞こえた。
ソラヤが驚愕した表情を浮かべて声の方向を見たと同時に、鈍い光が彼女の体を走る。
斜めに走った線に従い、ソラヤの体はずるりとずれる。
驚愕の表情を張り付けたままソラヤの上半身は地面にぐちゃりと音をたてて落ち、断面から血をしぶかせる。
「ああぁぁ……!」
信じられないと言った表情を浮かべるソラヤは、大剣の血を払うイザークを見る。
「何故、どうして!? イザークはわたしの物になる運命なのに、どうして拒絶するの!? わたしを助けて、わたしを愛して! イザーク、わたしの為にあのハーフアルフを殺して捧げて!」
腕を失い、胸元だけになったソラヤは懇願の形を取った命令を口にする。
しかし、イザークはそんなソラヤの言葉に耳をかさずに、口を開く。
「貴様の妄想に付き合うつもりはない」
冷淡な声音に、ソラヤはがくがくと震える。
自分がここで殺されると、ようやく理解したのだ。
「いや、いやぁ! わたしは特別なのよ、お父様がそう言ったわ! お父様が、直ぐに来てくれる! お父様が直ぐに助けに来てくれるわ!」
ソラヤは身動きを取ろうとするが、動く事が出来ない。
断裂させられた下半身は動かず、体を再生させる為には生き血が必要だ。
「ダレン、ダレン―!」
己の手足になるべき下僕の名前を叫ぶが、一向に側に来る気配が無い。
その事に焦っているソラヤに向かって、ミリアが歩み寄って来る。
先程襲ってきたダレンを、彼女は大鎌で切り裂き浄化してしまったのだ。
「ダレンって言う神官見習いなら、もうとっくにエルシル様の御許に送ったわ」
ミリアの言葉に目を見開き、ソラヤはミリアの方を見る。
緑の光を帯びた大鎌をゆっくりと振りかぶり、ミリアは無表情でソラヤを見下ろしている。
「貴方も、エルシル様の身元で眠ると良いわ」
ミリアのその声音も表情も、死者の安らかな眠りを祈るようなものではない。
憎々しげに、怒りを堪えた様なものであった。
「いやよ、いや! わたしは、わたしはあああああ!!」
絶叫するソラヤの額に、ミリアが大鎌の先を突き刺す。
その瞬間、ソラヤの体はびくりと震え目を見開く。
ミリアの大鎌が帯びるエルシルの加護の光がソラヤの体を包み、ゆっくりと灰へと変えて行く。
それでも何かを必死で言っているソラヤに対し、ミリアは口を開く。
「大地母神エルシルよ、御身の慈悲をこの者に」
怒りと言うよりも憎しみの表情を浮かべながらではあるが、祈りの詞を紡ぎ出すとソラヤの胸元だけではなく立ちつくしていた体の部分もさらさらと灰になり崩れて行く。
志希はゆっくりと歩き出し、ソラヤを見下ろす。
ソラヤは志希の姿を見る事が出来たが、なんの意思表示もする事が出来ないまま灰になり空に舞い散る。
灰は緑の光に包まれ、浄化されて消える。
あまりにもあっけない惨劇の幕切れに、志希は深く息を吐く。
張っていた気が抜けると同時に、志希はぐらりと目眩を感じた。
あっと思った時には足の力が抜け、目の前が真っ暗になる。
大きなぬくもりに包まれたのを感じながら、志希の意識はそのまま途切れてしまった。