第三十七話
イザークとカズヤはミリアの一角が崩れたのに気が付いてはいたが、相手にしているレッドウルフの連携でその場を離れる事が出来なかった。
ここで動けば、レッドウルフ達は直ぐに弱い志希やミリアに襲いかかるのが目に見えていたからだ。
だからこそ、アリアや志希に出来るだけ周囲のレッドウルフの数を減らすようにと指示を出したのだ。
しかし、そこで耳に届いた言葉に事態が急変してしまう。
レッドウルフの変異体が口にした“主の探し物”と言う単語に反応してか、アリアが高速詠唱を始めた。
アリアが天才児であるとは聞いていたが、この若さで高速詠唱が出来る程の技術を持っていた事にイザークは驚く。
高速詠唱は力ある言葉を短縮しながらも、本来の意味を短く凝縮するものだ。
魔術師としての技量が高くなくては到底習得できず、出来たとしても扱うのが難しい。
それを使って放たれた魔術もまた、イザークもカズヤも知らぬものであった。
同時に、寒気がするほどの魔力が凝縮するのを感じた二人はこんな近距離で発動させる魔術では無い事を悟る。
下手をすれば仲間を巻き込みかねない程、危険な物だ。
しかし、日焼け程度の熱さしか感じない事に疑問を感じていると、背後のアリアが警告を発した。
「その場から、動かないでください……! 制御が、利かなくなるから」
一瞬とも永遠とも思える光の爆発の後、イザークは目を開ける。
目の前には目を潰されたらしいレッドウルフが泡を吹き、力無く吠えていた。
それはカズヤの方も同様で、目を開けた彼と頷きあい無抵抗なレッドウルフを始末していると、杖を落とす音が聞こえた。
「そ、そんな……!」
アリアの声音には、色濃い絶望が含まれている。
イザークが後ろを振り返ると、真紅の毛皮を焼け焦がせた変異種が膝をつきながらも足元を見降ろしていた。
アリアはその光景にへたり込み、体を震わせている。
その彼等の目の前で、変異種は己の足元で動こうとする志希を鋭い爪で掴みあげる。
余りにも無造作にされた行動により、志希の体に爪の先がずぶりと音を立てて突き刺さる。
「ああああ!」
志希の悲鳴が響き渡り、イザークは咄嗟に斬りかかろうとするが変異種は志希を盾にする事で行動を防ぐ。
「貴様……!」
志希の足を伝い、鮮血が下のミリアにぼたぼたと降り注いでいく。
「弱いものほど、よく吠える。まぁ、貴様らと遊んでいる暇はない。我が主の探し物が見つかっためでたき日だ、見逃してやるからどこへなりとも逃げるが良い」
変異種はにんまりと笑いながら、爪に力を入れる。
「あぁぁぁ!」
志希は激痛で悲鳴を上げ、体を震わせる。
その悲鳴と血の臭いに愉悦の表情を獣貌に浮かべ、満足そうに笑う
「主を召喚するには、贄が必要だ。この人間の小娘は処女故、主様も大層お悦びになろう」
「んな事させるかよ!」
忍び足で変異種の横手に来ていたカズヤは、志希を持つ腕に長剣を振り下ろす。
だがしかし、強靭な筋肉で受け止められ切り裂く事が出来ない。
「ッ……!?」
思わず驚き、硬直したカズヤは変異種の蹴りをまともに受けて吹き飛ばされ、背中を大木に強打して地面に崩れ落ちる。
「く、糞……」
朦朧とした声音で悪態をつくが、体を動かす事が出来ないでいる。
その時、アリアが再び杖を持ち立ちあがる。
「姉さんを渡しませんし、シキさんも贄になんかさせません!」
体を震わせながら、精いっぱいの虚勢を張ってアリアは怒鳴る。
その姿に変異種は毛皮を再生させながら、目を細める。
「ククク……聖女の妹もまた、特殊なものであるとは聞いていたが本当だな。いまの時代、あの魔術をあそこまで制御できるもの等そうはおるまい。良く姉とこの娘を焼き殺さずにいたと、褒めてやろう。もっとも、魔力の練りが甘いがな」
変異種は嘲笑しながらも、更に志希の体の中へと爪を進ませ出血を促す。
志希の着ている服の全ては鮮血に染まり、かなり危険な状況である事がうかがえる。
志希はもう身動ぎ一つせず、見えている肌の部分は青白く染まっている。
イザークは大剣で斬りかかろうとするのだが、それを志希を盾にする事で牽制されてしまい手も足も出ない。
「姉さん、起きてください姉さん! 良いんですか? ここでこのまま寝ていて! このままだと、姉さんの目的が果たせませんよ!」
アリアがミリアに必死の声音で呼びかけると、彼女の体が小さく動く。
それを見た変異種は、ミリアの体をうつ伏せにして軽く足を乗せる。
これだけの事で、ミリアは身動きが取れなくなる。
「主の花嫁ではあるが、暴れられては困る」
「……やって、くれるわね」
小さく、呻くようにミリアが呟く。
アリアの呼びかけと、志希の血をかけられたことで意識を取り戻したのであろう。
「もう一度、先ほどの魔術を使うか? 現代では使い手のいない魔術を、不完全ながら放った魔術師よ。その対価は我の消滅だけではなく、主の花嫁と贄の消滅だぞ?」
楽しげに笑いながら、志希を掴む手をほんの少しだけ動かす。
ほんの少し、体の中を爪でかき混ぜられ志希はびくんっと震える。
「ぃや……」
志希が力ない声を上げ、手を動かそうとする。
その瞬間、ざわりと空気が変わった。
突然風が吹き荒れ、地鳴りが響き始める。
山の木々がざわざわと梢を鳴らし、光と闇の精霊が実体化して明滅する。
突然の異変に、変異種が驚きミリアを押さえつけている足の力を抜いてしまう。
ミリアはこの隙を見逃さず、体をひねって手を突き出す。
「力よ弾け!」
ミリアの手から純粋な力が撃ち出され、変異種はその攻撃でミリアの上からよろめきながら退いてしまう。
その瞬間を見逃さず、大剣を構えていたイザークは駆け出し大剣を振り被る。
イザークの行動に気が付いた変異種が、志希を持つ手でその刃を受け止めようとした瞬間。
「フの力は光」
と、イザークが呟いた瞬間に地鳴りが止まり、吹き荒れていた風がまるで大剣に吸い込まれるようにまとわりつく。
ざわめく木々は静まり、光と闇の精霊達もまた姿を消しさる。
まるで、イザークの言葉が引き金になったように異変が収まる。
それと同時に、その剣身が柔らかな光を纏う。
「イザークさん!?」
驚くアリアの声。
イザークが志希ごと変異種を斬り捨てるとばかりに上段から大剣を振り降ろそうとするのが、彼女の眼には映っていたのだ。
しかし、それを間近で見ていた志希は何故か酷く安らかな気持ちになる。
イザークの大剣が纏う光のせいなのかとも思ったが、それ以上にイザークの黄金の目が語っているのだ。
『信じろ』と、ただそれだけを訴えている。
志希はその目に、小さく頷く。
大量出血で意識も朦朧としているが、イザークのその目は間違いないと志希は感じたままに笑みを浮かべる。
志希のその表情を見つめたまま、イザークは光を纏う大剣を振り下ろす。
光を纏う剣身は変異種の体を縦に割るが、不思議な事に志希の体には傷一つつけていない。
その一撃で絶命した変異種の表情は、先ほどまで浮かべていた嘲笑のままだ。
恐らく、自分がどうなっているのかも知覚出来ないまま死んだのだろう。
変異種の爪が体に突き刺さったまま落下する志希を、イザークが受け止める。
死人と見紛う程の土気色の肌と、低い体温。
「シキ!」
思わず、と言ったようにイザークが声を荒げる。
ぼんやりとした表情で志希はイザークを見上げていたが、ふっと苦笑を浮かべる。
「だい、じょうぶ……ちょっと、寒くて、眠いだけ」
掠れた声で志希はそう返事をするが、イザークは険しい表情を浮かべる。
ぐっしょりと自身の血に濡れ、蒼白な志希の姿は死ぬのを待つだけの様にしか見えない。
「ミリア!」
声を荒げ、体を起こしているミリアの元へとイザークが志希を運ぶ。
痛みすら感じないのは、人体の構造としては大変危険な状態である事は経験上知っている。
それ故、イザークは慌てているのだ。
ミリアもまた、イザークが慌てた様子で志希を抱えて来るのを目にして顔色を変える。
「アリア、わたしは今動くの無理だから、悪いけどカズヤをつれて来て! イザークは、シキちゃんの体に刺さっている爪を抜いて!」
ミリアはアリアだけではなくイザークにも指示を出し、痛みに顔を顰めながら体を起こす。
その間にイザークは志希の体に突き刺さっている爪を外し、変異種の爪が折れて中に残っていないかを確認する為に血塗れのローブと革のベストを脱がせる。
元々白い肌が土気色になり、胸が辛うじて上下している状態だ。
ミリアは志希の状態を診て、思わず呟く。
「良く生きて……」
胸から腹にかけて、四つの穴が体に空いている状態だ。
しかもその穴からはなおも血が溢れ、ミリアの鼻は血だけでは無い異臭が混じっているのを嗅ぎわける。
「爪が体の中に残っている様子はないけど、内臓がやられているわ。わたしが使えるのは血を止めて、傷口を取り敢えずふさぐだけよ。出来るだけ死なせないようにする、それ以外ないわ。早急に戻って、神殿に運んで内臓を再生させる神聖魔法をかけるまでの時間稼ぎにしかならない」
ミリアの言葉に、イザークは頷く。
「死ななければ、どうとでもなる」
イザークの答えにミリアは一つ頷き、手を祈りの形に組んで祈りを捧げ始める。
「豊穣の女神エルシルよ……」
ミリアの祝詞と同時に、ふわりと彼女の体から柔らかい光が溢れる。
一瞬、ミリアの祝詞が途切れるが直ぐに詠唱を続ける。
祈りの形に組んでいた手を解き、志希に触れる。
「慈しみ深きその御心の欠片を、この者に与え給え」
祝詞を唱え終えると同時に、ミリアの体から溢れる光が志希の体を包み込み、傷口の肉を盛り上げ塞いでいく。
同時に志希の顔は若干血の気が戻り、苦しそうな表情が僅かに楽になっている。
イザークはその様に、思わず眉を潜める。
ミリアの祝詞は傷を負った時によく聞く小治癒の物だ。
しかし、光の強さや傷の治りの早さだけを見ると中治癒にしか見えない。
そう思っていると、ミリアが酷く腑に落ちない表情を浮かべて口を開く。
「わたしは、まだ中治癒の奇跡は使えない。なのにどうして……まるで、エルシル神が力を貸してくれたみたい」
ミリアの言葉にイザークは眉を潜めていると、アリアがふらふらとよろめきながらカズヤを支えて歩いているのが目に入る。
志希は取り敢えずは大丈夫だろうと判断し、そちらへ行こうと腰を浮かせ様とするがミリアが制止する。
「ああ、良いわ。わたしの方も、だいぶん楽になってるから」
そう言って、ミリアはややぎこちなくだが立ち上がりアリアの方へと足を踏み出す。
イザークはミリアのその姿に、一瞬目を瞠る。
変異種の叩きつけるような攻撃を受けたと言うのに、僅かな時間でもう立って歩けるのだ。
しかも、治癒の奇跡を自分に使った形跡もないままで。
ミリアが崩された瞬間に聞こえた音から、少なくとも五か所は骨折している筈だとイザークは確信している。
だと言うのに、痛むそぶりすら見せていないミリアはおかしい、とイザークは感じる。
強い精神の持ち主だとしても、痛みでその動きはもっと鈍ってもおかしくはないはずなのだ。
同時に、変異種がミリアに言っていた言葉を思い出す。
「……主の花嫁、聖女か」
小さく呟き、息を吐いて志希の服を整えようとして動きが止まる。
イザークの目の前で、大雑把に塞がっただけの傷口が滑らかな皮膚に覆われ痕跡一つなく綺麗に完治してしまう。
異常な自己治癒能力に驚き、確認するように指で触れるが傷口があったとは思えないほど滑らかな皮膚の感触しかしない。
イザークはしばし目を閉じ、深呼吸をしてから志希の服を整える。
目の前で起こった事に対する驚愕と、酷い疲労を感じながら立ちあがる。
「カズヤを癒したら、毛皮を剥いで戻るぞ」
疲労が滲んだイザークの言葉にカズヤが胡乱とした表情を浮かべるが、直ぐに頷く。
「分かった。毛皮剥ぎも仕事のうち、だからなぁ」
嫌そうな声音でカズヤは同意し、周辺を見回して深いため息をつく。
「ミリアは志希を診ながらで良いから、自分の傷を癒せ。アリアはゴーレムの追加を作って、毛皮を運ばせろ」
イザークは淡々と指示を出しながら、比較的傷の少ないレッドウルフを探してのろのろと仕事に取り掛かるのであった。