8.騒動の夜
部屋の扉が閉まる音が、異様に大きく響いた。
カチリ、と錠がかけられ、室内には静寂が戻る。
クラウスの目にはまだ涙が残っており、肩を震わせていた。
「殿下……。どうか、こちらに」
エマは、そっと手を差し出した。
その指先に、クラウスは視線を落とし――やがて、ためらうように触れた。
十四歳の少年、けれど少女のような白い手。
それを握ったエマの掌に、微かに力が入る。
「私が傍におります。今日は警備も厳重なので、大丈夫です」
クラウスの瞳が揺れた。
エマに導かれるまま、ゆっくりと歩き、ベッドに腰を下ろす。
けれど、シーツの上に横になることはしなかった。
背筋はいつもより丸まっていて、まるで触れたら壊れてしまいそうなほど、硬くこわばっている。
「……本当に、大丈夫だと思う?」
ぽつりと落とされた言葉。
それは、まだ幼さを残す声でありながら、ひどく静かで、真剣だった。
「また誰かが来るんじゃないかって……。そう思ったら、眠れそうにない……」
エマは膝をつき、そっと王子の足元に寄り添った。
「殿下は、今日……とても勇敢でした。恐怖の中で近衛騎士団を呼んでくれたじゃないですか。ここまで戻ってこられたのは、殿下の力です」
そう。クラウスは、魔法石で出来た緊急信号を送り、近衛騎士団を呼んでくれたのだ。
そうでなければ、あの男と一対一で闘っていたかと思うと、背筋が凍る。
あの男は、エマよりも強い。
直感でわかっていたが、王子を守らなければと必死で、怖気ずく暇などなかった。
「……それは、エマがいたからだよ」
クラウスは口を引き結び、わずかに目を伏せた。
ぽろりと大きな涙の粒が、王子の目からこぼれ落ちる。
エマの胸が、きゅうと痛んだ。
この子はまだ十四。
けれど、王子という名のもとに、知らぬ誰かに命を狙われた。
「……お願い。今夜は、離れないで。すぐそばにいて」
エマは頷いた。
問い返すまでもなかった。
「もちろんです。殿下が眠るまで、ずっとここにおります」
その言葉に、クラウスはようやく身を沈めるようにベッドに横たわった。
エマは椅子を近くから持ってきて座り、上掛の上から王子の手を握る。
「……手、温かい」
「殿下が冷たいのです。……でも、これもすぐに元に戻ります」
エマの声は、まるで春風のようにやさしかった。
王子の瞼が、ゆっくりとおりる。
「……エマ……?」
「はい、殿下」
「……ほんとは、子どもじゃないって思われたくて……背伸び、してた。でも、本当は怖かった……」
「殿下はもう、立派なお方です。でも……怖がっていいのです。私は、すべてを受け止めます」
「……じゃあ、今だけ……子どもで、いてもいい?」
「ええ。今だけでなく、ずっと……私にとっては、そうですから」
ふ、と空気がやわらいだ。
クラウスの呼吸が落ち着き、目元の緊張も緩んでいく。
エマは髪を一房、そっと指先でなでた。
けれど、自分の意識もまた、じわじわと沈んでいく。
先の闘いで、相当体力を消耗したらしい。
(駄目よ。ここは殿下の部屋で……)
こくりこくりとしてしまうのが、止められない。
とうとう、エマは抗えずに、目の前のベッドに顔を突っ伏した。
◆ ◆ ◆
すうすうと小さな寝息が聞こえる。
それを確認したクラウスは、目を開け、上半身を起こした。
エマが、軽く前かがみの姿勢のまま、寝台の端に頭を預けて眠っていた。
「エマ……」
呼んでも起きない。
(寝たか……)
だが、手は握られたままだ。
それに気づいて、ふっとクラウスは笑う。
次には、そんな自分に驚いて、目を見開いた。
そして、無表情の顔で、エマの顔を見る。
「何故、ここに居る? 本当の目的は?」
何故、自分を守ろうとする?
最初は、死神という名に好奇心で専属の侍女を続けているのかと思っていた。
だが、エマは『あなたを守りたいのです』と言う。
それは誤魔化しで、本当は王太子である自分が狙いなのかと、他人を引き付ける笑みをしても、夜にそばに居てと言っても、引っかからない。
では、この城が脆弱なのを知っていて、隣国の密偵か、自分の命を狙っているのかとも思ったが……、今日、命を助けられた。
(わからない)
だからと、エマの寝顔を見ながら思う。
(もう少し、様子をみよう)
隣国の令嬢であるエマが、自分を守る。と言ってくることが、クラウスにはわからなかった。
◆ ◆ ◆
夢とも現ともつかぬ深みにいた。
手に感じる自分とは違うそれに、エマはゆるやかに意識を浮かせた。
(……あれ……?)
目を開ける前に感じたのは、熱――
すぐに思い出す。
昨夜、クラウスのベッドの傍で、彼の手を握ったまま眠ってしまったのだ。
(……なんてことっ)
恥じ入りながらも、そっと顔を起こす。
その瞬間、エマの視界に入ったのは、まっすぐに自分を見つめている一対の瞳だった。
「……エマ」
それは囁きのような声だった。
けれど、明らかに眠りの奥から戻ってきた声で――頼るようでいた。
「……殿下……。おはようございます」
声を出すと、少し喉が乾いていた。
昨夜は、ろくに水も飲まず、彼の傍から一歩も離れなかった。
たとえ眠気が襲ってきても、手を離したくなかったのだ。
けれど――目覚めた王子は、彼女の手を離そうとしなかった。
エマの動きが止まる。
この年頃の少年としては、あまりにも静かで、あまりにも素直だった。
「……もう少しだけ、このままでもいい?」
その言葉は、小さく、息のように。
エマは答えなかった。
ただ、片手を上げて、彼の頭をやさしく撫でた。
子どもをあやすような手つきだった。
けれどそこには、哀れみも上下もない。
それは、心を委ねてくれたことへの――静かな感謝だった。
(殿下は、王子である前に、ひとりの少年なんだわ。そのことを、誰よりも忘れてはいけないわ……)
「……少しの間だけですよ。朝食の時刻には、きちんと起きていただきます」
エマの声に、クラウスはくすりと小さく笑った。
それが嬉しくて、愛しくて、けれどどこか切ない。
少年の手は、まだ細くて柔らかくて――。
それを包み込むたびに、心が痛くなる。
けれどその痛みは、嫌なものではなかった。
守りたいと思える痛み。抱きしめたくなる弱さ。
(あと少し。ほんの少しの間だけ)
そう心の中で自分に許しを与えながら、エマはクラウスの頭を撫で続ける。
目を閉じると、微かな心音と寝息が重なり、朝の気配がさらに優しくなったように感じた。
こうして過ごす朝が、少しでもこの子の心を癒すなら。
何度だって、こうして隣に寄り添おう。
ただの侍女ではなく、『王子が甘えてもよい唯一の場所』として――。