第三十六話
アイワナ山の麓にキャンプを張って、既に三日を過ぎている。
この間に分かった事は、レッドウルフは基本巣穴を持たない魔獣である事だけだ。
山の中には結構な数の足跡が残っていたが、巣穴らしき場所を発見できなかった。
それ故の判断である。
なので、山の中を歩き回り単独行動をしているレッドウルフやその他魔獣、襲ってきた獣などを倒しながら探索を続けていた。
だが、どうやらレッドウルフの方も自分達が狩られる側に立っているのに気が付いた様で、単独で行動するのではなく、だいたい二匹から三匹ほどの集団になって行動し始めた。
今日だけでも、既に九匹ものレッドウルフを殺してその皮を剥いで持ち歩いている。
血の臭いも何もないが、未だに毛皮を剥ぐ作業だけは慣れる事が出来ない志希は作業中のイザークから目を逸らし、血の気の引いた顔を泣きそうに歪ませている。
ミリアは魔獣ではあるがその魂が安らかに眠れるように、その骸に新たな生命をはぐくむ土となるように祈りを捧げている。
「これで、今の分は終わりだ」
憮然としながら、両手を真っ赤な血に染めたイザークがアリアに声をかける。
「はい、分かりました」
そう言って、アリアが杖を振り小さく固定化の魔法を唱える。
固定化の魔法は、一度かけると三日ほどは解ける事が無いのだ。
同時に消臭の魔法もかけている為、血生臭さはない。
だがしかし、燃えるような赤い毛皮が血の色にも見えて、志希は長く眺めていると気分が悪くなってしまうのだ。
「シキ、水をくれ」
鮮血を洗い流す為に水を欲しがるイザークに、志希は水袋を取り出し口を開けて彼を見る。
イザークは頷き、手を差し出す。
差し出された手に水をかけながら、じっと血を洗い流されていくのを見る。
透明な水が赤に染まり、音を立てて地面に滴り落ちて行く。
ばしゃばしゃと音を立てながら、イザークが手をこすり水を更に赤く染めつつ口を開く。
「幾分か、血には慣れたか?」
静かな問いかけに、志希は困った表情を浮かべる。
「まだ、ちょっと……」
苦手だと言う表情に、そうかとイザークは頷く。
[こちらに来てまだ一月……いや、二月ほどか。それくらいで二十年余り培ったモノを塗り替える事など出来はしまい]
イザークの言葉に、志希は顔を上げる。
[慌てるな。俺は、お前が許す限り傍にいて護る。ゆっくりと、覚えて行けばいい]
イザークの宥めるような優しい声音に、志希は素直に頷く。
実際、イザークは無理強いはしていない。
冒険に出るのはいつぐらいかと言う話は、皆に確認を取って調整している。
ここのところ過密スケジュールだったのは、志希に経験を積ませるという名目もあったのだろうが、実際は志希自身が望んでいたからだ。
早く足手纏いから脱却したい、という気持ちを汲んでくれていたからこその行動であったのだ。
しかし、戦闘後の死骸から毛皮を剥ぐと言う行為は、志希に思ったよりも衝撃を与えていた。
初日は血の気の引いた顔で必死に目を逸らし、その場で嘔吐しないように口を押さえ何も出来なかった。
その日は殆ど食事に手をつけられない状態であったが、翌日からは少量の食事をなんとか摂るように努力していた。
そして、必至で血の臭いに慣れて行こうと言う努力を始めていた。
だがしかし、嘔吐を必死でこらえ、水でイザークの手を洗う手伝いをするのが精いっぱいの様子で、とても志希に皮を剥ぐ作業を教える事など出来ない。
しかし、イザークはこれに関しては余り急いだそぶりは見せていなかった。
志希はそれに疑問を抱くが、問いかける事はしない。
正直、この作業を自分が出来るか自信がないからである。
問いかけてやれと言われたら、卒倒してしまいそうになるだろう。
そんな事を考えていると。
「シキ、終わったぞ」
とイザークが声をかけてくる。
「あ、うん」
志希は頷き、手元の水袋の口を閉める。
それを見ていたイザークは懐から取り出した布で手を拭いて、志希の背中を軽く叩く。
志希がまだ沈んでいるのに気が付いているからか、大きな掌から酷く優しく感じられる。
思わず志希は顔を上げてイザークを見上げると、彼は目を優しげに和ませて見降ろしていた。
その目を見た瞬間、志希の胸が一つ大きく跳ねる。
イザークの普段は冷徹な金の目が、優しく和むと酷く艶やかに見えるのだ。
同時に以前、二人で火の番をした時の事を思い出す。
焚き火の光に浮かぶ朱金の瞳と、彫の深い顔。
細い眉とすっと通った鼻梁に、バランス良く配置された薄い唇と切れ長の目。
鋭い氷刃の様な、触れれば切れてしまいそうな冷たい美貌が、優しく表情を緩ませて見つめられた。
あの時と同じく、優しく緩められた瞳に志希は酷く落ち着かない気持ちになる。
胸が早鐘を打ち、何故か頬に血が昇ってくる。
落ち着かないのであれば見なければ良いとは思うが、目を離す事が出来ない。
状況を忘れて志希はイザークをじっと見上げ、イザークは志希の目を覗き込むようにじっと見つめていると。
「おーい、そろそろ移動するぞ」
と、横からカズヤから声を掛けられる。
はっと正気に戻り、志希は赤面する。
先ほどまで気分が悪かった状態で、なお且つ凹んでいたはずなのだ。
だと言うのに、イザークの優しい瞳を見ただけでそれらを忘れてしまった事が酷く恥ずかしいと志希には感じられたのである。
イザークは突然赤面した志希に怪訝そうな表情を浮かべ、次いで苦笑を浮かべる。
「俺は、シキが仲間になってから色々と楽になったと思っている。それは忘れないでくれ」
そう言ってから頭をぽんぽんと撫でて、イザークは志希から視線を外す。
「ああ、今行く」
カズヤにそう応えるイザークに志希は何故か寂しさを感じるが、直ぐに頭を振ってカズヤの方へと早足で歩きだす。
どうやらイザークは志希が赤面した理由を、これからレッドウルフの群れを探して移動を始めると言うのにぼんやりしたからだと判断したらしい。
その事に安堵すると同時に、何故か胸がもやもやしてくる。
しかし、そのもやもやは自身への不甲斐なさで腹立たしく思っているからなのだろうと自己完結して、志希は一つ頷く。
「私、頑張るよイザーク!」
志希は隣に並んで歩いているイザークにいきなり宣言し、首に着けているチョーカーの宝珠に触れる。
「今すぐは無理だけど、こういうのもいつかできるようになる」
志希の宣言する言葉に、イザークは小さく息を吐いて彼女の頭をポンと撫でる。
「余り急ぐ必要はない。それに、女で大型の動物を捌ける者は戦士でもない限り無理だ。だから、そんなに気にするな」
イザークの励ましに、そうなのかと志希は目を丸くする。
「凄い力仕事、なんだぁ……」
志希の独白めいた呟きにイザークは苦笑しながら頷き、背中を叩く。
「毛皮の話はもう良いだろう。それより、周辺の策敵を頼むぞ」
イザークの言葉に頷き、志希は小声で精霊達に索敵をお願いする。
未だに普通の精霊使いを知らないのだが、それらしく見えるようにと工夫しているのである。
直ぐ様精霊達が志希の言葉通り、周辺に敵がいないかを探しに行く。
歩きながら精霊達を見送っていると、隣を歩くイザークがぐいっと肩を引っ張る。
「よそ見をしていると転ぶぞ」
イザークの注意に照れ笑いをしながら彼を見上げた瞬間、志希は精霊が伝えてきた言葉に表情を強張らせる。
その表情の変化に、イザークは背中の大剣を抜き放つと同時に志希が叫ぶ。
「直ぐ近くに、レッドウルフの群れと何かが居る!」
志希の警告の言葉に一瞬カズヤ達の動きが止まるが、直ぐにそれぞれ得物を構えて素早く打ち合わせどおりの陣形を作る。
「……来る」
志希の呟きが皆の耳に届いた瞬間、周囲の藪から鮮やかな赤が多数飛び出して来た。
先ほどまでは多くて三匹ほどだったレッドウルフが、群れで目の前に現れたのだ。
見える範囲で数十匹前後だが、その更に後方からゆっくりと二本の足で歩きながら姿を現す者がいた。
燃えるような赤い毛皮を身にまとった、狼その物の顔を持つ二足歩行の生物。
瞳は暗く淀んだ赤で、酸化した血の様な色だ。
「なんだ、アレ……」
思わず、と言った様にカズヤが呟く。
「レッドウルフが何らかの要因により、変異した種だと思います。時折、魔獣や人間が妖魔の様になってしまう事もあると文献に載っていました」
アリアが震えながらも冷静な声音で、動揺するカズヤに応える。
「変異種ってやつね。しかも知能も持っているみたいだから、厄介かも」
ミリアは言いながら、二足歩行のレッドウルフをちらりと見る。
変異種のレッドウルフが唸る度に、他のレッドウルフが襲いかかってくるのではなく囲むように動いている。
「……アリア、眠らせられるか?」
イザークの問いに、アリアは小さく答える。
「全部は無理ですが、少数ならなんとか」
アリアの返事に頷き、イザークは志希をちらりと見る。
「数を少し減らすぞ、出来るか?」
イザークの問いかけに、志希は頷く。
「出来ないと、危険だもん」
志希の返事にイザークは満足げに目を細め、大剣を構えて一歩前に出る。
真ん中が狭いと、アリアが魔法を構築している時に彼女の持つ杖にぶつかって、集中を乱してしまいかねないのだ。
志希達の準備が終わった瞬間、レッドウルフの群れの敵意が膨れる。
「行くぞ!」
「おう!」
イザークの言葉にカズヤが応じ、襲いかかってくるレッドウルフを刃で迎える。
キャウンというレッドウルフの悲鳴が響くが、そんな物にかまってなどいられない。
志希は口の中で小さく土の精霊に、レッドウルフとその変異体の足を掴んで止めてくれるようにとお願いする。
志希の言葉に土の精霊達は即座に動き、二十匹前後のレッドウルフと変異体の足を土で絡め取る。
しかし、レッドウルフの数体と変異体は土の精霊の戒めを力任せに振りほどき、笑う様に口を歪める。
「霧よ、彼の物たちを眠りへと誘え!」
アリアの魔術が完成し、戒めを逃れたレッドウルフとその周辺に白い霧を発生させる。
その霧に包まれたレッドウルフは眠っているのだが、その中の何頭かはやはり起きたまま威嚇の唸りを上げている。
「寝てくれませんか……」
アリアが悔しそうに呟き、すぐさま次の魔術の詠唱に入る。
ミリアもまた襲いかかってくるレッドウルフに大鎌を振るい、相手の戦力を削ろうと必死になっている。
鎌の一振るいで一匹を殺しても、直ぐさま次のレッドウルフが襲いかかってくる。
アリアと志希のおかげで敵の数が減ったとはいえ、現在の戦力差では厳しい戦いを強いられるのは必至だ。
「本気を出して行かないと、危険だわ!」
ミリアは大声で皆に警告しつつも、目の前のレッドウルフに刃を横薙ぎに振る。
レッドウルフは刃に前足を斬られ、悲鳴を上げて後退する。
動物としての本能が為す行動なのだが、それを咎める者がいたのがレッドウルフの不運である。
「誰が逃げて良いと言った」
二足歩行の変異種が意外に流暢な言葉遣いで、後退したレッドウルフを恫喝する。
傷を負ったレッドウルフは耳を伏せ、尻尾を足の間に入れて小さくキュウンと鳴きながら前に進み出る。
その光景に、アリアの精神集中が崩れ構築していた魔術が消える。
「……言葉を、喋った」
茫然と言った声音で呟くアリアに、カズヤが声をかける。
「アリア、氷でも何でもいいから攻撃魔術だ! 数減らさねぇと、寝てるのを起こされるぞ!」
カズヤの言葉にはっと正気に戻り、アリアは直ぐに精神を集中させて魔術を構築し始める。
「びっくりするのは良くある事だけど、いまの状況じゃ命取りよね!」
ミリアはまるで自分に言い聞かせるようにしながら、飛びかかってくるレッドウルフを切り捨てる。
「風の精霊、お願い!」
志希の声が響き、その意を酌み取り風の精霊達が奔る。
眠っているレッドウルフや、足を土の精霊に捕らわれているレッドウルフの数匹を風の刃で引き裂く。
鮮血が舞い、血の臭いが濃くなるが志希はしっかりと顔を上げて次にするべき事を探っている。
イザークもまた大剣を振るい、一撃でレッドウルフを無力化しながらどうするかと考えを巡らせていた。
変異種のレッドウルフが言葉を操る事が出来ると言う事は、知能も有しているのはまず間違いない。
いまはただレッドウルフの本能に任せた襲い方をさせているが、統率して一人に襲いかかってきた場合が困る。
イザークが思った瞬間、変異種が短く吠える。
その吠え声に従い、レッドウルフ達の動きが変わる。
いままでばらばらに襲いかかってきていたレッドウルフ達が、一人に複数匹で同時に襲いかかってくるのだ。
「ウソだろおい!?」
カズヤは焦った声を上げつつも、必死で対応する。
ミリアもカズヤと同じ様に焦燥に駆られた表情を浮かべ、大鎌でレッドウルフに傷を負わせるが踏み込みが甘く一撃で倒す事が出来ない。
イザークは至極冷静に大剣を片手で軽々と振るい一匹は葬ると同時に、他のレッドウルフを拳などで撃退する。
「氷よ、集いて氷柱となり降り注げ!」
そこでやっとアリアの魔術が完成し、周囲に展開しているレッドウルフ達に氷柱の雨が降る。
眠っているレッドウルフや負傷しているレッドウルフはこれで止めを刺されたが、拘束されているレッドウルフや怪我をしていなかった個体は警戒した唸り声を上げる。
明らかな劣勢は志希達の方なのだが、呪文使いの二人によりそれを覆している。
しばし状況を見ていたらしい変異種は再び短く吠え、身を低くする。
同時に、動けるレッドウルフの個体は素早く陣形を変える。
怪我をしているのもしていないのも、全てがカズヤとイザークに矛先を変えたのだ。
それに一瞬だけ気を取られたミリアは、前方から叩きつけられる殺気に気が付き慌てて前を見る。
その時にはすでに、変異種はミリアの目の前に移動しておりその腕を振り上げていた。
「風の精霊よ!」
志希はそれを目にした瞬間、叫ぶ。
鍛えられているとはいえ、ミリアより大きな巨体と毛皮の上からでも分かるほどの筋肉を備えている変異種だ。
その一撃を喰らわされただけで、下手をしたら死んでしまうかもしれない。
志希の意図を読んだ風の精霊は紫電を纏った風を作り、変異種の攻撃を防ごうとする。
だがしかし、風の精霊のその防壁を爪で切り裂きながら変異種は腕を振り下ろし、それに反応できずにいたミリアはまともにその攻撃に当たってしまう。
ミリアはその衝撃に悲鳴を上げる事も出来ずに地面に叩きつけられ、一度跳ねた後に止まる。
その際にミリアの法衣と鎖帷子が爪に引き裂かれ、背中の半ばから肩口まで露出させてしまう。
身じろぎ一つしないミリアのその姿に反応したのは志希とアリアだけではなく、変異種も足をとめて彼女の背を凝視する。
ミリアの白く滑らかなはずの肌には、黒い模様の様な物が見えていた。
それは酷く不吉で、神官が持つにはあり得ない程の穢れを内包しているのを志希は肌で感じた。
アリアは青ざめ、詠唱の言葉が途切れている状態だ。
「シキ!」
「アリア、魔術を!」
イザークとカズヤの呼びかけで志希は正気に戻り、長棍を構えて変異種を威嚇する為にミリアの元へと駆け寄る。
ミリアと変異種を隔てる位置に立つ志希に等目もくれず、二足歩行のレッドウルフは喉をゴロゴロと鳴らしながら嗤う。
「何と、何と何と! 我らは随分と運が良い!」
楽しげに、嬉しげに言葉を発する。
「力を下さった主様の探し物を、見つける事が出来たのだからな!」
変異種の言葉に、志希は思わず怪訝な表情を浮かべるが。
「氷よ、炎よ、土よ、風よ! 我が声を聞き、願いを叶えたまえ!」
アリアの高速詠唱の言葉が響き、魔力が変異種の前に凝縮する。
「彼のモノを滅ぼせ!」
悲鳴じみたアリアの詠唱は完成し、凝縮した魔力が強い光を放つ。
目の前で炸裂するそれに志希は咄嗟に目を閉じ、意識を失っているらしいミリアを庇うように体を被せる。
物凄い光と熱量に志希は悲鳴を噛み殺し、とにかくミリアを守る。
精霊達も志希の身を守る為に土の精霊と水の精霊、闇の精霊に植物の精霊が集い魔力と光を遮断する。
志希は火傷した様なじりじりした痛みを知覚しながら、光で潰された目を『神凪の鳥』の力で早く癒す。
目が見えなくては、直ぐに対応する事は出来ない。
そう思っていると、精霊達の緊張が解ける。これで志希は魔術の発動が終わったのに気が付き、握っている長棍を確かめてから状況を精霊達に確認しているとアリアの声が聞こえた。
「そ、そんな……!」
驚き、絶望に近い声音。
どうしたのかと志希が怪訝に思った瞬間、激痛が志希の体を駆け抜けた。